リング・リング・リング

風海 徹也

第1話

 男と女の恋愛経験に対する感性には大きな違いがある。これをパソコンのファイル保存方法に例えるなら、男は〝名前を付けて保存〟女は〝上書き保存〟となるのかもしれない。

 男は未練がましい。だから「これまで」を大事に取っておこうとする。過去の教訓を生かすためという言い訳で自らをフォローしてはいるが、実態は後から見直して想い出に浸るためだ。一方で女は恋愛というファイルが一つしかないので、それをどんどん更新していく。その頻度は人それぞれだが、過去をたどる必要は無い。以前の体験は自分の記憶の中で何となくなぞれればいい。

 このように恋愛観は男女で大きく異なる。それでも共通しているのは、両者にとって〝恋愛経験〟というファイルが自分のメモリーから完全削除してしまうことは決して出来ない最重要ファイルということである。


 雅俊と朋美、二人の目の前を魚達がゆっくりと一定速度でゆっくり泳いでいく。

それと同じように二人の間には静かな沈黙が流れていたが、朋美が重い口を開き尋ねた。

「本当にやるの?」

「ああ、やる。もう決めた」

「そんなこと絶対やめた方がいいよ」

「俺達の運命がかかっているんだ。やる!」

 この言葉に朋美は動揺したようだった。雅俊はその揺れを感じ取り、朋美の顔を見つめてみた。だが朋美の揺れは後ろに引く揺れではなく、首を左右に振る揺れだった。

「〝俺達〟の運命じゃなくて〝俺〟の運命でしょ?」

「………」


 今日は出だしからしてつまずいていた。約束の時間に朋美は遅れてきた。それも疑惑つきである。予約が当日になることを告げたのがいけなかったのかもしれない。

その間、雅俊は冬の夜空を仰ぎながら、体を左右にゆすらせ

「うーっ…寒い!」

 と、うつむき加減に発した自分の声が地面に反射し、それがあごに当たったかのように再び顔を上げた時だった。

 そこへ朋美が駆けつけてきた。ただ残念ながらそれは遅れを取り戻すものではなく、体裁を取りつくろうための小走りに感じられた。

『こいつ、俺が見える所から走ったな……』

 それでも朋美は笑顔で

「お待たせ」

 雅俊はその態度を指摘することなく、のちの十数分で中に入った。今日の待ち合わせは最近出来た人気スポットであり、ネット上での評価も高い。なので、比較的自然に呼び出すことには成功した。そう考えると本当の出だしは好調だったのかもしれない。

 その名前は、アミューズメントパーク〝テガルニースシー〟である。

正式名を〝回転寿司〟という。

 結構待たされただけはあり、店内は満員だった。ひと目で家族連れが大半を占めていることが分かるが、友人同士、更にはお一人様もちらほら見受けられる。時に子供の泣き声も混ざってはいるものの、数多くの明るい会話のキャッチボールがフロアの活気に拍車をかけていた。

 既にテーブル席は埋まっていたこともあり、二人は並びのカウンター席に案内された。そして背後の壁のフックにコートをかけるように指示される。雅俊は朋美のコートをかけてやることを忘れなかった。

「ありがとう」

 まだ、朋美の顔に謝意は浮かんでなかった。

『まぁ~今日はいいか……』

 やや不本意だったが、雅俊は自分を納得させていた。そして着席するとまずは冷えた体を温めるために、熱いお茶を飲んだ。本来であれば、この後注文するビールの喉ごしの妨げになるかとは思ったが、そうせざるを得ない状態であった。

 ほっと落ち着くと、二人はそれぞれが早速皿を取り始める。そこからは他愛もない話が小一時間続く。最近の生活状況や今ハマっているものなどの、いわゆる近況報告である。

 その中でもそこそこ盛り上がったのは、共通の知人に関する一方が知らない情報であった。この類の話は会話のリズムが良くなりやすい。なりやすいのだが、ただしこのトークもお互いにあえてある部分には触れないようにする気づかいも忘れてはいなかった。

 そして話を続ける一方で、雅俊は横目で動く寿司達を捉えていた。勿論、食べるためもあるのだがその速度が少し気になっていた。一般的にどの回転寿司店も客席一人分の通過時間は約六秒とされている。これは人間が多数の料理の中から自分の好みのものを選択し、手を伸ばすまでの平均時間とほぼ合致する。このグットスピードとされる速度が何となく今の自分とマッチしていない気がしたのだ。

 こうして話がひと段落したところで、雅俊の前に二杯目の生ビールが置かれた。ジョッキの中で踊る小さな気泡は何かが沸き立ってきているようにも見える。だがこの泡は間もなく収まってしまう。この後、禁断の領域に踏み込むためには、これをいち早く取り入れた方がいいように感じられた。

 雅俊は少し多めに一気に飲んだ。本来ならば喉を走る爽快感に今一つの引っかかりがある。おそらく、これから発しようとしている言葉が邪魔しているのだろう。それでも言わないワケにはいかない。

「それでどうなんだよ」

「何が?」

 第一声はいきなりだったが、二番目の言葉には多少のためらいがあったせいか声が小さくなっていた。

「今の彼氏との仲だよ」

「うーん……」

 雅俊は伏し目がちになっており、朋美の顔を見ていない。

「まぁ~ぼちぼちかなぁーー」

 この回答がきっかけとなったのか、雅俊は再び朋美の方を向いた。

「そうか」

 彼女の顔は何とも判断しづらかった。現状に満足しているようにも見えるし、疑問を感じているようにも見える。もっとも、ぼちぼちと言う言葉から相手の状況全てを察するのは困難だ。

 雅俊は正確な状況判断と不確定な見切り発車との選択を迫られていた。だが動き出さなければ何も始まらない。後者を選択した。

「なあ、朋美……」

 こう言うと雅俊は残りのビールを一気に飲み干した。その飲み方は喉の鳴る音が朋美にも伝わる程である。だが雅俊の体内で一番大きく響き渡っていたのは心臓の鼓動だった。それを静止させる為の合図のように、ジョッキを力強くどんと置く。そして

「俺達もう一度やり直さないか?」

 突然繰り出したパンチが朋美を的確にヒットしたのかには疑問が残った。彼女にしてみれば、今夜は久々に以前つき合っていた男から誘われて単純に食事をしにきただけである。動くベルト上ではなく、動かないカウンターの上にこんなメニューが出されるとは思っても見なかった。

 固まった朋美をよそに、雅俊は続ける。

「俺にはやっぱりお前が必要なんだよ」

 本来は、こんなことを言うつもりでは無かった。昨夜どころか、長い時間あれこれ考えていたにも関わらず、決めていた最適な科白ではなく、最もダサいと否定していた言葉がつい口から出てしまった。これを言ったらドン引きされるとも考えていた。ただ科白としては陳腐であっても、心の叫びとしてはストレートパンチなのかもしれない。それを判断するのは評論家であり、観客であり、ヒロインでもある朋美なのだ。

「勿論、今の彼氏には俺がちゃんと話をつけるよ。だから……」

 その後に続く言葉が出て来ない。先程、体内に注いだビールの注ぎ方が雑だったせいか、泡だらけになっていた。それが頭の中まで上がってくる。真っ白である。

「だから、分かるだろ? なっ!」

 何ともたどたどしい口説き文句に変化してしまっているのは、自分でも感じ取れた。

「………」

 朋美は更に黙ってしまった。その沈黙をよそに雅俊の鼓動は再び激しく鳴りだした。しかし黄金色の潤滑油はもう残っていない。さっきの手段は使えないので、変わりに今度は唾を飲み込んでみた。

 だが何の役にも立たない。その響く音は弱まるどころか益々強くなっていく。こうなってくると、後は朋美の回答が静めてくれることを祈るしかない。

 思いつめた表情の朋美は

「雅俊……」

 声が震え出していた。雅俊は無言でうなずいた。朋美は精一杯の感情を込めて言う。

「そういうわけにはいかないよォ!」

 思いの外すぐに声が出た。

「何でだよ?」

「だってこの間も彼がうちに遊びに来て、両親にも紹介したの」

 今度は思わず言ってしまった。

「五年つきあっていた俺でさえ行ったことないのに……」

 朋美はこの発言を聞かなかったことにして続ける。

「それに今度の日曜日にはアタシが彼の実家に行くことになっているんだもん」

 明らかに雅俊はうろたえている。

「でも、さっきぼちぼちって……」

「そんなラブラブなんて言ったら、せっかく誘ってくれた雅俊に悪いと思うよ」

 事実を語る言葉無くして、相手へのメッセージ性は乏しい。雅俊は少々開き直った。

「じゃあ、結婚するのかよ?」

「多分ね……」

 弱々しい朋美の声は次の言葉で力強さを取り戻した。

「大体そんな大事な話をこんな所でしなくてもいいでしょ」

「だってお前、この店に来たいって言ってたじゃないか。それで……」

 それとこれとは話が別だ。朋美は再び黙り込んでしまった。

 相手の心がそこに無い恋愛は、一人で遊ぶあやとりにも似ている。一度作り上りあげた形も他人とのやり取りが無いため、限られたものにしか変形させることが出来ない。やはり、二人で行ってこそのものである。時に相手の苦難が少し喜ばしかったり、時に相手との軽快な受け渡しを楽しんだりする。ある意味、恋愛の駆け引きにも似ている。

 今、雅俊は自分の手の中で一つの形を作り、差し出した。しかし朋美は、それを受けようともしない。自らが望んだ形に変化しないかもしれないことは、最初から分かっていた。

 それならそれで頭脳と指先を駆使し、また自分の手の中で新たな形を作りあげればいい。そこでなるべく相手が取りやすい形にしてやることで、この遊戯は成立への道を歩んでいくこととなる。

 だが、作り出した形への応答すらも拒否されてしまっては成す術が無い。指先に張り巡らした毛糸は先程からぴんと張られた状態が続いているが、心の糸は今にも切れそうである。それを無視するかのようにベルトコンベアは無機質に動き続けている。

通常はベストスピードと言われる皿の移動速度が感情の速度に追いついてこないせいかイライラしてきていた。

『考えろ! 考えろ……』

 すると、自分自身にかけた呪文に効果があったのか、少し落ち着き思考回路の回転がその速度を緩めることが出来た。

 そして彼はしばし無言で考えた後、意を決した表情を浮かべ

「よし。じゃあゲーム…… いや、俺達の運命を決めよう」

「?」

 雅俊はおもむろに立ち上がると、背後の壁へと向かい、そこに掛けられたコートのポケットの中に手を突っ込んだ。

 そして何やら取り出してくると、再び席に戻り、カウンターの上に小さな包装された箱を置いた。朋美はそれに目をやった。雅俊は、その包装紙をむしり取る。箱の中身は宝石箱であった。

 雅俊はふたを静かに開け、中の指輪を箱に備えたまま朋美へと差し出した。

「もしお前が俺との元サヤをOKしてくれたら、これを渡そうと思っていたんだ」

「それって、プロポーズってこと?」

「もう恋人気分を味わう必要もないだろ」

 ブランクがあったとは言え、二人で築き上げたものが既にある以上、再び土台作りから始める必要はないと言うのが男の理屈である。

 ところが女はそうはいかない。男にとってはブランクであっても、自分はその間に新らたな恋愛ブランコに乗ってこぎ始めた。スピードも加速し、最大値に近づいてきたところなのだ。

 今更違う乗り物、しかも過去に一度乗ったものに戻れと言われても困る。

「よりを戻そうって言うだけなら、まだ分かるけど……」

「それならいいのかよ?」

 朋美はやや小声で

「そんなわけないでしょ」

「だったら同じじゃないか」

「それは雅俊の勝手な言い分だよ」

 おっしゃる通りなのだが、男の背水の陣に撤退はない。例え少々濁っているとわかっていても、自分の溜めてきた想いを風呂の湯を入れ替えるように流してしまうことは出来ないのだ。

「そもそも、こんなことしていること自体が身勝手なんだ。だから最後まで俺の勝手にさせて貰うよ」

 奇襲攻撃は敵のすきを衝いてこそ有効である。そういった意味では明らかに意表を衝いた。だが反感を買うことも数多く、卑怯と言われてしまう。

 それを知らない雅俊ではなかったが、この作戦のドラマチック性を重んじた。しかしながら戦闘にアクシデントは付き物である。トラブル発生時には、迅速に次なる手立てを考えねばならない。

 雅俊は指輪を右手の人指し指と親指につまみ上げると、目線に掲げ

「これからこいつを……」

 そのまま淡い光を放つ小石で回転している皿達を指し示し

「この中の一つに乗せる。それがそのまま一周して戻ってきたら、俺とのことOKしてくれよ」

「えーっ!」

「いいだろ?」

 いいわけがない。

「そんな馬鹿なことやめなよ」

「何が馬鹿なんだよ。俺は本気マジだ」

 朋美はワンテンポを置き

「酔ってんの?」

 確かにアルコールが後押ししてくれているところもあるだろう。

「違うッ!」

 雅俊は力強く言い切った。

「大体そんなの戻ってくるワケないでしょ。こんなに人がいるんだよ。誰かに取られちゃうよ」

 反論を無視し、パワーゲームの解説は続く。

「だからこそ、運命を決めるにふさわしいんじゃないか。元々、戻ってくる運命にあったってことで、輪廻転生みたいな……」

 輪廻転生は本来そう意味ではないのだが、何となくイメージと必死さは伝わった。

 朋美は尋ねた。

「でも、それ高かったんじゃないの?」

「そ、そりゃあ…… まあ……」

 朋美の心配度は増す。

「やめた方がいいんじゃない?」

「そんな他人事みたいに言うなよ」

 は冷たく静かと書く。そんな感じで、朋美は言い放つ。

「それに何より、うまくいったとしてもアタシが〝うん〟て言う確率は低いんだよ」

 ハッキリとこうも付け加えた。

「そうしたら無駄だよ。わかるよね?」

 雅俊は朋美の顔をじっと見つめていた。彼は今はっきりと、求愛者だけではなく挑戦者の血が沸き上がってくるのを感じている。

「本当にやるの?」

「ああ、やる。もう決めた」

「そんなこと絶対やめた方がいいって」

「俺達の運命がかかっているんだ。無謀かもしれないけど…… やる!」

「だから〝俺達〟の運命じゃなくて〝俺〟の運命でしょ?」

「えっ? いや…… あの……」

 朋美のは冷たく静かに幕を閉じた。このチャレンジは自分一人で成し遂げても意味がない。何とかして隣のヒロインを感動させるドラマチックな物語を作り上げてこそ価値がある。

「朋美が好きな皿選べよ。その皿に乗せよう」

「そんなの選べるわけないよ」

 朋美は困った表情でうつむいてしまった。

「早くしろよ」

 今日何度目かの沈黙。こうなってしまっては、まるで海の底である。海面上の雑音はここまで届かない。ボンベの酸素が切れ、海底奥深く沈んでいくダイバーのように朋美は動こうとしない。それでも感情を失った魚達がゆっくりと目の前を泳いでいく。

 雅俊が息つぎを止めておくにも限界がきた。

「じゃあ、俺が決める」

 今度は皿を見つめる目が水族館の深海魚を見るそれではなく、竜宮城で舞う魚達を楽しむたぐいに少し変わっていた。

 そして突然ひらめいたように

「そうだ。鮭にしよう! 鮭は必ず戻ってくる魚だって言うだろ?」

 雅俊は朋美に自然と笑顔で語りかけていた。

「鮭の滝をも登って泳ぐ姿は、中国では龍に例えられているって言うしな」

 しかし朋美は、ぼそっとだが間髪入れずに言った。

「それは鮭じゃなくて鯉だよ。間違ってるよ」

「そうなの…?」

 ところが、一瞬のたじろぎを見せた雅俊も即答で返した。

「〝コイ〟じゃねえよ。これは〝アイ〟だ!」

「………」

 過去に二人で育んできたものがすでにしなびてしまっているのか、まだみずみずしさを失っていないのか。それに決着を着ける勝負がこれから行われることとなった。

 右方の少し先にサーモンの皿があるのを確認すると、雅俊は

「よし。いくぞ!」

 目の前を通過しようとする鮭に指輪を託した。皿は何事もなかったかのように静かに二人の目の前を過ぎ去っていく。遂に、運命のルーレットは回り始めたのだった。

 朋美はその皿を不安気に目で追う。当然ながら雅俊も見つめ続けていると思われた。しかし何と両肘をカウンターの上に乗せ、左右の手を組み合わせ、それを額に押しつけて目を閉じているではないか。

 朋美はあわてて雅俊に監視することを促そうと思ったが、やはり指輪が気になり、すぐに皿に目を戻した。鮭の航路途中に位置する客の中には、リングに気づき驚いている者も見受けられる。

 その一方で雅俊の鼓動の高鳴りは最高潮に達し、自然と握られた両手に力が入っていた。

『きっとうまくいくさ。でも確かにうまくいったとしても、朋美がYESって言わなかったらどうすんだよ?いや。成功すれば必ずOKするさ。そうに決まっている。だって、これってかなり感動的だもんな』

 そう思う感情を、分かりやすく言うと自己満足と言う。

『だけど失敗したら…… あれ高かったし…… 失敗することも考えて、ちゃんと見ていた方がいいかなぁ…… いや駄目だ。うまくいった時に目を開けてこそ、感動が増すってもんさ』

 成功時には、頭の中で映画「ロッキー」のテーマが鳴り響くことは間違いない。だが、失敗した時のBGMは数限りなくありそうな気がする。これも悲しい事実である。

 一体、勝利の鐘が響き渡るにはどれぐらいの時間が必要なのであろうか。こんなことならば、何気なくでも一回転の時間を計っておけばよかった。

 いや大丈夫。鮭は必ず戻ってくる。でも帰ってきて欲しいものは、鮭でなければ指輪でもない。朋美の心である。

『これがうまくいったら、感謝の意味でも今後は鮭を食べるのやめようか……』

 などというくだらない考えが頭をよぎった時、突然左の肩が激しくゆすられた。

「雅俊ィ!」

 その声に雅俊は、まるでラウンド開始のゴングを聞きニュートラルコーナーから中央へ飛び出していくボクサーのような勢いで顔を上げた。そして急いで右側を見る。

 固く閉じていた瞳を開いたばかりということと、精神的動揺があるせいか、いまいちよく見えない。しかし魚群の中に一匹の魚がこちらへ泳いでくるのが確認できた。それは待ちわびていた、あの魚だ。間もなく自分の元へ帰ってくる。

 雅俊は驚きと喜びが混合された表情を浮かべると

「やっ……」

 拳が握られた雅俊の両腕は天高く突き上げられようとしていた。

「あれは違う皿。ほら、あれッ!」

 雅俊は、朋美の指すカウンターの向い側を見た。この時、彼の両拳は中途半端な高さに位置していた。その理由は絶望の光景を目にしたからである。

 二十代と思われる若い女性が指輪を手にし、カウンター内の店員に向かって叫んでいる。

「すみませーん」

 どうやら彼女は指輪だけを取ったわけではなく、その存在には気づかずに皿を取った後に発見したようだ。その顔は、金の卵を産むニワトリの話は聞いたことがあってもダイヤを産むサーモンの話は聞いたことが無いと言う表情であった。

 雅俊は言葉が出なかった。朋美が促す。

「だから言ったでしょ。ほら、早く行って返して貰ってきなよ」

 だが、立ち上がる気力は無い。

「いいよ。もう……」

 雅俊はうなだれた後に、もう一度指輪を手にする女性の方を見つめた。まるで自身の敗北を確認するかのように。

 朋美は雅俊にほんの少しのやさしさで声をかけた。

「ごめんね」

自分は何度も止めたのだ。それなのに強行したのは雅俊である。にもかかわらず、朋美はなぜか謝っていた。それも熟考を重ねた上でのことではなく、極めて自然にであった。遅刻の詫びはしなかったが、今回は詫びた。

 これを聞き、雅俊は残された気力で精一杯の笑みを作り

「謝らなきゃいけないのは俺の方さ。勝手なことして悪かったよ」

 朋美の瞳は明らかに潤んでいる。

「ねえ。あたし達はベストフレンドになることは出来ないの?」

 朋美とて雅俊との恋愛期間を全くの無駄に感じていた訳ではない。むしろ宝石よりも貴重なのだ。それを切実に伝えたつもりだった。

 だが、同じ潤んでいても異なる水滴で湿った視線を雅俊は朋美に向けた。

「ベストフレンドか……」

 異質だと思った水分も、もしかすると同じなのかもしれない。しかし、それをこの場で認めることは出来なかった。

「やっぱり、ベストパートナーになりたかったよ。朋美とは……」

 朋美の目から一筋の涙がこぼれた。人魚のそれは真珠になると言うが、果たして自分の元を去っていく人魚もそれだけ貴重な涙を流してくれるのであろうか。

「最後に一つだけ、お願いしていいか?」

「な…に…?」

 朋美の声が震えている。

「俺にとって大切なものを失ってしまったような気がするんだ。支払いはしておくから、一人にしてくれないか」

「雅俊……」

 朋美は自分との戦いに敗れた男の横顔を見つめていた。思い詰めたその顔はもう自分の方を向いていない。じっと一点を見据えている。とても声をかけられるような状態ではなかった。


 ベルトコンベア上の魚達は、二人の止まってしまった時間をよそにいまだ泳ぎ続けている。やがて戸惑いつつも席を立った朋美は、壁に掛けてある自分のコートを取ると、店の出口に向かった。そしてそのまま自動扉を通り抜けようとしたが、足が止まった。錆付いたゼンマイ仕掛けの人形のように首を動かし、振り返ってみる。

 雅俊はまだうなだれていた。戻って隣りに座ることを考えなかったわけではない。だが、それが最善策であるとは思えないし、今の自分に彼の垂れ下がった首と意識を同時に持ち上げてやることは出来ない。

 鮭が帰ってくることはなかった。〝コイ〟も激流を登り切り、再び頂点に達することはなかった。そして〝アイ〟は……

 朋美は別れのゲートを通過した。店の外は相変わらず寒い。そして手にしていたコートを頭から被るようにして羽織ると、新たに形成された行列の横をすり抜けていった。

 その足取りは走ると歩くの中間ぐらいのスピードであったが、それは一度止まった。朋美は雅俊の姿が確認出来ないことを知りながらも、店の方を振り返ってみた。もう店は遠く離れている。それを確認した彼女はバッグからスマホを取り出し、ダイヤルを始めた。そして電話機に顔をそっと押し当て

「もしもーし……アタシ…… ちょっと思ったより用事が長引いちゃったけど、今から行くねッ!」

 朋美の顔は、先程まで悲恋のヒロインを演じていたとは思えない位にすがすがしい。そして夜のネオンの中に急ぎ足で消えていく。やはり〝上書き保存〟では元ファイルの内容は失われてしまうのかもしれない。

 その頃、店内ではまだ雅俊がうなだれていた。醤油の小皿の上には、未練とほぼ同じ数の米粒が残っている。隣の客は気になるのか、先程からちらちらと雅俊に目をやっている。それに呼応した訳ではないのだが、やがて彼はゆっくりと顔を上げた。

だが意外にも、その顔には笑みが浮かんでいた。それも何やら意味深である。そして小さな声でこうつぶやいた。

「中トロが大トロになるかもな……」


 いくら最近の回転寿司が色々な品物を出すと言ってもこれにはさすがに驚いたのか、女性は不思議そうにさっきからじっと指輪を見つめている。本物なのか?にせ物なのか?いや。それより、そもそも何でこんなものが皿に乗っているのか?もう一つ気になるのは、サーモンの産み落としたダイヤの値段は幾らなのか?

 彼女の何度かの呼びかけは、店内が騒々しいためか、店員には聞こえていないようだ。戸惑いもあって、声が小さかったのかもしれない。もう一度呼びかけてみようか、それとも。その時であった。

「どうもありがとうございます!」

 女性は突然の声に驚いたのか、一瞬背筋を少し跳ね上げてしまった。そして体を半身にし、声のした背後の方を向いて見ると、そこには雅俊が立っていた。

「それ、僕のなんですよ」

「えっ?」

 持ち主が現れたという事態を把握するのには時間がかかった。その理由は持ち主自身の不明確さである。どう見てもこの大きさでは彼の指にこれを収めることは不可能だ。女性はあ然としていた。

「お一人ですか?」

「は?」

 そこへ、この女性の連れと思われるもう一人の女性がトイレから戻ってくると、指輪を持つ女性に話しかけた。

たまき、どうかしたの?」

 と言い終わると、雅俊をいぶかし気に見つめていた。だが突き刺さる視線を全く気にせず、新しいリングの存在を確認した雅俊は満面の笑みでたまきに語りかけた。

たまきさんっておっしゃるんですか。いい名前ですね。拾って頂いたお礼に今度お食事でもいかがですか?」

 たまきは心の中で、こうつぶやいた。

『食事なら、今してますけど……』


 こうして、新たなネーミングを付与したファイルが一つ追加された。やはり「恋愛」という名のファイル更新には幾つかの手法があるようだ。それには様々な恋愛模様が複雑にプロットされている。


                             

                             <THE・END>

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リング・リング・リング 風海 徹也 @kazatetsu

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