戸惑うナポリタン

踊り場で涙目

第1話


「来月より、『昔ながら』と名のつく物の流布、提供を一切禁止する」

 総理大臣が言ったその新しい法案に、この道三十年の喫茶店のマスター、吉村慎也は頭を抱えていた。

 慎也は二十代で脱サラして、借金を抱えて喫茶店アブチュールを地元に開業。最初は客も知り合いしか来ず、客足に反比例するように借金は湯水の如く膨れ上がっていたが、そんな中一つのメニューが運命を大きく変えた。それがナポリタンだった。


 慎也は自分の淹れるコーヒーに自信があった。だが、コーヒー以外に看板メニューが必要だと、アドバイス好きの同級生である万代佑希に言われ、食事メニューで一番人気だったナポリタンを改良することにした。

 スパゲッティの本場、イタリアに修行しに行く金なんてもうない。だから何度も何度も、もはや自宅代わりにしていたアブチュールの厨房でナポリタンを作った。ナポリタンと言えば、慎也の世代なら誰でも味わっていた懐かしの味だ。それをとにかく再現しようした。そして自宅に帰らず夜通し研究を重ねた結果、ついに納得できるものが完成した。舌は、ケチャップ味のものを判別できなくなるくらいのギリギリの状態だった。

 メニューにあったナポリタンは、昔ながらのナポリタンと名前を変え、再び誕生した。

 昔ながらのナポリタンは好評だった。コーヒーだけしか頼まなかった常連が、毎回追加で頼むようになった。単純に客単価が上がった。噂を聞きつけて、昼ごはん代わりにナポリタンだけを食べに来る若者も増えた。客数が上がった証拠だった。ナポリタンはコーヒーの倍くらいの値段がするのもあってか、ナポリタンの売上が上がるに連れて生活は潤った。雑誌の取材が来たこともあった。さらに客の数は増えた。

 だが、慎也はどれだけ忙しくなっても丁寧に愛情を持ってナポリタンを作った。一人では店が回らなくなったので、アルバイトのスタッフも雇ったりもしたが、ナポリタンだけは自分で作ることにした。ここだけは譲れなかった。それだけ慎也にとっては、そしてのこのアブチュールにとって「昔ながらのナポリタン」は大きい存在だった。

 それなのに、突如「昔ながら」という表現が禁止になるという。理由は多すぎるから、という雑なものだった。そんな中国の一人っ子政策のようなことをナポリタンでやってもらっては困る、と慎也は憤った。だが反逆し、昔ながらのナポリタンを出し続け、牢屋にぶち込まれるのは嫌だ。

 今の慎也には守るべきものがあるからだ。嫁と娘だ。嫁の美砂子とは、アブチュールの店の中で出会った。が、従業員ではない。美砂子は常連客だったのだ。

 当時慎也は、やけに毎日来る美人がいるな、と美砂子のことを思っていた。美砂子はいつも昔ながらのナポリタンと、ロイヤルミルクティーを飲んでいた。慎也の中では、あまり相性が良くなさそうな組み合わせだと思っていたので、思い切ってそれをきっかけに喋りかけてみた。実は、かなり前から彼女のことが気になっていたのだ。

「ナポリタンと、ミルクティーって合いますよね」

 心とは裏腹なことが口から出て、二人の物語は幕を開けた。途中、美砂子が来てくれない時期があって不安になったり、アルバイトに関係をからかわれたり、美砂子の服にミルクティーをこぼしてしまったり、色々なことがあった後、二人は付き合い、結婚することになった。美砂子は当時働いていたパートを辞め、アブチュールで働くことになり、慎也はいつでも近くに愛する妻を見ながら仕事に精を出せる幸せを手に入れた。さらに幸せは続いた。美沙子が妊娠したのだ。娘だとわかった途端、慎也は「りなはどうだ? 漢字はこだわりないから、任せるけど」と美砂子に訊いた。

「りな? 可愛い名前ね。じゃ、漢字は私が決めるわね。さっそく、夫婦の分業ってことね」と、すんなり「莉菜」という名前に決まった。慎也は、ナポリタンの五文字の中から文字を抽出して「リナ」を提案したのだった。それくらい慎也にとってナポリタンは大きい存在だった。なんとなく、名前の由来は美砂子には言えなかった。

 その美砂子もあっという間に大きくなり、今や高校生だ。生意気なことも言うようになったが、初めて慎也のナポリタンを食べたときに「おいしい」と言ってくれたときの無垢な顔を慎也は未だに忘れることができない。ナポリタンは何人もの客に「おいしい」と言われてきたが、慎也にとってはその莉菜からの「おいしい」が誰からの言葉よりも嬉しかった。

 あの宝石のような思い出も、なくなってしまうのか。いや、思い出はなくならない。だが「昔ながら」という言葉が使えなくなることで、思い出に傷が入ってしまうような気がした。

 なんて、余計な法案を作ってくれるんだ、政府は。

 慎也はふと店の外に出て、曇り空を眺めた。雨が降ってきそうだな、と思っていると「おー、慎也じゃないか」と声をかけられた。

 それは地元の同級生の石渡達彦だった。




 石渡は親の自転車屋を継いだが、近くに大型のチェーン店ができた頃から客足が鈍り、店は徐々にたこ焼きを作ったり、どこから仕入れてきたのかわからないお菓子を安く売ったり「何でも屋」と化していった。次第に自転車が買えるたこ焼き屋さんという、地元住民の中では有名な変わり種店に変貌したが、やはり自転車が売れないと単価は上がらないし、場所はとるしで、何とも難しい状況だった。

 そんな状況に業を煮やした石渡は、一大決心をした。それは、自転車業を完全撤退し、ラーメン屋を開くというものだった。石渡は、たこ焼きを作るうちに、料理したものを人に提供する楽しさに目覚めたのであった。一から自分で美味しいものを作っていく過程は、自転車のタイヤを整備することよりも楽しくて魅力あるものに感じたのである。

 だが、ラーメン屋に挑戦するというのは、少々無謀だった。父からは猛反発をくらった。

 ラーメンは好きだったが、それだけではすぐにものにできるものではなかった。前の晩から出汁をとり、麺の固さを研究し、材料を仕入れる。それまでやったことのないことに翻弄され、味を追求するまでにはいかなかった。

 こんなことなら、たこ焼き屋にしておけばよかった。その後悔をずっと抱えていた。たこ焼きなら、自分が作ってもある程度の味になる保証はあった。だが、ラーメンは難しいし何より手間がかかる。

 そんなときだった。疲れ果てた石渡は、同級生の慎也が経営する喫茶店に、ふとコーヒーでも飲もうと行ったのだった。慎也も、中々経営がうまくいっていなさそうだったので、愚痴を言い合いたいという目的もあった。だが店に入ると、数年前まではこの世の終わりのような顔をしていた慎也の表情が輝いていた。店内は客で溢れており、慎也は従業員に囲まれていた。若妻らしき人もいた。

「何があったんだ?」

 慎也に訊くと、あるメニューがきっかけだと教えてくれた。

 それから石渡は、それを参考に来る日も来る日もラーメンの研究を重ねた。それまで、味噌、とんこつ、塩、醤油とんこつ、つけ麺、あらゆるメニューを考案したが、もうやめた。慎也からもらった一言がきっかけだった。

「俺も色々と試したんだけど、結局はシンプルなところに帰ってくるんだよな」

 少し照れくさそうに言う慎也の言葉が、夜な夜な蘇った。そしてその言葉通り、石渡はシンプルでどこか懐かしい醤油ラーメンを作った。

 名前はどうしようかと思ったが、慎也の言葉にあやかって「昔ながらの中華そば」にした。

 その昔ながらの中華そばをメニューに取り入れて以降、石渡は他の自信がなかったメニューをすべてやめた。最初はそれらを頼んでいる常連の客からクレームがあるかなと思っていたが、ほとんどなかった。なぜなら彼らは皆、満足そうに昔ながらの中華そばを頼んでいたからだ。そのメニュー一本に絞ったのがよかったのかもしれない。

 またたく間に、石渡の店は隠れた名店として地元で有名になった。かつては自転車屋だったというルーツも話題に色を添えた。最初はラーメン屋を始めることに猛反対だった父親からも感謝され、母はいなかったがどこかで笑ってくれている気がした。

 そして何より周りに人が増えたのが嬉しかった。人が増えると、それだけ多くの笑顔を見れた。幼少時より、家の中で笑顔を見ることが少なかった石渡にとって、それは何よりの充実感に繋がった。

 そのきっかけになってくれたのは、どう考えても「昔ながらの中華そば」だった。その思い出のメニューがただの「中華そば」になってしまう。そんな暗澹とした思いで、歩いていると、無意識に慎也の店に足が向かっていたのだった。


「お前のとこはどうするんだ? たしか昔ながらの中華そばって人気メニューだったろ?」

「そういうお前こそ、昔ながらのナポリタンは県外からも食べに来る客がいるっていうじゃないか」

 二人はお互い困り果てた顔で見つめ合った。だが、どうすることもできなかった。「昔ながらの」という言葉をつけたままにしておくと、法律違反である。

「やめるしかないよなぁ」と、もちろん店を畳むわけではないが、そのメニュー名を使うことはやめるしかなかった。

 法案施行当日、慎也のアブチュールのメニューから「昔ながらのナポリタン」が消え、「美味しいナポリタン」というメニューが増えた。石渡のラーメン屋「龍石ラーメン」からは「昔ながらの中華そば」が消え、代わりに「龍石特製醤油ラーメン」の文字が踊った。美味しいナポリタンも、龍石特製醤油ラーメンも以前のメニューから味は一切変えなかった。だが、不思議と頼む客は減った。

 最初はその代わりに、他のメニューを頼んでくれているように感じていたのだが、徐々に売上が下がるようになって、単純に客足が遠のいていることや、コーヒーだけを頼んで帰る客や、生ビール一杯で粘る客が増えていることに気づく。

「あと私、昔ながらのナポリタンもください〜♪」「昔ながらの中華そばひとつ〜♪」

 かつての客の注文する声が、懐かし映像のように脳内を巡る。

 石渡はラーメンを頼まなくなった常連客に「いや〜、前と味は変えてないんだけどね〜」と声をかけたが、たいていは「そういう問題じゃないんだ」と、龍石特製醤油ラーメンを頼むことを拒否された。ここまでとは考えていなかった。それは慎也とて同じだし、全国の昔ながらのナポリタン、中華そばを提供していた店主たちが共通して思ったことだった。なぜか、昔ながらのソース焼きそばや、昔ながらのコーンスープを作っている店主からはそのような悲鳴は聞こえなかった。

 だが、実際に「昔ながら禁止条例」が施行して一年が経つと、多くの昔ながらの喫茶店やラーメン店が潰れていった。その店構えを見ると、どう考えても「昔ながら」という言葉のメニューを扱っていたんだろうという風貌だった。

 あれだけ快調に売上を伸ばしていた、アブチュールも例外ではなかった。味は一つも変えていないのに、客足は徐々に減り、そうなってくると従業員を首にしなくてはならなくなる。何の悪さもしていない従業員を首にすることは、慎也にとっては大変心が痛むことだったので、徐々にその従業員に嫌われるように、思ってもみない罵倒を言ったりした。

「君は何年やったら、まともにキリマンジャロの一つでも淹れることができるようになるんだ」「駄目だ、君の淹れるエスプレッソはもはやエスプレッソではない、ただのプレッソだ」と、わけのわからない言い分で従業員を追い込んだ。その結果、店全体の空気も悪くなり、辞めさせる予定だった従業員以外も全員辞めることになり、アブチュールには慎也と美砂子しか残らなかった。

 さすがにそれでは店が回らないので、莉菜に無理やり店番をしてもらうこともあった。慎也は外に買い付けにいったり、正直やさぐれてサボっているときもあった。そんなときに、ナポリタンが注文されればどうするのか。慎也は、看板メニューのナポリタンを絶対に他の従業員に作らせないことを徹底していた。慎也がいないときは「今、出すことができないんです」と客に説明するようにしていたくらいなのである。

 だが今回美砂子に訊かれた慎也はこう答えた。

「ナポリタンくらい、お前も作れるだろ。任せるよ」

 そう言って慎也は出かけていった。その様子から、買い付けでないことは一目瞭然だった。なにせ、買い付けに行かないといけないほど、客が来ていないのである。 

 だが、慎也の一言が美砂子の契機になった。

「ねぇ、あの人がいなくなってる間に、お客さんが一人でもナポリタン頼んだら、お母さん離婚しようと思うの」

 美砂子はそのように莉菜に言った。

「え、どうして?」

 莉菜はそこまで動揺せずに訊いた。

「お母さんねぇ、この店の常連だったの。最初はパートの休憩中にミルクティーだけ飲んで、あとは帰ってコンビニのパンとか食べてたんだけど、一度ここのナポリタン食べてね。それがあまりにも懐かしい味で美味しくて、ほぼ毎日来るようになったんだ。で、誰が作ってるんだろうって訊いたら、『これは私が作ってます、ナポリタンだけは他の者に作らせないって決めてるんで。これは、私の人生を変えてくれた大事な大事なメニューなんです』って、少し照れながら教えてくれたのがお父さんなの。それからナポリタンというよりはお父さんに惹かれちゃって、またたく間に結婚しちゃった。だから、お母さんにとっても、ここのナポリタンは本当に思い出の味なの」

「お母さん……」

「だから、その思い出を、さっきみたいにぞんざいに扱われるのは本当につらくて。しかもそれを言ったのがお父さん本人なのよ。だから、もう終わりかなって思ったの。でも、もしナポリタンの神様がいて、私にナポリタンを作らせなかったら、まだどこかで私たちの関係は元に戻る可能性があるかなって、思ってね」

「だから、ナポリタンが頼まれたら離婚するってことなの……」

「うん。だって注文があって、私が作らない限りは、本当にお父さんがナポリタンへの愛がなくなったかはわからないでしょ? もしかしたら、店の前に『ナポリタンは現在注文できません』って看板出してくれてるのかもしれないしね」

「ふふ、お母さん見に行かないの? 看板出ていかないか」

「見に行かないわよ。信じなくちゃ、こういうのは」

 美砂子が少し天井を見ながらそう言うと、カランカランというベルとともに、中年の男が入ってきた。

 男は案内する前に、カウンターに座り「ねぇちゃん、ナポリタン一つ! 腹減った〜」と言いのけた。

 美砂子と莉菜は顔を見合わせた。

 美砂子は息を一つ大きく吐き、「はーい」と言った。莉菜は神妙な顔でグラスに水を入れた。




 それから約一年後、慎也と美砂子は離婚した。その一年の間、毎日のように美砂子は「あいつ、なかなか判を押さない」と愚痴をこぼしていた。莉菜は美砂子に連れられて店を出ていった。仕事中もプライベートもずっと同じ空間にいた人を失った慎也は、本当にこの世界に一人ぼっちになった気がしていた。それでも意地だけでなんとか営業を続けた。だが、もうかつての客足は戻ってこなかった。

 体力と言うよりは、精神が疲弊した仕事終わり、慎也は必ず自分のためにコーヒーを淹れた。そしてそれを客側のカウンターに座って飲むのだった。


 こんな苦かったっけなぁ……


 コーヒーの湯気が天井に昇っていく。

 カランカラン

 入口から音がしたので振り返ると、そこには石渡がいた。

「俺の店、潰れちゃったよ。まだ嫁ももらってないのに」

 一見明るく喋る石渡の表情の奥は、苦悶や無念でいっぱいだった。

「そうか……」

 慎也は独り言のように呟き、カップを置いた。いつから自分は、こんなハードボイルドな雰囲気になったのだろう。

「お前の店は大丈夫なのか? だって、昔ながらの喫茶店って、もうほぼなくなったって聞くじゃないか。お洒落で写真に載せたくなるようなメニューが豊富なカフェとか、本が読めたり、子供が遊ぶスペースがあったり、そういうのじゃないと、今はもう流行らないし、客が来ないって聞いたぞ」

「そうだな。たしかに、客は減った。俺の口数も減った。嫁と子供は逃げた。借金は増えた。でもな、もう少しだけやってみようと思うんだ」

「どうして? そんなことより、どうだ? 俺と一緒に新しい事業起こさないか? 俺とお前だったらいけると思うんだ。だってほら……」

「俺はもう少しだけ頑張る」

 慎也は石渡の言葉を遮って言った。


「どうして? どうしてお前はこの店にこだわるんだよ?」


「だってほら、俺は昔ながらの男だから……」


 慎也は残ったコーヒーを一気にすすった。

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