魔女の指先で死者は笑う

響 蒼華

ケース 0 

招かれざる客

 ある日、エッカート侯爵家の敷地にある古い塔の下で、一人のメイドが死んでいるのが発見された。

 震える文字で『侯爵邸の調度を盗んでしまった。死んでお詫びすると』記された殴り書きを遺しており、飛び降り自殺と判断された。

 係累もなく、もはや本人が死んでしまっているのでは罪には問えまい。侯爵の命にてそれ以上は追わぬ事となり、彼女は密かに弔われた。

 皆は話す事すら忌避し、語る者がない出来事はいずれ過去の物として記憶の彼方に追いやられる事だろう――。



 その日の天気は生憎の雨模様。

 黒い雲に覆われた天は光を望む事は難しく、横殴りの雨が濡らす硝子窓の向こうは昼であるというのに夜のように暗い。

 晴れた日は遠くの門までの景色すら望む事が出来る窓からは、庭園の生垣すら垣間見る事が出来ない。

 まるで移り替わる物語の場面のように素晴らしい光景を望む事が出来る敷地も、堂々とした威容を以て客人を圧倒する城も、全てが暗い闇の下。

 こうまで激しい雨では予定していた庭園の散策は難しいとひとつ溜息をついて、窓の向こうを見つめていたエリカは黒髪を揺らして身を翻す。


「シャーリー。今日は庭園をお散歩する予定でしたが、これでは無理そうです」


 エリカの黒い瞳の見つめる先で、ストロベリーブロンドの少女が見て分かる程に落胆して肩を落してしまった。

 サファイアのような青い瞳に涙すら浮かびそうな様子であり、それを見たエリカも顔を曇らせる。

 エリカは少女――侯爵令嬢シャーリーの家庭教師である。

 事情があって仕方なく引き受ける事になった職務であるが、だからといっておざなりな事はしたくない。

 どうせ学ぶなら、ただ知識を丸暗記させ詰め込むだけの事はしたくない。系統立てた学問を、出来る限り楽しく学べるようにしたいと思っている。

 確かに、勉強するだけなら勉強部屋で充分ではある。外が雨であろうが関係ない。

 けれども、この砂糖細工の人形のように儚げで愛らしい少女は、それに不満らしい。庭園を散歩してから東屋でお茶にするのを楽しみにしていたのだから無理もない。

 シャーリーは普段座学を嫌がる子ではない。けれど、今は膨らみ過ぎた期待の行き場がない状態なのだろう。

 子供部屋とは思えないほどの美しく明るい壁紙に一流の調度類、数々の人形に精巧なドールハウス、テディベアなどのぬいぐるみ。

 一つ一つに込められた愛情で溢れるほどの部屋の真ん中で、少女の顔は暗いまま。

 それならば、とエリカは思案した末にある提案をした。

 この城にある数々の芸術品を眺めながら美術と歴史のお勉強をして歩こうという提案に、シャーリーは直ぐ様頷いた。

 ロングギャラリーに飾られた品々を見て歩き、一つ一つの歴史を学びながらスケッチしようというわけだ。 

 幸いこの城には美術館と称してもおかしくないだけの絵画や彫刻、その他の芸術品がある。万が一明日もこの天候であっても描き切れないだけのものが。

 勉強部屋にこもりきりになりたくなかったようだ。更には大好きな絵を描けると聞くと、サファイアに光が戻る。

 鼻歌を歌いそうなほどご機嫌な様子で、シャーリーは直ぐ様スケッチブックを手にして歩き出す。

 これは、日頃からもう少し活動的に学ぶ機会を増やすべきだろうかと思案して苦笑いしつつ、エリカはその後に続いた。


 金箔や大理石を惜しげもなく仕様した小花を意匠とした室内装飾の一つ一つが名工によるものと推測される。

 天井の見事なフレスコ画と正面や壁面を彩る絵画は同じ画家によるものだろうか。壁紙も、それらを損なわぬように、かつ引き立てるようなものが配されている。

 長い回廊を照らすシャンデリアは、夜闇すら搔き消してしまうのではないかという程の威光を放っている。

 壁には名画の数々、その傍らには美術館にあっても可笑しくない彫像に骨董。さりげなく置かれた調度類は、花瓶一つとっても最高級品である。

 昨日今日の富を築いた成金では到底真似できない、代を重ねた富。

 見せつけ誇示しようとしている風はないのに、さり気なさとその調和を以て見る者の言葉を奪う美しさ華やかさ。

 隙の無いハイネックに質素な飾り気のない黒一色のドレスの自分が、場違いにすら感じるとエリカは思う。

 飾り気は全くない。色彩と呼べるものは手首に結わえてある朱色の飾り紐だけ。それすらも風変りではある。

 けれど、自分はこれで良いのだ。家庭教師に美しさも華やかさも必要ない。

 雇い主は時折もっと華やかに装ってはと勧めてくるし、何なら職権乱用に及ぶこともあるけれど……。

 シャーリーは、どれを絵に描こうかと吟味しているようだ。軽い足取りでギャラリーの廊下を行ったりきたりしている。

 けれども、彼女の歩みの先に唐突に人影が現れる。エリカが止める暇あらばこそ、シャーリーはその陰にぶつかり、尻もちをついてしまった。

 咄嗟に駆け寄りシャーリーの無事を確かめるエリカの耳に、粗暴な声音が飛び込んできた。


「おい、シャーリーじゃないか」

「ジョージ様……」


 二人を尊大な様子で見下ろしているのは、ジョージと呼ばれる男性だった。

 金色の髪に青い瞳、顔立ち自体は端整と言えるだろう。だが、エリカは彼を魅力的とけして思わない。

 今ここで見るとは思わなかった顔に、思わずエリカの眼差しに警戒が混じる。

 シャーリーに怪我がないの確認して立ち上がらせながら、一応立場が上である相手へと礼をとる。

 その様子をつまらなそうに眺めながら、ジョージはシャーリーへとどう見ても友好的ではない眼差し向けながら言った。


「何でこんなところをうろついてるんだ。子供部屋から出てこないものだろう」

「……侯爵閣下のご意向です」


 上流階級の子供たちは、子供部屋にて隔離されるように暮らしている。

 屋敷の上層階にある子供部屋はほぼ独立した空間であり、応接間などの大人が過ごす空間から遠くに置かれるのが常である。

 親と顔を合わせる為の僅かな時間以外、子供たちはそこで寝起きし、学び、遊び、一日を過ごす。

 それが、世の良家の子供たちの一日の倣い。ジョージのいう事は正しくはあるのだが……。

 この屋敷においては、その世の倣いは通用しない。

 一人娘であるシャーリーは、屋敷を自由に歩き回り遊び場として伸び伸びと育っている。

 それはひとえに、父親でありこの屋敷の主である侯爵閣下のご意向である。

 シャーリーはすっかり怯えてしまい、エリカのスカートを掴んで隠れてしまっている。

 もの言いたげな眼差しでジョージを見つめているが、けして口を開く事はない。

 その様子を見て、ジョージは呆れたような表情で嘲りの言葉を口にする。


「まったく、幾ら見た目が良くても『おし』じゃあな」

「……ジョージ様。些か言葉が過ぎるのではありませんか?」


 エリカの言葉は氷の冷たさと険しさを帯びている。

 シャーリーは、喋る事が出来ない。声が出ないのだ。意思疎通は筆談で行っている。

 過去に纏わる出来事のせいで声が失われてしまい、どの様な治療を試しても今に至るまで取り戻す事は出来ていない。

 侯爵がどれ程それに関して悔い、苦悩しているかを知っている。

 それを知っているからこそ、哂う目の前の男が許せない。

 分を弁えていないと叱責されるとしても、物申さずには居られない。


「それに、わたくしの記憶が間違っていなければ。貴方様は侯爵閣下にこちらへの出入りを禁じられているはずでは?」

「ああ、うるさい! 家庭教師風情が生意気に意見する心算か!?」


 冷静に指摘された事実に、顔を真っ赤にして怒鳴り返すジョージ。

 そう、この男は侯爵の妻の甥……侯爵にとっては義理の甥であるのをいい事に、度々この屋敷に金の無心にやってきていた。

 妻に纏わる事情を知っていれば縁者は顔を出す事すらできないであろうというのに、この男は全く気にしない。

 それだけでも恥であるというのに、若くて少しでも見目の良いメイドを偽りを囁いて誑かして毒牙にかけていたのだ。

 流石に侯爵の怒りに触れ出入りを禁じられた筈なのに、侯爵の不在を聞きつけてはこうしてやってくる。

 先だって滞在中にメイドの死に遭遇して気味が悪いと捨て台詞を残して去っていき、もう暫くは来ないだろうと皆が言っていた矢先だった。

 また性懲りもなくメイドに手出ししようとでもいうのか、はたまた……。

 見つめる眼差しの、深淵を思わせる漆黒に耐えかねたのか、ジョージが吐き捨てるように叫ぶ。


「この、汚らわしい東洋人……呪われた『魔女』め!」


 叩きつけられた言葉にも、エリカは露程も動じない。

 あまりに慣れたものである。忌々しげな眼差しも、その呼称も、蔑みも。


『エッカート侯爵家には魔女が居る』


 遥々東の国よりやってきた恐ろしい力を持つ魔女は、死者と語らい、死者を思うがままに従えるという。

 不可思議な力を持つ魔女は、妖艶な美女であるとも言われるし、可憐な少女であるとも言われている。

 噂が余計なもので膨らみながら、一人歩きしている事はエリカも良く知っている。


(……日本から来たのはお母様であって私ではないし。私は英国生まれなのだけど……)

 エリカは内心嘆息する。もう訂正するのに飽きているからである。

 それに高貴な血を尊ぶらしい彼らにすれば、日本人の血を引いているだろうが、日本人であろうが、同じ事らしい。

 黙ったままのエリカを見て、衝撃を受けたが故と勘違いしたようで、ジョージは更に嘲笑しながら続ける。


「日本びいきが過ぎるエッカート侯爵が、得体のしれない力を持つ日本人の小娘を愛人にして屋敷に住まわせているというのは有名な話だからな」

「わたくしは、あくまでシャーリーの家庭教師。事実無根な中傷は、侯爵閣下に対しても不敬では?」


 全くもってそのような事実は存在しないが、誤解されるような雇い主の行動はある。

 逐一説明して歩くのも面倒なので、矢張りそのあたりは控えてもらおう、と内心で決意するエリカ。

 とりあえずは目の前の男性からか、と盛大に溜息をつきながら口を開く。


「それに、わたくしは日本から来たわけではありません。母が日本人というだけです」

「ああ、もういい! お前はもう口を開くな!」


 冷静な声音で淡々と指摘していくエリカに、ジョージは苛立ったように髪をかきあげながら叫ぶ。

 エリカとて黙りたいし、むしろこの男を無視して立ち去りたい。

 シャーリーは怯えたままだし、背後に『在るもの』がどんどん剣呑さを増しているのを感じるからだ。

 出来れば刺激する事なくあちらに立ち去って欲しいのだが、と思った瞬間に決定打がジョージの口から放たれた。


「侯爵をまんまと垂らし込んだ東洋の雌猿が!」


 ジョージがそう言い放った次の瞬間、甲高い破砕音が響き渡った。

 その場に集った人々は揃って目を丸くした。

 天井から吊り下げられていたシャンデリアが落下して、硝子が粉々に砕け、散らばっている。

 塵が舞う中、誰もが言葉を失ったまま。あわや下敷きになるところだったジョージに至っては顔色を失くして怯えた表情で震えあがっている。

 唐突な出来事の衝撃音に慌ただしい靴音と共に老齢の男性が現れる。この城の一切を取り仕切っている執事である。

 執事はジョージが来訪した事をメイドから告げられてその所在を探していたようだが、目の前の惨状を目にして一瞬言葉を失う。

 それでも年の功である。すぐに立ち直ると、鎖が老朽化していたのだろうと、執事はジョージを取り為している。

 しかし、エリカの目は捉えていた。あまりに鋭利な断面をさらしている、鎖の切れ目を。

 まるで、切れ味鋭い武器で達人が一閃でもしたような、あまりに見事な断面である。


「私に何年タダ働きさせるつもり……?」

 

 ジョージ達には届かぬ程の小さな、しかしうんざりした声音で、エリカは砕けた破片を晒すシャンデリアの残骸を見つめる。

 仮にも侯爵家の城の、ロングギャラリーを照らしていたシャンデリア。意図的に壊したのであれば、どれほどの贖いをしなければならないだろうという逸品である。

 絵画や彫像などに被害がなかったのは幸いと言うしかない。

 原因不明であり、人為的な事故でなければ誰も責を問われる事はない。

 けれど、事情を聞けば侯爵は全てを察するだろう。原因が何に……いや『誰に』依るものだと。

 エリカは肩越しに自らの後方へと一瞬眼差しを向ける。

 そこには誰もいない――他の人間の目から見たならば。

 シャーリーが慌ててスケッチブックに何かを記し、エリカの袖を引いてはそれを示して訴える。


『カガリは悪くない。きっとお父様もそう言う』


 スケッチブックにに記された文字に、エリカは苦笑する。

 この子には見えているから、迂闊な真似はしてくれるなと言ってあったのに、と心の裡で恨めしく呟く。


「今のも貴様の仕業か! 魔女め!」

「……そうお思いなら、次なる災いが降りかかる前に城から去られては如何でしょうか?」


 少しだけ立ち直ったらしいジョージが、蒼褪めたままエリカを睨みつけて叫んだ。

 もう訂正する気力すらない。

 投げ槍な内心押し隠しつつ言い放った台詞に、男は露骨に怯えて見せた。そこに執事が声をかける。

 暫し問答した後、執事はジョージを宥める事に成功した模様だ。

 この天候であるから無理に退去は求めない、その代わり明日朝になり次第直ちにお帰り頂きたい。

 そう言われて不服そうに鼻を鳴らし、最後に置き土産と言わんばかりにエリカたちを睨みつけて、乱暴な足取りで立ち去っていった。

 メイドが数名出てきて片づけを始める。

 すっかり楽しかった雰囲気は消えてしまい、シャーリーの顔もまた哀しげに曇ってしまった。

 一度部屋に戻ってお茶にしましょう、と苦笑しながらエリカは教え子を連れてその場を後にしたのだった。









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