第45話 これも、弟のため――

 点心を持って裏山に登った私を、恩玲先生は「いらっしゃい」とにこやかに出迎えてくれた。すぐに厨房から出てきた宇音先生が、「また、来たのか」と顔をしかめる。

「はい、お土産! 今日はうまくできたと思うわ。それにお肉もたっぷり入ってるのよ」 

「野生のクマでも仕留めたのか?」

 私がカゴを渡すと、宇音先生は皮肉たっぷりにきいてきた。

「失礼ね! ちょっとばかり、臨時収入が増えただけよ。だから、明々の薬代も払おうと思って」 

「薬代は気にしなくていい。それは君がとっておいて」

 財布を取り出してお金を払おうとする私を、恩玲さんがにこやかに止める。

「そういうわけにはいかないわ。薬代だって高価なのに」

 恩玲さんだって裕福な暮らしをしているわけじゃないんだから、負担をかけられない。けれど、恩玲さんは「いいんだ」と、やんわりと私の手を押し返した。

 恩玲さん、なんていい人――。

 でも、恩玲さんの親切に甘えているわけにはいかない。私はプルプル首を振る。


「それじゃあ、お金以外の方法で返すわ! 掃除でも、洗濯でも、アヒルの餌やりでも、畑仕事でも、なんでも言ってちょうだい!」

 私が胸を叩いて言うと、恩玲さんはクスッと笑っていた。

「そうだね、それなら少しだけ本の片付けを手伝ってもらおうかな」

「お安いご用よ!」

「若君、甘過ぎですよ! こいつには、薪割や芝刈りでもさせておけばいいんだ!」

 宇音先生は私を睨んで、ビシッと指を突きつけてくる。その肩を恩玲さんが宥めるように叩いた。

「宇音、後で梨花さんの持ってきてくれた点心でお茶にしよう。準備をしておいてくれ」

 私がフフンッと勝ち誇ったように視線を向けると、宇音先生はふくれっ面になっていた。そしてプイッと横を向いて、さっさと厨房に引き返す。

「わかりましたよ! お腹を壊さないように、しっかり俺が蒸し直して、毒味しておきます」

 


 私は恩玲さんと一緒に部屋に入ると、窓を開いてさっそく掃除を始める。相変わらず、この部屋は本が散らかっている。

「小芳の具合はどう?」

 本の埃を払いながら、恩玲さんがきいてきた。

「宇音先生のお薬のおかげで、すっかりよくなったわ。起きられるようになったし、食欲もあるから、心配ないわね」

「それはよかった。宇音が調合した薬を帰りに持って帰るといい」

「ダ、ダメよ。それじゃあ、またお世話になってしまうわ。宇音先生に怒られそうだし」

「宇音はあんなふうに言っていたけれど、心配して薬を用意していたんだ。だから、持って帰ってやってほしい」

 そうだったんだ。宇音先生、本当に素直じゃないわね。

「それなら、もっと点心を持ってこなくちゃ……」

 街に出かけた時に、宇音先生の好きそうなお菓子も買って帰ろう。

 宇音先生は子ども扱いするなって言いそうだけど。


 掃除を一通り終えると、ちょうど宇音先生がお茶の用意をして部屋に入ってきた。

 私が届けた点心も蒸しなおしてあるからホカホカだ。

 私と恩玲さんが円卓に座ると、宇音先生は不機嫌な顔をしたままお茶をいれてくれた。


「臨時収入って言っていたけど、またおかしな商売を始めたんじゃないだろうな」

 宇音先生は私に茶器を差し出しながら、不審そうに尋ねてきた。

「あら、失礼ね。ただその……うちの家はオンボロだけど、無駄に広いから、余っている部屋を人に貸すことにしたのよ」

 茶器の蓋で茶葉を避けながら、私はスーッと視線を横にずらした。

「人に貸した? 泥棒じゃないのか……お人好しだから、また欺されてるんだ」

「そんなことは……っ!」

 ない――とは言い切れない。あの、瑞俊さんの素性を私は何も知らないんだから。盗賊の親分とかだったら、どうしようと今さら不安になってくる。

 そんな私を見て、「ほらみろ」と宇音先生は呆れた顔をしていた。


「その人は、知り合い?」

 恩玲さんも少しばかり心配そうな顔になっている。

「街で知り合ったお金持ちの道楽息子みたいな人なんだけど……勝手に押し寄せてきて、居座ってしまったものだから、追い出せなくて……」

 私は正直に白状して、ため息を吐いた。

「それは、心配だな……」

「ああ、でもうちにはお爺ちゃんもいるし、弟の恵順もいるから大丈夫! 貸してるのは離れだし……」

 高齢のお爺ちゃんに、さすがに防犯の役割を期待するのは難しいだろうけど。今はすっかり足腰が弱っているけれど、昔は武人だったと聞いている。


「怪しいな。何だって、わざわざ宿を取らずに、貧乏な朴家の家なんかにやってくるんだ。親戚でもないのに」

 宇音先生のこと場に、「そうよね~」と私は相づちを打つ。

「でも、金払いはいいし……変な人だけど、何度か助けてくれたこともあるの」

「さらわれて売り飛ばされるんじゃないか?」

 宇音先生が意地悪く笑う。

「こら、宇音。あまり梨花さんを不安がらせるようなことを言うものではないよ」 

 穏やかにたしなめられた宇音先生は、「忠告しているんです」と仏頂面で答えて部屋を出ていってしまった。


「悪かったね。あれでも、心配しているんだと思う」

 恩玲さんは困ったように言ってから、真剣な表情になって私を見る。

「もし、困ることがあったら、ここに来るといい。できる限り、手助けをするから。本当は、僕が……ここを出られたらいいんだけど」 

 視線を下げた恩玲さんの目もとに、陰がかかっていた。

「そう言ってもらえるだけで、十分に心強いわ。恩玲さんや宇音先生がいてくれたから、小芳だって助けられたのだし……それに……」

 困ることがなくても、毎日だって、ここに来たくなる。

 だって、恩玲さんの顔が見たくなるから――。

 私が赤くなって口を閉ざすと、恩玲さんは「それに?」と首を傾げる。


「な、なんでもないの。それより、いっぱい作ったから、遠慮なく食べて!」

 ごまかして、私は恩玲さんの皿に点心を盛り付けた。

「うん、ありがとう……梨花さん、点心の腕を上げたね」

「そ、そうかな!?」

 私は褒められて、嬉しくなった。

「とてもおいしいよ。君が来てくれると、家の中も賑やかで明るくなる。宇音も君が来るのを楽しみにしてるんだと思う」

 優しい目で見つめられると、ドキドキして、腰が落ち着かなくなる。

 恩玲さんは? 

 恩玲さんは、私が来るのを楽しみにしていてくれる?

 私は言いかけた言葉を、お茶と一緒にグイッと飲み込んだ。


 日が傾く前に家に戻った私は、浮かれた足取りで厨房に向かう。

 宇音先生からお薬をもらってきたから、すぐに小芳に飲ませないと。

「随分と嬉しそうじゃないか。いいことでもあったのかな?」

 不意に後ろから声をかけられて、私は「ぎゃっ!」と飛び上がった。

 振り返ると、瑞俊さんが扇を開いて私の顔を覗き込んでくる。

 そ、そうだった。この人がまだいたんだ。私は焦って、後ろに下がった。


「な、なによ。いいじゃない。あなたには関係ないんだから」

 私は素っ気なく答えて、立ち去ろうとした。だけど、前に回り込まれて、足が止まる。

「私は忙しいんだから。用があるなら、さっさと言ってちょうだい!」

「つれない言い方をするじゃないか。こうして、同じ屋根の下で暮らしている夫婦のような仲だというのに……」

 瑞俊さんは柱に手をついて、よよよっと泣くまねをする。私は腰に手をやり、白けた顔でそれを見ていた。

「勝手に人の屋敷に居座っていてよく言うわ」

「君のことが気に入ったからね。こうでもしないとお近づきになれないだろう?」

 ニコッと笑った瑞俊さんは、私に一歩近付く。私が警戒して後ろに下がると、その分また一歩距離を詰めてきた。

 柱に背中が当たり、逃げ場をなくした私は焦って辺りを見回す。

 明々も厨房にいるようだし、この人の使用人は引っ込んでいるようで姿を見せない。


「わ、私は生憎と、あなたとはあまりお近づきになりたくないんですけど!?」

「……ところで、いったいどこに出かけていたんだい? 時間がかかっていたけれど」

 私を間近でじっくりと観察するように見ながら、瑞俊さんは聞いてくる。

「ど、どこだっていいじゃない……小芳のお薬をもらいに行っていただけよ!」

 抱えていた紙の包みを、瑞俊さんの顔にグイッと押し当てる。

 それを手に取ると匂いを嗅いで確かめていた。

「確かに薬のようだな……」

「それはそうよ! 他に何が入っていると思っているの?」

「それじゃあ、医者の所か……だけど、君は前に医者に診察を断れたと聞いていたけれど?」

 どこから聞いて来たのかしら。

 私は門前払いされたことを思い出して、不愉快な表情になる。

「ええ、そうよ。お金がなかったから……でも、かわりにもっといい、頼りになる先生に診てもらったし、小芳も無事に回復したんだから、もういいわ」

「ふーん……それはよかった。それほど頼りになる医者なら、私にも紹介してほしいね」

 瑞俊さんはニヤッと笑った口もとを、扇で隠す。

「あなたは、医者なんて必要ないでしょう? ピンピンしているんだから」

「こう見えて、最近腰が痛くてね。本当さ。なんなら、君がさすってくれるかい?」

「嫌です。使用人にやってもらいなさいよ! なんなら、楽雲さんに蹴っ飛ばしてもらえば、気合いが入って治るんじゃない?」

 楽雲さんは、瑞俊さんが連れてきた護衛の男の人だ。腕が立って、寡黙で、この家の屋根を毎日修繕してくれる。あの人くらいね――役に立ってくれるのは。


「楽雲に蹴られたら、腰が折れてしまうよ」

 瑞俊さんはケラケラと楽しそうに笑っていた。

「おい、姉さんにそれ以上近付くな! 不埒者」

 私と瑞俊さんの間に割り込んできたのは、帰ってきたばかりの恵順だった。

「恵順、お帰りなさい。今日は早いのね」

「心配だったから、早く帰ってきたんだ……こいつ、姉さんに何かしなかった!?」

 恵順は私を腕で庇いながら、ジロッと瑞俊を睨む。

「ええ、今のところ、何もされていないわ。されたら、顔面を引っ掻いてやったわよ」

 私がベーッと舌を出すと、瑞俊は「君は猫みたいだな」と笑う。

 少しも懲りてないし、反省していない様子だった。腹立たしいほどの鉄面皮ね。


「あんたが誰か知らないけれど、この屋敷の主は僕だ。勝手な振る舞いをして、姉さんに近付くなら、出て行ってもらうからな!」

 恵順、頼もしいじゃない! それに、知らない間にたくましくなってるわ。

 これも、あの埠頭での荷運びの重労働のおかげかしらね。

「そうよ。恵順が出て行けと言ったら、あなたは出て行くしかないんだから!」


「そういえば、君は科挙を受験するつもりで勉強に励んでいるそうじゃないか。その志は実に立派だ」

「だ、だから……なんだ。脅すつもりか!?」

「科挙を受験するにしても、独学では合格するのは難しいだろうね」

 瑞俊は恵順の耳元に顔を寄せて、囁くように言う。

「だから、お金を貯めて私塾に通えるように……」

「こんな田舎の街の私塾に通うより、名のある教師の下で学んだ方がいい。本気で合格を目指しているというのなら、都に行くべきだ。幸い、私は顔が広くてね。一流の先生を知っている。合格率なんと七割!」

「合格率、七割……!?」 

「もちろん、首席合格者を何人も出している。よければ、私が紹介状を書いてもいい。特待生として……」

 耳打ちされた恵順は、ギュッと目を瞑っている。

 バカね! 賢い恵順がそんなセコい誘いに乗るはずがないじゃないの! 

「姉さん、この人いい人そうだよ。しばらく家にいてもらった方がいいんじゃないかな」

「簡単に、懐柔されてるんじゃないわよ!」 

 私はゴンッと恵順の頭にゲンコツを落とす。「痛っ!」と、恵順は首を竦めて頭に手をやっていた。

「とにかく、この家に住むのはいいけれど、私にあまり接近しないで! これでも、嫁入り前の淑女なんですからね!」

「心配しなくても、許可なく触れたりはしないと誓おう」

「是非、そうしてちょうだい!」

 私は怒った顔のまま、急ぎ足で厨房に向かう。 

 今日の夕飯はお粥にしよう。薄味の野菜しか入っていないお粥を食べれば、恵順もあんな人にうまく言いくるめられそうになったことを反省するはずだわ。


 でも――。

 確かに、恵順にとってはまたとない機会だったかも。本気で受験するなら、都に行く方がいいのは私でも分かる。でも、そのお金もなかったし、ツテもない。まして、有名な先生になれば、瑞俊さんの言う通り、紹介状が必要だ。今の私たちに、そんな紹介状を書いてくれるような信頼のできる知り合いや親戚はいない。


 恵順一人だけなら、都に行かせてあげられるかも。

 それくらいのお金なら、なんとかなりそうな気がする。

 だとしたら、後で瑞俊さんに頼んでおこうかしらね。あまり、素っ気ない態度ばかり取っていたら、子どもみたいにへそを曲げて紹介状を書いてくれないかもしれない。多少ご機嫌を取っておかないと!

 気は進まないけど――これも大事な弟のためよ。

 

  厨房に入ると、明々と小芳が一緒に夕飯の準備をしていた。

「お嬢様、お帰りなさい。ずいぶんと遅かったですね」

「ごめんなさい。えーと……途中で寄り道をしていたのよ。小芳のお薬をもらいに」

「まあ、そうでしたの」

「すぐに煎じてもらえる? あ、それと……今日のお夕飯だけど、お肉をちょっと大目に煮てもらえる?」

 薬の包みを渡すと、明々がキョトンとして私を見る。

「どなたかに持って行くんですか?」

「あー……うん、一応、居候の人にもお裾分けをと思ってね」 

「お嬢様、いったいどういう風の吹き回しなんです!?」

 明々は呆気にとられて、包みを落としそうになっていた。

「まさか……お嬢様……あの人のことが気に入ったんじゃ……」

「違うわよ! 気に入るわけないし、私はそこまで悪趣味じゃないわ。確かに顔は少しばかりいかもしれないけど」

「そ、そうですよね……」

 安堵したように、明々は息を吐いていた。

 当たり前じゃない。私には恩玲さんという心に決めた人がいるんだから――。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る