第6話 大切なもの
夏樹を見届け、振り続けていた手を降ろすと少し寂しくなった。
「僕も、家に入らないと」
帰宅を告げるインターホンのボタンを押すのに一瞬、躊躇った。
これから起こる事の想像がついてしまうから。
鼻から深く息を吸い込み、お腹の底から限界まで息を吐く。
よし、大丈夫。
「うん」
自分に言い聞かせるように意を決してインターホンのボタンを押した。
ピンポーン。
チャイムが鳴るとすぐに家の中からバタバタと大きな足音が聞こえる。
僕は玄関のドアから大きく二歩分離れて身構える。
音はすぐにこちらへ近づくと、バタンッ!!と、勢いで壊れるのではないかと思う程の力でドアが開かれた。
「冬夜!」
「ただいま、お母さん」
加減も知らずに玄関のドアを思い切り開けた母親が飛び出してきた。
お母さんは勢いそのままに血相を変えて僕に飛びついてきた。
「お母さん、苦しい……」
「何してたの、あなたは!?」
ぎゅうっ、と力を込めて抱き締められる。
「ごめん」
「いつも学校が終わったらすぐに寄り道せず帰るようにって言ってるでしょ!?」
ぱっと体を離されたので解放されたかと思いきや、今度は腕を力一杯握りしめられた。
「ちょ、お母さん!痛い……」
「冬夜!お母さんの話聞いてるの!?どうしてお母さんの言う事が聞けないの!?お母さんはこんなに冬夜の事を心配してるのに!」
お母さんは興奮して僕の声が耳に入らないようだ。
構わず手に力を込め、ガシガシと前後に揺さぶられ爪が皮膚に食い込む。
流石に痛みに耐えきれなくなり僕にとって『呪いとも言える言葉』を声を荒げて口にした。
「ごめんなさい!図書館で模試の勉強をしてたんだ!"兄さんみたいになりたくて"!」
その言葉を発した瞬間、お母さんの動きがぴたりと止まった。
緩々と腕を掴んでいた手の力が抜けていく。
「そう……。そうだったのね……」
「"お兄ちゃんみたいになるんだったら"頑張らないとね」
お母さんはさっきまでの必死の形相とは人が変わったかのように、穏やかで品が良く優しい、そんなどこにでもいる母親というもののイメージそのままに微笑んでいた。
「さ、今日の夜ご飯はビーフシチューよ。先にお風呂に入ってきちゃいなさい。お父さんもそろそろ帰ってくるからそれまでに出てくるのよ」
お母さんはそう言うと、機嫌良さそうにくるっとキッチンの方へ向かっていった。
ふーっと気づかれないように息を吐く。
後ろを振り返り、夏樹に来てもらわなくて本当に良かった、と一人心の中で安堵した。
風呂場に向かい、脱衣所で服を脱ぐ。
洗面台に映った自分の姿を見る。
肌……白いし、背、小さい。それに細くてひょろひょろだ。
何度見つめても変わらない自分の姿に項垂れながら扉を開けた。
「はぁ……」
ぼーっと湯船に浸かりながら天井を眺める。
「いっ!」
ピリッと腕に痛みが走る。
腕を見ると、指の形に青痣になっており皮膚に食い込んだ爪痕の部分は薄っすらと血が滲んでいた。
「はぁ……」
ため息が幾らでも出てくる。ここでは遠慮を知ることがないようだ。
ブクブクと空気を含ませたタオルを湯船に沈める。
空気を含んだタオルの真ん中だけがぽっこりとクラゲのように顔を出す。
膨らんだ部分から空気が抜け切るまでじっと見つめていた。
しなしなと空気の抜けたタオルは湯を含み重みでゆっくりと沈んでいく。
沈んでいったタオルを見届けた後、僕は息を深く吸い込み、湯船の中に頭の先が浸かるまで潜った。
今度は肺に溜めた息を吐き出す。
ゴボゴボと空気の泡が水中にあふれる。
すぐに息苦しさが襲ってきた。
それに耐えながら息を吐き出し続ける。
ふと苦しさに目を開けると、湯船の底に沈んだタオルが目に留まった。
『冬夜』
「がはっ……!げほっ!」
次の瞬間、僕は水面から勢いよく顔を出した。
はぁはぁと全身で呼吸をするように体は無意識に酸素を求める。
ふらふらと湯船の中で立ち上がり天井を仰ぐ。
酸素不足で目の前がチカチカと点滅する。
「兄さん……」
暫くそうして呼吸が落ち着いてきた頃、僕は口に出した人物に縋るかのように呟いた。
風呂場の天井からぴちょんと雫が落ちてきた。
額に当たった雫は火照った体に冷たさを感じさせた。
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