事務職中年男性の憂鬱

和泉茉樹

事務職中年男性の憂鬱

     ◆


 キャスパはウェザー冒険者事務所の実務管理者である。

 集合住宅で暮らしており、通勤時間は徒歩でほんの十分。途中のコーヒースタンドで飲み物と新聞を買うのが彼の常だった。

「キャスパ、景気はどう?」

 コーヒースタンドを経営している若者、ウッドの言葉に「ぼちぼちだよ」と答える。

「そっちはどうだ? コーヒーは儲かっているかね」

「最近はドーナツが売れる。ブームなんだ。うちでは四種類、売っていてね。意外に若い女の子が買いに来る。評判は上々だ」

「じゃあ、一つもらうよ。種類はどれでもいい」

 毎度あり、とウッドが笑顔で紙に包んだドーナツを即座に差し出してくる。新聞を小脇に挟み、片手にコーヒー、片手にドーナツを持ってスタンド離れる。

 職場がすぐに見えてくる。

 売り出し中の小さな冒険者事務所がウェザー冒険者事務所だった。所属している冒険者の数は八十名を超え、毎日のように所属希望の若者が来る。月々の収益は五〇〇万ダラーに達しようとしていて社屋を移転する噂もある。

 もし事務所が引っ越せば、通いづらくなるな。

 古傷の右足に違和感があり、キャスパは入り口で足を止め、膝を曲げ伸ばしした。

 痛まないようだ。考えすぎだ。

 次の瞬間、事務所のドアが開き、飛び出してきた若者がキャスパに衝突した。全くの不意打ちにキャスパが転倒し、コーヒーは地面にぶちまけられ、ドーナツはすっ飛んで行った。新聞はコーヒーの上に落ちた。

 飛び出してきた若者は「二度と来るか!」と喚き散らして走り去った。

 おっとりと出てきた事務所の警備員がキャスパに気づき、目を丸くする。

「大丈夫っすか、キャスパさん」

 コーヒーと新聞を見て、次に若者を目で追うのは無意味と悟り、キャスパは立ち上がろうとした。右膝に激痛が走り、地面に手をついてしまう。警備員はその様子にものほほんとしていた。

「なんですか、まさか怪我ですか? 元冒険者が、小僧っ子にぶつかられただけで?」

 現役を退いて十年だぞ、と正直に口するのは中止し、キャスパはやせ我慢で立ち上がった。

 ドーナツを探すと、野良猫が器用にくわえて走り去るところだった。

 どんよりとした気分でキャスパは新聞を拾い、警備員の脇を抜けて建物に入った。

 受付嬢が満面の笑みで挨拶した。

「おはようございます、ハーパーさん」

 足を止めたキャスパは、受付嬢に丁寧に答えた。

「ハーパーは先週、私が首にした部下だ。私はキャスパだ。実務管理者の」

 受付嬢は笑顔のままで堂々と答えた。

「失礼しました。おはようございます、キャスパさん」

「おはよう、マーシャ」

 痛む右足を引きずりながら、キャスパは執務室へ向かった。

 階段を上るだけのことに四苦八苦する自分に、キャスパは密かにため息をついた。


      ◆


 実務管理者とは、冒険者に仕事を割り振り、調整する役目である。

 冒険者は地下迷宮へ潜り、魔物を討伐し、魔物の持つ武器や、魔物の体を構成する鱗、骨などを回収することを収入源する。はるか深層に生息するという竜は、一頭を仕止めるだけで五十人が半年は裕福に過ごせる収入だ。

 地下迷宮を形作る岩石なども金になるし、冒険者の中の一部は傭兵と大差ない仕事をこなす。冒険者、探索者、傭兵、用心棒、どれも似たようなものだった。

 キャスパも元は冒険者で、事務所に所属していた。地下迷宮で戦い、魔物を仕留め、持ち帰り、ダラーに変え、その一部を事務所に収める。事務所は様々な仕事を都合し、冒険者時代のキャスパはほとんど休む暇もなかったほどだ。

 今になってみれば、あの冒険者事務所は隆盛を極めていたし、事務員たちも余裕があった。常に舞い込む仕事を整理し、割り振り、所属する冒険者を調整し、その上で楽しく、明るく日々を送っていた。

 では、今のキャスパがどうかといえば、汲々としていた。

 まずウェザー冒険者事務所が受ける仕事は厄介ごとばかりだ。所属する冒険者はわがままで、プライドだけは高く、ダラーをがめつく求めてくる。事務所の経営を考えろと言いたいが、所属している連中は余裕たっぷりに答える。

「キャスパさん、あんた、若い者に優しくしようとは思わんのか? それに、俺たちがいるからあんたが飯を食えることを忘れてもらっちゃ困る。それとも、俺たちが一斉に仕事を辞めてみようか? きっと困るぜ。事務所も潰れる。だろ?」

 キャスパはぐっと奥歯を噛み締め、「勝手なことを」と絞り出すように口にするのが限界だった。自分が現役だった頃は管理者に噛み付いたりしなかった。そんなことをすれば仕事を干される、と思ったこともないではないが、しかし、嚙みつかなかったのは事実だ。

 自分は弱気だったのだろうか。いや、地下迷宮では間違いなく、勇敢だった。

 それらももう過去の話だった。今のキャスパは事務の現場で仕事をして、若い者に反抗され、言いくるめられ、それを全部、聞いてやった上で地下迷宮に送り出すしかない。

 この日も出勤早々、部下の事務員がやってきた。部下と言っても二人しかいないが。

「キャスパさん、どうもヴァッテンさんのパーティから必要経費の催促が頻繁で。おかしいんですよ。仕事は回していますけど、あんなに経費はかかりませんよ。今、会議室で待ってます」

「お前、その経費請求の話、経理部に話したか? 話していないよな?」

「話せませんよ! 契約している冒険者を抑え込めていないって、実務部の責任になる」

「正確には部長ではもない私の責任に、だ。それに、もううちの責任だよ。いいか、ヴァッテンには経費では落ちない、どこに話をしても落ちないと言ってやれ。もし文句があるなら契約は解除だと強気に出ろ」

「ええぇぇぇ」部下が情けない声を出す。「僕が言うんですか? キャスパさん、お願いしますよ。僕は根っからの事務員です。剣なんてもったこともないし、魔物を狩ったこともない。キャスパさんは元は現場にいたんでしょう。僕より最適です。立場も違う」

「現場のわからない奴が実務管理の仕事をするとは世も末だな。この書類を作っておけ。間違えるなよ」

 執務室の椅子から立ち上がると、右足に激痛が走り、息が詰まる。舌打ちしてから、椅子に部下を座らせてデスクに書類を並べてやり、キャスパは執務室を出た。

 事務所の建物には大小の様々な会議室がある。小さな部屋は四人が入ればいっぱいになるが、そんな部屋が用意されているのは、話し合いの場に十人を超える冒険者パーティが勢ぞろいするのを防ぐのが理由だった。

 実際、個室の一つに入ると、冒険者パーティからはリーダのヴァッテンと部下二人しかいなかった。三対一なら安いもんだ、とキャスパは胸を張って空いている席に腰掛けた。

「キャスパさん、契約の上では経費は請求できるよな」

 ヴァッテンが挨拶もせずに切り出してくる。血気盛んを通り越して礼儀知らずじゃないか。キャスパはこれ見よがしに咳払いして、言葉を発した。堂々とした、威厳に満ちた口調を意識した。キャスパは雇っている側で、相手は雇われている立場だ。

「経費では落ちん。領収書を見せてみろ。いいか、飲食は経費に含まれないし、装備の調達も全額は補填されない。家賃もだ。ほら、領収書を見せろ」

「これだ」

 自信たっぷりのヴァッテンに虚を突かれながら、キャスパは領収書を受け取った。

 見てみると、医薬品の領収書だった。サインしている薬屋はキャスパも知っている店で、規模こそ大きくないが幅広い薬を調達してくれる。

 ヴァッテンが身を乗り出し、凄むように声を発する。

「薬を買う金は事務所が補填するはずだ。俺たちは魔物の相手をすれば、大なり小なり、怪我をするからな。あんたも知ってるよな、キャスパさん。昔は現場に、地下迷宮に潜っていたはずだ。違ったかな?」

「違わんよ」

 領収書は厚い束になっていた。全部を合わせると相当な額になる。めくっていき、日付をチェックする。一番古いのは一ヶ月前だった。しかしどうにも高額すぎる。

「明細はないのか」

 実際、領収書には金額と日付くらいしか書かれていない。ヴァッテンは動揺する気配もなく、「ないな」と答えた。こめかみが引きつるのを感じながら、ヴァッテンもやり返す。

「簡単に払えん。総額で十万ダラーといったところだろう。経理と相談する」

「急いで頼むぜ、キャスパさん。次の仕事があるんだ。ついでに言っておくと、十五万ダラーだ」

 もう怪我はするなよ、とだけ言って、キャスパは個室を出た。もちろん、領収書の束を持って。

 執務室へ戻ると、部下の姿がない。どうやら仕事を片付けてくれたらしい。少し明るい気持ちに戻りながらデスクに歩み寄ると、仕事は手付かずだった。その上、「経理に呼ばれました。経理部にすぐ来てください」と書かれた紙片が置いてあった。

 最悪だ。ため息が漏れるのを止められない。

 領収書をデスクに放って、キャスパはまた執務室を出た。廊下を歩くだけで、右膝が挫けそうになる。薬が必要なのは間違いなく自分であり、薬どころか医者の診察が必要な気がした。

 一息つけたら医務室に行こうとキャスパは決めた。


      ◆


 経理部というのは実務部と並び立つ部署だが、規模は同じだ。つまり部長、管理者、事務員という三階級しかなく、部長は一人、管理者は一人、事務員が三人である。

 経理部のオフィスに入ると、キャスパは自分の部下が経理部長の前で繰り返し頭を下げているのを見た。自分の部下に対する仕打ちに、キャスパはカッとして足早にそちらへ歩み寄る。この時ばかりは足の痛みを忘れた。

 経理部長のミゲルもキャスパに気づいた。ミゲルも元は冒険者だけあって体格は立派で眼光も鋭い。しかし現役時代の実績では負けちゃいない、そうキャスパは心を奮い立たせて、ミゲルの前に立った。

「うちの部下が何かしましたか、経理部長」

「キャスパ。事務所の規則を知らんのか。冒険者の必要経費の補填の規則だ」

 ミゲルの低い声に、「熟知しています」とキャスパが答えると、オフィスがしんと静まり返った。ここは敵地ってことだ、とキャスパは逆に開き直ることができた。

「経理部長。申告されている経費は、薬品の購入代金です。領収書がある。これからチェックしますが、おそらく、支出するのが妥当です」

「明細は?」

「ありません」

 鼻で笑ったミゲルはあっさりと結論を口にした。

「この件は経理部で預かる。実務部の方で勝手なことはするな。いいな、ファルス。経営のことがわかっていない実務が勝手をするんじゃない」

 わかりました、と鼻息荒く答えると、キャスパは一礼してミゲルに背を向けた。足を踏み出そうとして、ぽかんとしている部下の腕を掴み、引きずるようにしてオフィスを出た。

 廊下を歩きながら、問いかける。

「どうして経理が知っている。誰が話した」

「知りませんよ、キャスパさん。突然でしたから。ヴァッテンさんたちが通報したのかも」

「退路を絶っておこうってことか。それとも俺を追い落とす両面作戦かな。不愉快だ」

 そう言ったところで、キャスパはよろめき、床に膝をついた。痛みが頭の先まで走り抜け、悲鳴が漏れる。部下が慌てた様子で屈み込む。

「大丈夫ですか? 怪我をされているんですか?」

「なんでもない」

 そう答えて立ち上がろうとしたところで、キャスパさん! と鋭い声が廊下に響いた。顔を上げると若い女性が足早に廊下をやってくる。事務所に所属する魔法使いのニナだった。地下迷宮の任意の場所に冒険者を送り込む、ポーター職についている。

 その彼女がやや青い顔をしていた。

「パーティ三つが行方不明です。回収座標に帰還しません」

「パーティ三つ? 何人だ? どこの階層だ?」

「二十一名です。場所は第五十二層になります」

「一人も戻らんのか?」

 はい、とニナが答えた時には、キャスパは自力で立ち上がっていた。そして部下を睨みつけ、「経理に領収書を提出してやれ。執務室のデスクの上にある」と指示してから、ニナを促した。

「シーカーに話をしに行こう。第五十二層に送りこめる連中はそうそういない」

 歩きながら溜息を吐き、キャスパは自分がするべきことを考えていた。


       ◆


 シーカーはポーターと並んで重要な仕事だ。

 ポーターは地下迷宮へ冒険者を送り出し、回収する。シーカーとは、地下迷宮での行方不明者を探し出すのが仕事だった。事務所に所属しないシーカーも多く、そんな連中は経験十分で、実力も伴っているのが常だ。

 ウェザー冒険者事務所のシーカー控え室に入ると、まだ十代にも見える青年がタバコをくわえながらハンモックに揺られていた。キャスパとニナに気づいても、ハンモックを降りようとしない。我の強いところがあるのがシーカーによく見られる個性である。そもそもからして、シーカーには冒険者的な協調性はない。彼らはほとんど単独で迷子探しをするのだから、頼りになるのは自分の力だけだ。

「ボース、調子はどうだ」

 青年、ボースはそう声をかけられると、タバコの煙を吐いてから「上々です、キャスパさん」と答えた。不愉快だったが、キャスパは怒りに耐えた。

「迷子になった奴らがいる。すぐ動けるか」

「いっすよ」

 どこへ行くとも詳細も聞いていないのにボースは一言で応じた。それにキャスパがホッとするのも束の間のこと、ボースはやはりなんでもないように付け足した。

「でも今、俺しかいませんから、それでいいなら。危険手当と、三人相当の報酬が欲しいかな」

 またダラーが必要になる、と思うとキャスパは暗澹とした思いだったが、背に腹は変えられない。

「良いだろう、ついてこい。ニナが説明する」

 了解っす、とボースがハンモックから滑り降りると、くわえタバコのままでついてくる。キャスパが先頭に立ってポーター室へ向かったが、背後ではボースとニナが雑談をしている。仕事の話ではない。二人で次はどこへ食事に行くか、二週間後の祭りの日は休みが取れるか、という内容だった。

 食事に行かせる暇も与えないし、祭りの日は仕事を入れてやる、とキャスパは決めた。

 ポーター室に入り、壁一面に貼られる無数の地図のうちに一枚の前で三人で議論した。

「第五十二層は大して複雑じゃありません。まぁ、すぐに見つけますよ。これから装備を整えて、十分後に出発します。キャスパさん、書類を用意しておいてください」

 書類というのは各種保険に必要なもので、本来的な冒険者は事前に書類を作り、サインさせるが、シーカーの場合はその性質上、事後に書類にサインさせる。まさか仲間が危険の真っ只中にいるのに、ゆっくりと書類を作るなどできるわけもない。大抵の書類は事前に用意されているが、細部は場合によって異なるから、修正に時間がかかる。

 ボースは宣言通り、十分でフル装備になり、ポーター室に戻ってきた。

「気をつけてね、ボース」

「心配なんて必要ないさ、すぐ戻るよ」

 女と男の実に親しげなやり取りにイライラしているキャスパの前で、ニナが両手をボースに向ける。抱擁するわけではない。不意にボースの全身が光に包まれ、細かな光の粒子になって弾けると、もうそこには青年の姿はなかった。

 重い溜息を吐き、ニナがキャスパに向き直る。

「うまくやるだろう」

 不安げな彼女に気休めにしかならないと思いながらそう口にするキャスパに、ニナが頷く。

「うまくいかなかったら、キャスパさんを恨みます」

 それは筋違いだろう、とは思ったが、言わないでおいた。

 キャスパは何かあれば報告するようにニナに伝え、執務室へ戻った。執務室では部下が仕事を進めてくれているはずが、キャスパのデスクの上には仕事がそのまま残り、紙片も残り、ただ領収書だけが消えていた。キャスパの仕事を代行することを、部下は忘れたらしい。

 細く溜息を吐いてから、キャスパは実務部のオフィスに行ったが、誰もいない。

 何故だ、と思ったが、時計を見ると昼休みだった。

 反射的に苛立ちにかられてすぐそばのデスクを蹴りつけたが、右足で蹴りつけたがために、痛みに目眩がした。

 しばらくその場を歯を食いしばって耐えてから、キャスパは執務室へ戻った。仕事を少し片付けて、食事に行こう。


       ◆


 執務室で書類を半分ほど進めて、キャスパは食事に出ようとした。事務所のそばに行きつけの喫茶店があり、大抵はそこで食事を取る。ハムとチーズと卵の入ったホットサンドが安くて美味い。

 廊下へ出たところで、部下がちょうど戻ってきた。彼はちょっと面食らったようだったが、すぐに申し訳なさそうな顔になり、頭を低くして目の前にやってきた。

「キャスパさん、仕事は、午後、やりますから」

「もういい。自分の仕事をしろ」そう言ってから脳裏にミゲルの顔が浮かび、余計なことを付け足していた。「経理の連中が、事務員の残業に嫌な顔をしている。定時で仕事を終えるようにしてくれ」

「キャスパさんは毎日、遅くまで仕事してますよね?」

「無償の奉仕だ。言わせるな」

 はあ、と変なものを見るような顔でキャスパを見てから、部下はオフィスへ入っていった。

 首を振ってから、今度こそキャスパは先へ進もうとした。だが、足音が聞こえ、それはあっという間に激しい物音にしか聞こえなくなった。全部で十名以上が慌ただしく行き来しているようだ。

 関わりたくない。無視したい。心の底からキャスパはそう思った。だが廊下の先から走ってくる女性を見て、逃げられないと覚悟を決めた。

 キャスパの前に来たニナは「ボースが迷子を回収しました」と報告した。唐突な喧騒は回収されたものが騒いでいるんだろう。

「二十一人、全員か? 死者は? 負傷者は?」

「怪我人は大勢いますが、死者はいません。二十一人、揃ってます」

 よかった、と咄嗟にキャスパの口から言葉が漏れたのに、まったくです、とニナが頷く。不意にキャスパはニナを食事に誘う気になった。変な感情はないが、たまには誰かと食事してもいいだろう、と思いついたのだった。

「ニナ、これから食事に行くんだが、一緒に来ないか」

 年甲斐もなく少しドキドキしながら言葉にすると、ニナはぽかんとした顔になり、首を振った。どこか怯えているように見えたのは気のせいだと、キャスパは自分に言い聞かせた。

「悪かったな、変なことを言って。あとで書類を提出してくれ。ボースにも礼を伝えてくれ」

 結局、キャスパは一人で建物を出て、喫茶店まで歩いた。右膝の痛みは激しくなっている。ついでにコーヒーもドーナツも腹に入れていないので、普段以上に腹が減っていた。

 喫茶店に入ると、馴染みの店員が相手をしてくれる。だがホットサンドはすぐには提供できないと言われ、では何ができるのかを聞くと、トースト、と返事があった。

 席についてコーヒーを飲み、焼いただけのパンにバターとジャムを塗って咀嚼して、それで食事が終わった。コーヒーをおかわりしようとしたが、何故か客がどんどん店に入ってきて、落ち着くことはできなかった。

 すぐに店を出て事務所へ戻る。すると、入り口でミゲルと出くわした。彼はかなり強い視線、殺気立った目つきでキャスパを睨みつけてきた。

「管理者ともあろうものが、昼の休憩時間を無視しているのか。給料から引いておくぞ。私はこれから銀行との交渉だ。どこかの誰かが事務所の経営を圧迫しているからな。キャスパ、仕事をサボるなよ」

 経理部長が部下と共に颯爽とした足取りで去っていくのを見送って、キャスパは建物に入った。執務室へ向かおうとし、限界を感じて医務室へ行き先を変えた。もう歩くのもしんどい。優しさが欲しかった。

 医務室に入って、事務所が契約している女医のルララに相手をしてもらおうとしたが、それは無理だった。

 医務室には十名以上の負傷者が詰めかけていて、キャスパが入る空間がそもそもなかった。怪我人はボースが見つけ出した二十一名の冒険者の一部らしかった。ニナが負傷者が大勢いたと話していたのをキャスパは思い出した。

 そのキャスパにルララが気づき、歩み寄ってくる。優しい表情だが、眉がハの字になって困り顔そのものだった。

「キャスパさん、ちょっと今は立て込んでいて、急用ですか」

「いいえ、ルララさん、後でも構わないんです。お邪魔しました」

 落胆を隠して、キャスパは医務室を出ようとした。ただ、ルララが「お耳に入れたい事が」とキャスパの腕をとり、とある情報を教えてくれた。話を理解した瞬間、キャスパは足の痛みも、弱気も忘れた。

「ありがとう、ルララさん」

 毅然とそう言葉にすると、キャスパはまず実務部のオフィスへ戻り、部下に経理に提出した請求書を回収するように伝えた。何があろうと回収し、請求しないことを明言するように厳命した。部下は泣きそうな顔をしたが、キャスパは応じなかった。

 さらにヴァッテンのパーティを呼び出すように伝え、それから執務室へ戻り、契約破棄の書類を作った。

 夕方にはヴァッテンとその部下が事務所へやってきた。キャスパは部下も連れずに彼らと対面し、はっきりと「お前たちを解雇する」と伝えた。ヴァッテンは驚き、次に剣呑な雰囲気を見せたが、キャスパは強気を崩さなかった。

「ヴァッテン、違法薬物を経費で買おうとするこの阿呆め。さっさと失せろ」

 今度こそヴァッテンは暴力の気配を見せたが、キャスパの憤怒の気配を察したのか、それとも冒険者事務所で騒動を起こすのを避けたのか、契約破棄を通知する書類を手に取ると、捨て台詞も残さずに会議室を出て行った。

 一人きりになり、キャスパはため息を吐いた。

 椅子から立ち上がろうとしたが、右足に力が入らず、しばらく椅子に座ったままキャスパはじっとしていた。

 自然と口からため息が出る。これからヴァッテンたちの仕事を再確認し、不正の実態に関する調査を手配し、警察にも通報しないといけない。事情を聞かれるだろうし、責任も問われる。事務所に影響はないだろうが、誰かが説明責任を負う。

 立場上、実務管理者のキャスパが責任を負う立場だった。

 もう一度、ため息を吐いて、キャスパはやっとの事で立ち上がった。


       ◆


 その日のうちに警察がやってきて、キャスパは事務所の会議室の一つでみっちりと事情を説明した。警官は粘り強く、執拗にキャスパとウェザー冒険者事務所の立場を確認し、キャスパはそれに忍耐強く応じ続けた。

 警官が「また事情をお聞きします」と言って去って行った時、もう夜になっていた。

 執務室へ戻り、暗い部屋に明かりを灯す。普段は感じないが、執務室がいやに広く感じられた。肩を落として椅子に座り、やりかけの仕事の続きをしようとした時、ドアがノックされた。こんな時間に誰が残っているのかと思いつつ返事をすると澄んだ声で「入るわね」と告げられた。

 無意識に背筋を伸ばしたキャスパの前で、ドアを開けて美貌の麗人が入室してくる。

 ウェザー冒険者事務所の副所長、シャリンだった。背が高く、細身で、どこか人形めいている。顔の作りも美の女神そのものだ。どんな両親から生まれたのか、想像もつかない。

「今日はお疲れ様、キャスパさん」

 いえ、とキャスパはかすれた声で答えてから、なんとか唾を飲んで喉の状態を整えた。

「これが仕事ですから」

「経費請求だけから不正に気づいたことは所長も感心していたわ。見事だったと」

「あれは、ルララさんからの助言があったからです」

 正直に答えると、シャリンはちょっとだけ笑みを深くして「人徳ね」と答えた。

 人徳? キャスパは混乱した。自分に人徳などというものがあるとは想像もしていなかった。

「これからも頼りにしているわ。今日はもう帰って、休んだら?」

 ええ、はい、とキャスパが答えるのに頷き返してシャリンは部屋を出て行った。まさか彼女はキャスパが解放されるまで待っていたのか、と思ったが、それはありそうもないとキャスパは決めつけた。当たり前だ。副所長が管理者にそこまで気をくばるとは思えない。きっと別件で、残っていただけだろう。

 そう考えながらも、何か、満たされたものを感じながら、キャスパは帰り支度をした。

 表へ出ると、どこか遠くで歓声が聞こえてきた。誰かが酒盛りをしてるのかもしれない。若かりし頃を思い出しながら、キャスパは普段通りの道筋で総菜屋に向かった。

 しかし、あのシャリンの言葉といったら。思い返すとキャスパはウキウキして、ニヤついてしまう。シャリンが認めてくれた。仕事の上だとしても、嬉しいものだ。これでまた頑張れる。事務仕事の苦労も報われるというものだ。

 総菜屋が見えてくる。

 しかし閉店していた。普段より遅い時間だからだった。

 夕飯をどうするか考えようとして、しかし右足が思うようにならないのに気づき、キャスパは食事を諦めて部屋に帰った。

 翌朝、キャスパは寝台から起き上がれず、医者を呼び、一週間の安静を命じられた。

 有給休暇の申請は経理部に拒絶された。

 一週間後、仕事に復帰するとデスクの上には大量の書類が積み重なっていた。

 キャスパはため息も出なかった。

 ため息は、激しくドアをノックして部下が血相を変えて入ってきた時、自然と漏れた。



(了)

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事務職中年男性の憂鬱 和泉茉樹 @idumimaki

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