北海道ベースボール事始め物語

秋山如雪

Playball.1 バットとボール

 野球。今や日本において、国民的人気を誇るポピュラーなスポーツだが。


 その歴史は、19世紀のアメリカに遡る。

 その起源については、諸説あり、イギリスの「クリケット」が起源とも言われているが。

 1839年に、ニューヨークのクーパースタウンで、アブナー・ダブルディーという人によって始まったとも言われている。


 最初に「変化球」を投げたのは、1872年にナショナル・アソシエーションのニューヨーク・ミューチュアルズに入団したキャンディ・カミングスで、「カーブ」が野球初の変化球と言われている。


 そして、日本に野球が入ってきたのは、明治5年(1872年)、東京大学の前身である、第一大学区第一番中学(翌年に開成学校に改名)で、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンがバットでボールを打ったというのが「最初」と言われている。


 翌年の明治6年(1873年)、北海道大学の前身である東京の開拓使仮学校で、アメリカ人教師のアルバート・G・ベーツが、本国から持ってきたバットとボールで、仮学校の生徒にゲームの仕方を教え、2チームがベースボールを行った。つまり、ゲームとしてのベースボールの試合を、日本で初めて行ったのは、開拓使仮学校と言われている。


 その開拓使仮学校は、明治8年(1875年)に、北海道の札幌に移転し、翌明治9年(1876年) 8月、札幌農学校として開校した。これがのちの北海道大学となる。


 「少年よ大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラーク博士とともにアメリカより来日した教師の1人、デビッド・P・ペンハローが、明治10年(1877年)、バットとボールを作らせたときの文書が、北海道大学文書館に残っている。


 これは、まだ野球が「野球」という名すらなく、「ベースボール」あるいは「打球鬼ごっこ」と呼ばれていた、野球黎明期の物語である。



 明治10年(1877年)、9月。北海道、札幌農学校。遠く鹿児島の地では、西南の役と呼ばれる戦いがまだ続いていたが、この北の大地には、まったく影響がない出来事だった。士族の反乱とは無縁の地で、事態が動き出す。


「おーい、伊藤!」

 伊藤と呼ばれた細身の男は、ローム層の広がる、広い芝生の上に座り、本を読んでいた。当時の札幌農学校には、演武場(現在の時計台)が建てられ、その西側には芝生のローンが広がっていた。もっとも、演武場が出来るのは、この翌年なので、まだ演武場自体はなかった。


 季節は、9月。夏が短い北海道に訪れた、わずかな「暖かい」季節ももう終わり、秋風が吹く季節だった。

 お盆を過ぎると、一気に秋風が吹き、すぐに雪が降るこの土地にとって、短い夏は「恵みの季節」だったからだ。

 本州以南のような「残暑」という言葉すら、この北海道にはない。

 ちなみに、当時の札幌農学校は、アメリカ式に9月が新学期スタートになり、ちょうど第二期生が入学している。


 体が細く、細面で、全体的に線が細い印象がある伊藤という男の本名は、伊藤一隆かずたか。札幌農学校第一期生で、クリスチャンでもあり、英語に堪能だったと言われている。安政6年(1859年)、江戸の産まれと言われている。この時、18歳。


 彼が本から目を逸らし、見上げた先には、伊藤とは違い、どちらかというと岩のようにごつごつとした、四角い顔に近い、筋肉質の男が校舎から駆けてきていた。


「大島。どうした?」

 大島と呼ばれた男が、伊藤の元にたどり着き、息を整える。走ってきた彼は、相当、切羽詰まっているように見えたが、その割にはどこか嬉しそうな表情を浮かべており、頬が緩んでいた。

 彼の名は、大島正健まさたけ。伊藤とは同じ安政6年(1859年)、神奈川県の産まれで、同じく札幌農学校第一期生でもあり、3か月前の4月に、帰国するクラークに惜別の漢詩を読み、'Boys, be ambitious'を訳したとも言われている。同じく18歳で、伊藤の親友でもあった。


「ペンハロー先生が、呼んでいる。全員、講堂に集まれ、とのことだ」

 それを伝えに来ただけにしては、やけに嬉しそうに語るので、伊藤は気になって、


「何かあったのか?」

 と問いただすと、大島は、


「先生が、面白い物を作ったらしい」

 とだけ、答えて、言葉を濁していた。


 伊藤は、仕方がなく、大島に従って、講堂に向かう。


 そこでは、アメリカ人教師のペンハローが、第一期生どころか、第二期生まで集めて待っていた。


 第一期生だけで24名、第二期生もほぼ同数の22名、合計で46名もの生徒が集まっていた。


 皆、当然まだ若い。


 その中には、後に有名になる内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾の姿もあり、一期生の中には佐藤昌介しょうすけもいた。


 ペンハローは、全員の前で説明するが、もちろんそれは「英語」だった。


 札幌農学校では、当時、日常的に英語を使っていて、一期生も二期生も、選りすぐりのエリートとも言える人材だったため、全員が英語を理解できたと言われている。


「全員集まったね」

 ペンハローが見渡して、流暢な英語で告げる。


 デビッド・P・ペンハロー。八の字型の口髭を生やした、まだ20代の教師で、生徒たちとそう変わらない若者である。面は細いが、しっかりした肉付きのある、大柄なアメリカ人らしい教師だった。彼はマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)を卒業し、クラーク主導の実験にも参加したという。

 専門の化学、植物学、園芸学、地質学、顕微学の他、演説を含む英語を教えたという。


 その他に、同じく20代後半の長身の男が一人、その後ろに立っていた。

 ウィリアム・ホイーラーという男で、数学、土木工学、英語を教えるために来日し、クラークの後任の教頭になっていたが、事実上の校長に等しい立場だった。

 だが、いずれも20代という若さである。


「今日は、君たちに面白い物を作ったから、これでスポーツをしよう」

 そう言って、彼が指を示した先には、生徒たちが見たことがないような物が複数置いてあった。


 直径が3インチ(約9㎝)の革の鞠が8個と、長さ3フィート半(約46㎝)の木で出来た棒が5本。


「先生。これは一体、何ですか?」

 内村鑑三が問いかける。

 万延2年(1861年)生まれの、まだ16歳のあどけない少年の面影を残した彼は、短髪で丸顔の愛嬌のある顔立ちをしていた。


「ベースボールだ」

 その一言によって、北の大地、北海道で初のベースボールが行われることになるのだった。

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