狼と踊ろう。

うなぎの

第1話

 昼だというのに、そこそこに込み合ったバーだった。

15分おきに欠伸あくびをする店主のネクタイは当然のように曲がっている。その向こう側に見える。吊るされたグラスの奥の棚に。狭しと並ぶ、名札の掛けられたいくつものボトル。その中身は、すでに蒸発しているものもあるだろう。

大きな窓を覆う布のブラインドは床と同じ色をして、隅の方はいくらかほつれ始めている。そこに、外から鋭く差し込む光がかすめ、くるりと回った奇妙な影を床に伸ばしていた

むかしは、今頃になると、カウンターに並べられた色とりどりの南蛮ガラスやら切子やらビードロやらが、幻想的な光のアートを、心身ともに健康だったかつての主人のうしろに映し出していたのだろう。それらは、時がたつにつれ段々と色褪せ、やがて、段々と中に埃が浮かんで、今ではすっかりその事すら忘れ去られていた。


「ジンを一杯くれ」


掠れて、今にも嘔吐しそうな様子でカウンターに突っ伏したままの客が言った。

オス側のマジックテープのような髭がびっしりと生えた顎が、元の場所に戻ると、たるんだ客の喉はいびきのような音を出す。

店主は、解く気も無いクロスワードパズルを、昨日の夜から乾いたままの流しのステンレスの角に乗せ、目の前に置いてあったウオッカの瓶を、毛の生えた太い指でしっかりとつかんで、掲げられたまま、鬱陶しく揺れるグラスに半分ほど注いだ。


瓶のキャップを締める前に、酒は、富士山のような形に意地汚く開かれた。口の中へ流し込まれる。喉の奥と、口と、鼻腔に広がるアルコールの匂いで一瞬息が止まり、男はこの時も強く生を実感した。

男は、口の脇からこぼれ出たウオッカの雫を親指で拭き上げ、再び、鼻の奥と、口内で広がる強い刺激を味わった。一度深く息を吸う、するとぐらぐらと、頭が揺れる気がした。実際に揺れている。加えて、薄暗い店内でナメクジのような光を放つ両目も小刻みに痙攣していた。男の右の眼は、空になってしまったグラスの中身を見ていて、その一方で、左の眼は、眉間にしわを寄せる頭の禿げた太った男をぼんやりと眺めていた。

「俺はジンをくれと言ったんだ」

しゃがれた声で男がそう言い放つと、目の前に瓶を置いたばかりだった店主は、まるで、苦虫でも嚙み潰したかのような顔をした。店主は、自らが招いた『不運』の自慢を他の客にも聞こえるように、両手を広げて。「驚いたね。酒の違いがわかる客が居たとはな」と言った。

「・・・わかるとも」

男は、そう答えて、グラスを持ったまま、また、カウンターに突っ伏し、彼の喉は、再びいびきのような音をたてた。文字通り一部始終を見ていた店主は、隠そうともせずに舌打ちし、解く気の無い、クロスワードパズルを手に取った。


からんからんからん・・・。


琥珀色の入り口が開いて、子気味良いカウベルの音が店内に響き渡る。束の間、入り口の扉に埋め込まれた緑と青の四角い細工ガラスが、かつての店の輝きを床へと映し出す。近くに座っている客も、店主も、誰も、それを見ようともしなかった。


聞き慣れない足音が、閉まる扉の音と共に狭いバーの中で響く。まるで、遊び気の無い、女用の小さな革靴の音だった。

「いらっしゃい、ウチにオレンジジュースは置いてないよ」

ひやかしか、親切心か、その、どちらにもとれる態度で店主が言った。女は、薄暗い店内にあって、微かな光を放つ眼鏡の奥から、じっくりと、辺りの様子を観察した。

徹頭徹尾、実用性に振り抜かれたその容姿は、まるで、ぴったりの服を着せられたブティックのマネキンか、そう言った役を演じる、時代遅れの監督にも一目置かれるストイックな舞台役者のような雰囲気を纏っている。

赤く塗られた唇が、思いのほか友好的にもだえて、店主へと向けられた。

「お構いなく。すぐに出ますから」

先程と異なり、店主は、明確な敵意を持って。

「ガキ好みのウインドウショッピングじゃないんだ」と、言い、続けて。「商売の邪魔をするなら今すぐ出てってくれ」と言った。

女は、ひるむことなく軽く頭を傾けて、右手を持ち上げた。

「では、この方と同じものを私にもくださるかしら?」

「まいど」

店主が新たなグラスを摘まみ上げて、染みついた習慣がそれを埃一つ無く磨き上げた。女は、うっすらと女らしさをあたりに漂わせて、椅子に座る。手にしていた、小さなバッグを膝に乗せると、目の前で、ウオッカが半分ほど注がれたグラスの底が堅苦しく音を立てた。

「頂きます」

女は、ためらう事無くウオッカを一気に煽った。

銀色の眼鏡の奥で、人形のような瞳が2~3開閉し、空になったグラスがもう一度音を立てると同時に、女は「ご馳走様」と言って、続けて、流れるような動きでグラスに残った口紅を親指でふき取った。 

半分死んでいた、店の客たちは、もれなく、その女に興味が湧いた。

「いい飲みっぷりだ」

となりで、うなだれたままの男の白目が、影の中で怪しく光って、女へ向けられた。次に、男の白目は店主へと向けられる。

「俺にも一杯くれ」

置いたばかりのウオッカのボトルをうんざりと持ち上げて、店主は、男のグラスに酒を注いだ。先ほどよりも、ずっと不格好にねじれた口がそれを迎えに行く。

途中、それを女が奪い去り、一気に煽った。

女の前に、空になったグラスが二つ並んだ。いよいよ、愉快になりだした男たちを前に、女は、何食わぬ顔で自分の要求を告げる事にした。

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狼と踊ろう。 うなぎの @unaginoryuusei

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