ACT.4-3
「いいところね」
次の日の昼前に、イェルラはアイラの案内で水場へと来ていた。塗り薬の原料になる薬草を採るだめだ。水場は開けた場所にあった。森の奥にある川から流れ込む水が貯まり、また下流へと流れていく。深さは大人の腰くらいだが広さがそれなりにあるようで、大人一人くらいなら泳げてしまいそうだった。
目指す薬草はすぐに見つかった。水辺に並んで生えている花がそれだ。一本の茎に小さな、釣り鐘のような白い花がいくつもぶら下がって咲いている。
「もしよかったら、水浴びしていきたいんだけど……」
イェルラがアイラを見て言う。
ここに来てから二日が経つ。毎日、水で体を拭いているとはいえ、それだけでは充分とはいえない。そろそろ水浴びでもしてさっぱりとしたいところだ。
「あ、はい。どうぞ」
アイラは慌てたように言った。家を出てからここまで、彼女は必要最小限の言葉しか発しなかった。アイラとイェルラはそれほどうち解けていたわけではないのだから、しょうがないかもしれない。だが言葉が少ないのは少女自身が何か考え事をしているからのように見えた。
許可をもらったイェルラはローブを脱ぎ始めた。優雅な曲線を描くプロポーションが露わになる。その肌は雪のように白い。アイラはその白さに思わず見とれた。
イェルラは水場に入ると、ゆっくりと体に水を浴びせ始めた。
「せっかくだし、あなたも入ったら?」
物も言わず見とれていたアイラに向かって、イェルラは言う。少女は慌てたように首を横に振った。
「い、いえ。あたしは………………イェルラさん」
少し長い沈黙の後、アイラが魔術師の名を呼ぶ。その声には思い詰めたような響きがあった。
「どうしたの?」
彼女の変化に気づいたイェルラは、水の中からアイラを見る。少女は真剣な表情でイェルラを見つめ返した。
「ケインが言っていたことは本当……だったんですね」
「…………」
「ごめんなさい。昨日イェルラさんたちが話しているのを聞いてしまったんです」
アイラは申し訳なさそうに言う。
「謝る必要はないわ。わたしたちの配慮不足よ。隣の部屋にいたんだもの、その気がなくても聞こえてしまうものね」
「あのっ……アベルくんは……本当に」
「ええ。生き返って――いることになるのかもね。但し、人間としてではなくあなたたちの言う化け物として、だけど」
イェルラは躊躇うことなくそう言った。アイラの表情が強ばる。
「そしてあなたの弟は、夜に抜け出してアベルと会っていたみたいね」
「そんなっ」
アイラはその場で崩れ落ちた。両手で自分の肩を抱き、震えている。
イェルラは水場から出てアイラの元へと歩いて行く。そしてしゃがみ込むと少女の肩を優しく掴んだ。
「大丈夫。村人殺しにあなたの弟は関わっていないわ」
「でもあたし、どうすれば……」
「まずは現実を受け入れなさい。そして自分の弟を信じるの。たった一人の家族じゃない。あなたが信じてあげなきゃ」
「でも、でも……村の人がたくさん死んで、ルードさんも……あっ」
そこでアイラは言葉を止めた。一つの考えに思い至ったのだ。化け物に殺された最初の犠牲者はルードだ。化け物の正体がルードの息子であるアベルだというのなら――
それは決して考えたくない最悪の可能性。アイラの震えが大きくなる。
「あなたには刺激が強すぎるかもしれないけど、それは現実にあったことよ。だけどアベルという少年が悪いわけではないわ。殺された人と同じ犠牲者よ。みんな死んでしまった者よ」
淡々と喋っているが、イェルラの声はどこまでも優しい。
「そして今は死んでしまった者よりも、生きている者のことを考えなさい」
そう言ってイェルラはアイラを立たせた。
「できる?」
少女はゆっくりと、だが確実に頷いた。
「いい子ね」
イェルラはそのまま少女の背中を押した。思いの外強い力で押され、アイラは転びそうになる。
「!?」
驚いて振り向くアイラの眼前を、風が横切った。風は水場へと向かい、水面とぶつかって派手な水しぶきを上げる。
【我思ウ。汝ハ切リ裂ク風ナリ】
独特の抑揚と特殊な発声によって生み出される呪文が水場に響いた。風が唸り、見えない刃が飛んでくる。
【我思う。汝は防ぐ氷なり】
イェルラもすぐに呪文を紡ぐ。
アイラは状況の変化についていけずに固まっていた。
「行きなさい!」
イェルラに怒鳴られてアイラは我に返る。
「早く!」
その声に押されるようにしてアイラはこの場から走り去った。
「覗き見なんて高くつくわよ」
イェルラは風の刃が飛んできた方を見て言った。森の奥、彼女たちが来たのとは反対の方向からそいつは現れた。
最初に見えたのは藍色を基調としたローブ。随分と汚れているが、それは魔導院に所属する魔術師の正式服装だ。痩躯をローブで包み、頼りない足取りで歩いて来ていた。
腕も細く頼りないが、指は人間のものとは思えないほど長く、指先には鋭い爪が生えている。顔は人としての形を成しているが、イェルラを睨み付ける瞳の色は赤だ。
「ルード……じゃあないわね。魔導院に帰って来なかった方ね。もう一人は?」
相手は答えない。ただ感情の掴めない表情でイェルラを見るのみだ。
【我思ウ。汝ハ切リ裂ク風ナリ。我ガ敵ヲスベテ等シク襲ウモノナリ】
化け物と化した魔術師が呪文を紡ぐ。イェルラの周囲にいくつもの見えざる刃が生まれた。それは一斉に彼女を襲う。
【我思う。汝は偽る氷なり】
イェルラが呪文を紡ぎ終わるのとほぼ同時に、見えざる風の刃は彼女の体を切り裂いた。重い音を立てて地面に切り離された腕や首、胴が落ちる。
だがそれはすぐに氷の彫像となり、溶けてなくなった。
刃を放った魔術師の右肩が弾ける。
「杖もなければ他のもので術行使の代償も緩衝していないのね」
誰もいない場所から、景色が溶けるようにイェルラの姿が現れる。彼女の胸――谷間より心持ち上の部分――に光りが灯っていた。よく見るとそれは秘紋だった。秘紋が輝き、イェルラの使った魔術の代償を肩代わりする。
「いえ、考えることもできないのね。いいわ。この〝翡翠の魔女〟があたなに引導を渡してあげる」
そう言ってイェルラは氷の微笑みを浮かべた。
☆
「呼び出してすまない。〝左利き〟のパーズ」
ルードの家の前にパーズが姿を現す。後ろにはアートゥラを従えていた。
コエンはそれを一人で迎える。
「パーズでいい。〝赤い風〟……一人か?」
「ああ。俺もコエンと呼んでくれ。そっちは一人足りないようだな?」
「イェルラは薬草を採りに森へ行っている。用件は俺が聞こう」
三人の他に人影はない。パーズはコエンからやや距離をとった場所で立ち止まった。
「これを見てくれ」
そう言ってコエンはボロボロになった布きれを突き出した。汚れてはいるが布の色が藍色なのは確認できる。そして注意深く見れば、それがかつてローブだったことも分かるだろう。
それに気づいたアートゥラが口を開く。
「藍色の……ローブ? もしかして魔導院の……」
「恐らくな。俺たちは昨夜、森の中でこいつを着た化け物に襲われた」
コエンは鋭い目でパーズたちを見ている。パーズは表情を変えることなくそれを受け止める。
「なにそれ。アタシたちが化け物を操ってるって疑ってんの?」
「お前たちを疑っているわけではない。だが、化け物騒ぎのある時にこの村に来たのは偶然ではないのだろ?」
「…………」
パーズは答えない。ただ黙ってコエンを見ているのみだ。
「……あの少年、ケインと言ったな。昨日ゼルが追って行った化け物を、アベルと呼んでいたそうだが?」
「……あの傭兵は?」パーズが問う。
「帰って来ていない。俺たちも探したが連絡もとれない。パーズ、取引をしないか?」
パーズは探るような目でコエンを見る。対するコエンはパーズの視線を真っ向から受け止めた。
「……何が望みだ?」
「お前たちの知っていることを教えてほしい。その代わり、あの化け物の居場所が分かったらお前たちに教えよう」
「なにそれ。えらくそっちにムシのいい条件じゃない? そっちが教えてくれる保証なんてないでしょ?」
アートゥラは呆れたような表情を浮かべて言った。コエンは彼女を一瞥して、懐から虚笛を取り出す。
「テッドの持っていた虚笛だ。俺たちの吹いた虚笛に反応する。取引に応じるのなら、これを渡そう。今回の仕事で使っている符丁も一緒にな」
人の可聴領域外の音を出す虚笛は、決まった音にしか反応しない。それは笛どうしで細かく調整されており、組みとなる虚笛の間でしか音を受け取ることはできない。地形や天候に左右されるとはいえ、離れた場所にいても連絡がとれる虚笛は貴重な情報伝達手段だ。高価な魔導具を傭兵たちが使うのにはそれなりの
その虚笛を、普通は仲間以外の手に渡そうとはしない。それは情報の漏洩を意味するからだ。
「……いいだろう。だが手を組むのはアベルが見つかるまでた。その
「分かった」
コエンはパーズと自分の中間地点に虚笛を置いた。傭兵が下がると、パーズがそれを注意深く広う。
「……交渉成――」
コエンが口を開いた瞬間、森の中から誰かが走り出してきた。三人が一斉にそちらを向く。
飛び出てきた華奢な人影はアイラだった。アイラはパーズたちの姿を見つけると、転びそうになりながら走り寄って来た。
「アイラちゃん、どうしたの?
倒れ込みそうになったアイラを、アートゥラが支える。
「イェルラさんが!」両手に縋ったアイラがアートゥラを見て言う。「突然何かに襲われて。イェルラさんはあたしを庇ってくれて、行けって」
感情が高ぶっているせいか言葉が上手く出てこない。アイラはアートゥラの手を取るとそのまま森の中へと引っ張って行こうとする。
「待て。君は家へ戻っていろ。俺たちだけで行く」
アイラの様子にただならぬものを感じ、パーズは少女を引き留めた。
「でも場所が……」
「どこで襲われた?」コエンが落ち着いた声で訊く。
「水場で」
「そこなら分かる。お嬢さんは家に戻ったほうがいい」
それだけ言うと、コエンは森の方へ向かった走り出した。パーズとアートゥラもすぐに後を追う。
「あっ!」
「いいから、アイラちゃんは戻って。ケインくんの
ケインの名を言われ、アイラの足が止まった。それを見たアートゥラは安心してとばかりに、少女に向けて片目をつむってみせた。
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