7

 ハッとして起きた。頭の中が真っ白で、考えをなにも提起できなくて焦った。

「芳一、生きてるの。死んでるんだったら、そう言ってよね。なんか、くっさいんだけど」

 アヤメが目の前にいた。少し屈んで私の顔をじっと見ている。心配してくれていると思いたいが、彼女の言葉の中に、その真意があるのかは微妙なところだ。徐々に記憶が戻り、十秒後にはすべてを思い出した。

「いきて、いる、から」

 椅子に縛り付けられていたわけだが、すでに縄は解かれていた。自由の身となっていたが、動くと痛みに苛まれる。もう少し不自由を満喫したかった。

「先生は無事か」

 アヤメが体を横に反らした。対面には先生が座っている。首を垂れていて顔が見えない。死んでしまったのか。

「死んじゃいねえけど、大やけどだし、腹あ刺されてるから根室の病院に連れて行かないとダメだべな」

 村川がいた。アヤメとともに、この二人がここにいる状況がわからなかった。西出日名子はどうしたんだ。見張りの富田はどこへいった。

「うう」と先生が唸る。よかった、生きていた。

「あたしの点けた火がさあ、ワヤになってるべさ。騎古人の家が次々に燃えてるんだよ。はっちゃこいて西出やみんなが消してるけどね」

 強風に煽られた付け火が、集落を焼き尽くしているということだ。そういえば、少し弱くなっているけどサイレンがまだ鳴っている。島民は大丈夫なのだろうか。

「学校は風上だから避難してるよ。動けるのは火消しにやっきだけどもさ。ジャンジャで踊るより頑張ってるさ、あはは」

 島の人たちにとっては死活問題だから、ここは笑うところではないぞ、アヤメ。

「あんたんところの助手さんから全部聞いたよ。西出がジャンジャの大元だったんだな。ダニを使っていたなんて夢にも思わねえべや。見たことねえし」

「カナエ以外の人に噛みついたダニは、血を吸うことなくすぐに死ぬからさ」と、アヤメの説明である。

「この女もたいがいだが、西出にやらせられていたんだから、しゃあねえべや」

 防空壕にカナエとコッタを残して、アヤメが瑠々士別まで走っている途中で村川と遭遇した。横山さんが到着してすべてを話して助けを求めたからだ。助手は足をくじいて歩きづらくなっているので、戻ってくるのに時間がかかるみたいだ。

「もうすぐワシんところの若い衆がくる。呪いをちょしやがった西出をとっ捕まえて、さらし首にしてやるんだ」

「だから、呪いなんかじゃなかったんだ。西出の先祖が偶然にダニを見つけて、それを利用して島の人たちを洗脳して、私腹を肥やしていたんだ、うう」

 ここまで言うのに残った生命力をすべて使い果たしたような気がした。潰された手が痛くて言葉がつまる。

「いいや、島が呪いをかぶせたんだ。アイヌの英雄を殺しちまったからな。そんで松前の侍にも同じことしたんだ。帯刀たちだ。それからジャンジャ・ドウーが始まった」

 前にも聴いたことがあるけど、帯刀たち、というのがわからない。惨殺されたのはルルシクゥだけじゃないのか。西出日名子に聴かされた島の歴史を、村川に言ってやった。砂金取りたちがやって来て、ここを治めていたアイヌと松前藩を騙したと。

「そうさ。すべてはな、日高の砂金取りがこの島にやってきてから始まったべや」

「西出一家だろう」

「ちょっと違うな」

 西出じゃないのか。

「西出と村川だ。ワシらの先祖は砂金取りだったんだ。あくどい山師でな、砂金じゃ食えなくなってこの島にやってきた。ラッコで儲けるためにな」

 先生の縄が解かれたが立ち上がる様子はなかった。うう~と呻きながら、ぐったりしている。破れた上着をとっぱらって、小屋の壁に掛けてあった作業服を着せた。。

「ルルシクゥたちが保古丹島を仕切っていたのが邪魔で、松前を巻き込んで滅ぼしたんだ。やつらを騙して、お互いを争わせたべや。それがうまくいって、西出と村川が島を分けたんだ。初めのうちは、なまら栄えたらしい」

 先生の状態が気になっていたが、アヤメにまかせっぱなしだ。申し訳ないと思ったが、あの拷問の痕を直視するのは躊躇われた。

「だけどラッコや昆布が不漁になって獲れなくなった。貴重な毛皮を松前はいままで通りの金額でしか買い取らねえ。儲からねえから、津軽なんかに横流しして高く売ってたんだ」

 アヤメが私のほうに来て、手の具合を看てくれた。この手はもう使い物にならない、でめんとりもできなくなったと弱音を吐くと、「な~んもさ、芳一はさ、家で小説でも書けばいいんだ。あたしが稼いでやるから心配ないよ。神様にもらったきれいなカラダがあるから、都会で稼げば御殿が建つっしょ」と言ってくれた。こんな私のために、札幌でパンパンをすると言うのだ。涙が出た。

「そんだら、保古丹島に住んでいた松前の下っ端役人が気づきやがったんだ。乾帯刀(いぬいたてわき)と定方俶(さだかたはじめ)、東八源四郎(とうはちげんしろう)。勘定方だって話だ」

 村川の話は続く。腕を組んで当時の様子を思い出しながら、という感じだ。

「西出と村川は、密輸の罪を役人どもに押しつけた。巧妙なワナを仕掛けて、商場を仕切っていた蠣崎(かきざき)を殺して、なにもかもそいつらのせいにした。したっけ松前の親戚筋を殺された殿様が怒り狂って、下級武士たちを厳罰にしたんだ」

 身に覚えのない冤罪を着せられた役人たちは、当然の如く罪を認めなかったが、偽造された証拠とウソの証言はしっかりと用意されていた。西出と村川という山師は、相当のやり手だったらしい。

「吐かねえからって、さんざん責めたてたんだ。ひどいことしたらしい。しまいには女房子供も責められてようやく認めたんだ。無実だったけどもな」

 潰された手に添え木代わりの木っ端が当てられて、ぐるぐると布を巻かれた。看護婦かと思えるくらいにアヤメの手際がいい。薬売りだった婆さんから習ったと言っていた。

「切腹も許されずに斬首だ。女房子供もな。それからジャンジャ・ドウーが始まったんだ。ジャンジャで死ぬ奴が出てきたんだよ。まあ、確率が変異したってことだべや。背骨が折れるほどひん曲がって死んじまうんだ」

 その現場を知っている。鉄塔で見たし、お祭りの会場でも出会った。

「この島が呪われているんじゃねえ。この島が呪ってるんだ。人が人をさんざんに嬲り殺したことに、島が怒って呪いを被せたんだ」

「そしてね、呪いをするのは人なんだよ。島が人に呪いをかけて、人が呪いを実行するの」

 そう補足するのはアヤメだ。西出に強いられていたとはいえ、ダニを寄生させていた当人だ。その自覚と自戒を込めて言っているのだろう。

 人の気配がした。鼓動が数秒ほど止まってしまう。

「あのさあ、火事がひどいよ。みんなの家が燃えちゃうよ」

 子供だった。女の子で、ここにいては教育上よろしくない年齢である。

「ねえ、コウタはどこなの。コウタの家も燃えてるんだよ。お母さんが探してた」

 あけ美だった。先生と私が捕らえられたことを教えたのが、この子だった。荒事は西出の土場でやるのをアヤメは知っていた。だから、ここへ来たのだ。

「きゃっ、し、死んでるの」

 いまさらながらに気づいたが、土場の入り口付近に富田がいた。妙な姿勢で地面に伏せっていて身動き一つしない。そばにビンが転がっているので、飲みすぎて寝てしまったのだろうか。なんとか立ち上がることができたので、近づいてみる。

「そいつは、ジャンジャ・ドウーで死んじまったべや。背骨が折れちまってるだろう。呪いにやられたんだ」

 たしかに、逆エビ状に、Cの字となっていた。体を鍛えていたからなのか、鉄塔の男や佐藤夫婦よりもきれいに反り返っていた。 

「死んでいるのか」

「こうしてみると、わかるよ」

 アヤメがビンを拾い上げて、それを富田の顔に振り下ろした。軽くではない。渾身の力を込めて、おもいっきり叩きつけた。

「きゃっ」と、ふたたびあけ美が悲鳴をあげた。ガラスが飛び散り、そのうちの大きくて鋭角な一つが富田の左の目玉へ、ものの見事に突き刺さっていた。

「うん、死んでるから大丈夫だよ」

 顔から血が出るということは、死んでからまだ時間が経っていない。アヤメは繊細なようで大胆である。私の知っているどの女にも似ていない。いまは怖いと思うより心強かった。

「ワシらは呪われてんだ。先祖がやらかしたことだから、しゃあねえべや。だけど西出は許さん。ケリをつける。おめえらはワシの家に行け。親父に無理っくりにも船を出すように言ってるから。その医者を病院に連れていけ。あんたもその手をどうにかしねえと腐るぞ」

 手の痛みが薄らいできた。腐っているのかな。いや、アヤメの手当てが良かったんだ。汁っぽいものを塗っていたような気がする。

 バン、バン、バンと、外から不吉な音が響いてくる。火事で木材が弾けているのではない。もっと引火性の高い危険なものだ。

「これ、銃声じゃないのか」

「ああ。もう始まったか」

「始まったって、なにが」

「西出の連中と、うちの若いのが撃ち合ってるんだべや」

「銃があるのか」

 バババババ、バンバンと連続した発砲音までしてくる。そんなに遠くはない。

「戦争後のどさくさで、島に駐屯していた陸軍のをかっぱらったからな。うちにも西出にも機関銃があるぞ。三八式も手りゅう弾もだ」

 西出日名子が戦争になると言っていたが、ウソではなかった。

「二十年も前なのに使えるのか」

「ちゃんと手入れしてっから撃てるべや。ほら」

 あちこちから銃声が聞こえてくる。怒号と悲鳴もまじっていた。

「ワシもいってくるわ。うおおお、ジャンジャ・ドウー、ジャンジャ・ドウー」

 村川が行ってしまった。「ちょっと待ってて」と言って、アヤメも出てしまう。

 あけ美と一緒に先生の容態をみていたら、アヤメが戻ってきた。子供用の水筒を持ってきて、見せびらかすように突き出した。  

「それは、なんだ」

「元気が出るシソジュース」

 アヤメが先生にシソジュースを飲ませた。喉が渇いていたのか、瀕死のわりにはあんがいと量をとった。

「村川たちと西出たちがドンパチやってるさ。ここはヤバいから、途中でカナエとコッタを拾って瑠々士別に行くよ。村川さんが船を用意してくれてるから」

 雨は降っていないが風は強い。船を出せるどうかは微妙な感じがする。それよりも先生を瑠々士別まで連れて行くのが大変だ。担架を用意しても、私は運べない。アヤメとあけ美では百メートルと進まないだろう。

「芳一、芳一」と先生が呼んでいた。元気が出るシソジュースを飲んだからか、声に生気があった。

「おじさん、カラダに障るからあんまりしゃべらないほうがいい」

「俺をここにおいていけ。おまえたちだけで逃げろ。札幌に戻ったら、防研にすべてを伝えてくれ。ジャンジャの研究は横山が引き継げと」

 そこまで言って、しなだれていた上体をグッと伸ばした。

「おおー。なんだか調子がいいぞ。なんだこれ、モルヒネでも飲ませたのか」

「だから、婆ちゃんから直伝の元気が出るシソジュースだって言ったっしょや」

 アヤメが飲ませたのは、薬草入りのシソジュースだった。

「先生、歩けそうですか」

「いや、ダメだろうな。腹を刺されているし、股間もワヤになってて立てん。神経をやられたのかもしれない」だから、おいていけと言う。

「大丈夫さ。リヤカーをかっぱらってきたから、それに乗せればいいっしょ」

 アヤメはリヤカーを調達していた。この窮地で機転の利く女は拝むほどありがたい。

 すぐに外へ出てリヤカーに先生を乗せた。敷物がないので、上着を脱ごうとしたらアヤメが止めた。自分のを脱いで、それを枕にした。元気ジュースが効いているのか、医者である患者の容態は安定していた。

 闇色の空が集落の火事で朱色に灯っている。風がまくっているので、騎人古地区の相当な範囲まで燃え広がっているようだ。

 アヤメと一緒にリヤカーのハンドルの内側に入って押した。片手が使えないので、相棒のほうに負担がかかっている。風に巻かれた熱い火の粉が降ってきた。銃声が頻発して、早く離れねばと焦る。

 混沌としてきた現場から息を切らせながら脱出する。少し軽くなったなと思ったら、あけ美が後ろから押していた。集落の縁から瑠々士別への一本道に差し掛かろうとしたら、前方の暗闇から誰かがやってくる気配がした。とっさのことで隠れる場所がなく、仕方なく呆然とした。アヤメが懐中電灯で照らしてみると、コッタとカナエであった。

「コッタ、なして戻って来てるのさ。隠れてろって言ったべさ」

「空が赤いよ。おれの家がもえてたらどうしよう」

「コウタ、あんたがいないから、お母さんが心配してたよ。コウタコウタってさけんでた」

「母ちゃんが」

 コッタは家と母親のことを心配していた。目線が泳いでいる。カナエは無表情だが、どこかソワソワしていた。

「おれ、母ちゃんとこに行ってくるよ。母ちゃんと大阪いくんだから連れてくる」

「コッタ、待って」

 アヤメの制止を振り切って少年が行ってしまった。カナエが追いかけて、あけ美も後に続いた。

「カナエ、戻ってこい」

 カナエが西出日名子に捕らえられるのはマズい。アヤメも同じ考えで、急ぎUターンしてリヤカーごと追いかけた。飛んで火にいる夏の虫となる前に、連れ戻さなければならない。

 騎人古地区の火災はなかなかの大火となっていた。煙と火の粉が舞う中、人々が必死になって火を消している。家屋の材木が燃えるたぎる音と銃声が同等で、どこで戦闘が起こっているのか判然としない。 

「母ちゃんどこだ。おれここだよ、母ちゃん母ちゃん」

 コッタが叫んでいた。それらしい女性にしがみ付いて、母親かどうかを確認している。火消しに忙しい女たちに煙たがられていた。

「コッタ、母ちゃんは大丈夫だから逃げるんだ。あんたとカナエが見つかるほうがヤバいんだから」

「イヤだ、離せよ」

 アヤメがつかまえるが、コッタはその手を振りほどいた。二人の間の隔たりが微妙な感じだ。

 リヤカーの荷台に火の粉の塊が降ってきて、医者が「あっちっち、熱い」と騒いでいる。西出日名子の拷問で体中が焼け爛れているのに、それでも熱いのだな。 

「おーい、ここにいる。カナエがいるぞーっ、宏太もいるーっ」

 十円玉ハゲのスケベ中学生が現れた。コッタとアヤメを目ざとく見つけ、ここだここだと騒いでいる。コッタがタックルして倒すが、体格の差はどうにもならず逆に組み伏せられてしまった。カナエが加勢して蹴飛ばしているが、非力すぎてまったく効いていない。

「カナエ、どきな」

 角材を拾ったアヤメが やや下からアッパー気味に振り上げた。哲夫がぶっ飛び、口のあたりを押さえて悶絶している。

 銃声が近づいてきて、アヤメ、カナエ、コッタが走り出した。私もリヤカーを押して追随する。ヒョンヒュンと空気を切り裂く音が耳に痛い。銃弾が頬をかすめていると実感できた。

「芳一、伏せろ、伏せろ」

 銃声に反応した元軍人の先生が荷台で喚いているが、その指示に従うことはできない。

「芳一、なしてそんなに遅いのさ。撃たれちゃうっしょや」

 いや、私一人でリヤカーを押しているのだから仕方ないだろう、と言う前にアヤメが横に割り込み、あけ美も入ってきた。三人が狭い枠の中で無秩序にバタバタと足を動かす。ぜんぜん進まず、しかも逆方向へ回転してしまった。

「ベロベロベロバーーー、ベロベロベロー、ヘヘーーン、こっちだ、こっち、キーッキー」

 コッタがトンチキな踊りを始めた。尻を蹴飛ばされた子サルみたいに跳ね回りながら、後ろへ横へと忙しい。追っ手の注意を引きつける戦術であった。

「コッター、バカやってないで逃げな」

「コウタっ、バカやってないで、行くよ」

 捨て身の愚か者ダンスは英雄的な動機からなのだが、哀しいかな女性陣からは不評だった。

「ワー、こんチックショー」

 スケベ哲夫が立ち上がった。アヤメが捨てた角材を手にして、一歩一歩を踏みだしてこちらへ近づいて来る。ひどい顔になっており中学生にしては凶悪な面構えだ。 

 突風が吹きつけて、大量の煙に覆われた。バンバンと銃声がしたかと思うと、哲夫の頭部の右半分が弾けとんでしまった。おかげで十円玉ハゲが目立たなくなったが、そのことを喜ぶ彼の意識は、すでに黄泉の国へと落ちている。

「コッタ、どこにいる。こっちに来い。コッターッ」

 足元で銃弾が跳ねて、リヤカーにも何発か当たった。先生が右に左に転がっている。危なっかしくて、この場に止まっていられない。後退しながらコッタを呼びつけた。

「うおおおお」

 背後から男たちがやってきた。ライフルをバンバン撃ちながら突進してくる。これはやられると覚悟したら、私たちを素通りして煙の中へ行ってしまった。彼らのしんがりに村川がいた。味方の来援である。

「おめえたち、ここでなにやってんだ。逃げれっていったべや。はんかくせえなあ」

 彼もライフルを持っていた。ガチャガチャとカラ薬きょうを飛ばして私たちを叱った。

 ダダダダダダダダと小気味よい連発音は機関銃だ。突撃していた村川側の男たちがワラワラと血相を変えて戻ってきた。

「逃げるなー、戦えー、オラオラオラオーーーラ」

 無謀にも村川が前進している。逃げていた男たちの足が止まり、ライフルを撃ちまくりながらまた突撃して行った。

「芳一、いまのうちだよ」

「わかってる。だけど、コッタを連れて行かないと」

「コウタ、コウタ」

 あけ美が行ってしまった。コウタを連れ戻す気だ。

「あたしがコッタを引っぱってくるから、カナエとカナコと先に行ってて」

 カナエはわかるが、カナコはなんだ。

「ほら」と言って、私に白ウサギを抱かせた。

 うおー、いつの間にこいつがやってきたんだ。とりあえず、背中の毛が禿げたそれを荷台に乗せた。

「ジャンジャ、ジャンジャ、ジャンジャ」と叫んでコッタがやってきた。幸運にも弾には当たっていない。興奮しているのか、ジャンジャを口走りながら珍妙な踊りをしていた。

「コッタが戻ってきたけど、あけ美がいないぞ」

「おれがつれてくる。ジャンジャ、ジャンジャ」

 またコッタが行ってしまった。するとカナエが追っかける。二人を連れてこいとアヤメが命令口調だ。堂々巡りをしているようで、現場は混乱していた。

「うわっ」

 すぐ傍で燃えていた家屋が倒壊して、数千の火の粉が舞った。すごく熱いし煙がしみる。離れるしかなくて、アヤメとリヤカーを押しながら退いた。先生が「熱い熱い」と言いながら、白ウサギを抱いて庇っている。

 銃声が聞こえて、さらに爆発音もあった。手りゅう弾があると村川が言っていたので、どちらかが投擲しているようだ。

「カナエ、こっちに来て」

 カナエが横から出てきた。煙に巻かれてしまったのか、炎に照らされた顔が煤けている。よかった、無事だと思ったのも束の間、彼女の体がグイッと引っ張られた。同じく煤けた顔が、闇の中からヌメッと出てきた。

「てめえら、そこを動くな。ぶっ殺すぞ」

 カナエの髪を鷲掴みにしているのは斎藤だ。そうとう頭にきているのか、殺人鬼のごとく目が血走っていた。もう片方の手に銃を持っている。水平二連の散弾銃だ。

「クソ野郎ども、とんでもねえことしやがって、タダですむと思うな、ぶわっ」

 火のついた長い棒が斎藤の頬にぶち当たった。よろめいて火が燃え移った電柱にもたれかかる。やったのはコッタだ。

「巫女さん、巫女さん」

 すかさず巫女の手をつかんでこっちへ走ってきた。アヤメがカナエの手を引き継ぐ。斎藤が復活しないうちに逃げ切らなければならない。 

「あけ美、なにしてんだよ」コッタが叫んだ。

 あけ美が歩いてくる。火と煙にやられて朦朧としていた。コッタが全速力で駆け寄り、彼女の手を引いて戻ってきた。

「ガキャーッ、ぶち殺す」

 頬にヤケドを負った斎藤がキレていた。コッタとあけ美へ散弾銃を向けた。「コッタ、伏せろ」と言ったのは荷台でウサギを抱えた先生だ。

 ぶっ放された。

 その瞬間、コッタはあけ美を前方に突き飛ばして、自身はひらりと体を一回転させて銃弾をかわした。斎藤がもう一発を撃とうしたとき、燃えていた電柱の根元が突如として折れた。すると上にあったバケツみたいな金属が散弾銃をかまえた男の頭を直撃した。はずみで銃が暴発して、やつの頭が潰れた。たぶん即死だろう。

 なにかが跳ね上がったことはわかっていた。ただそれは、おそらくコッタがふざけて投げた木片だろうと思った。 

 空中に舞っていたそれを、タイミングよくあけ美が受け止めた。コッタがこっちに来て、「犬のお姉ちゃん、犬のお姉ちゃん」と言っている。アヤメは動かない。

「コッタ、こっちに来い」

 先生が起き上がろうとするが、股間の具合がよくなく力が入らないようだ。それでも気力を振り絞って上体を起こして、コッタを荷台の上にあげた。あけ美が、受け止めたそれを大事そうに抱えてウロウロしている。

「コッタ、おまえの腕は・・・」そこまで言って絶句してしまった。

 コッタの右腕の肘から先がなかった。血はそれほど出ていないが、明確に千切れていた。斎藤が放った散弾が当たって吹き飛んでしまったのだ。  

「コッタ、大丈夫だ。なあんも、心配することない。腕一本で食ってるやつを大勢知ってる。みんな元気で、女にもてる。だから心配するな」

 先生が上着を破ろうとしたが、丈夫な布生地はビクともしない。アヤメが、若い女の持ち物としてはうす汚れている手拭いを渡すと、コッタの千切れた個所に巻いて応急処置とした。  

「先生はくさいなあ。なんかあ、父ちゃんのニオイがするべや。屁えたれたときの、父ちゃんだべや」

 コッタがヘヘヘと笑みを浮かべている。あまりのショックで痛みを感じていないのか、そもそも腕を失ったことさえ意識していないのか、意外にも張りのある声だった。ただ顔色は悪いように思えた。

「ああ~、」

 先生の嗚咽が絶望的である。どうして、そんな声を出すんだ。

 アヤメがコッタの背中に手を当てた。その部分の布地が破れていて、血が滲んでいる。一発目に放った散弾が、じつは命中していたんだ。かわしてはいなかった。止血しようと、先生が布っ切れを捜していた。

 リヤカーの側面の板がバシッ、バシッと弾けていた。銃声は相変わらずで、旧日本軍の健在ぶりが憎らしい。火と煙の勢いも強くて、その場に止まることは危険だった。 

 私とアヤメがリヤカーを押した。カナエは横にいて、カナコは先生の腰のあたりでじっとしていた。あけ美はコッタの腕を抱きかかえたままついてくる。取り上げたほうがいいのかと悩んでしまう。

「おい、どこに行くんだ。瑠々士別までコッタがもたいないぞ」

「グズグズしてたら撃たれちゃうっしょや。カナエも捕まっちゃう」

 西出と村川が戦っている。ドサクサで流れ弾に当たるかもしれないし、誰かに見つかれば西出の追手がやってくる。

「港の隅っこに日本軍の物置小屋がある。海軍の毒ガスがあるからって誰も近づかないさ」そこへ一時的に身を隠すことにした。

 その物置小屋に毒ガスのビンはなかったが、だいぶ荒れ果てていた。屋根は崩れ落ちていて夜空が見えるし、雨風にさらされた床はひどく汚い。ただし、入り口は頑丈な鉄の扉であり、黒いブロック塀も丈夫そうだ。電気はないので、懐中電灯だけが頼りだ。先生とコッタには申し訳なかったが、汚い床に腰をおろしてもらった。

「おれさあ、母ちゃんと大阪にいくんよ。バンバク見てさあ、ひょっとしたら、島を出るかもさあ」

「そうか、よかったなあ。大阪に行ったら、大阪のな、おおさかの言葉であいさつするんだぞ」

「なんていうの」

「もうかりまっか、だ、くふっ」

「もうかりまっか、ッケホ、ケホ、・・・」

 コッタが咽てしまった。か細い咳だが、痛みを感じさせる効果はあった。顔をしかめて、力なく先生に寄りかかっている。 

「よ、芳一、ここにいては、だめ、だ。コッタは・・もたな、よ、こやまに、俺、は」

「先生、先生、大丈夫か。元気になったんじゃなかったのか」

 先生も弱っていた。アヤメの元気になるシソジュースで元気になったと思ったが、あれだけの拷問を受けたんだ。腹も刺されているし、危ない状態には変わりない。

「なんともねえー、この、タコ野郎。コッタを連れていけ。横山にみせろ、あ、う」

 それだけ言って天を仰いだ。息づかいが不規則で、容態の悪さを示している。 

「西出の隠し物置に薬があるよ。痛み止めがある。麻薬だから、よく効くさ」

 先生にどういう薬が必要か訊くが、返答があいまいで要領を得ない。すでに意識を失いかけている。コッタは震えていた。腕が痛いのか、ウンウンと唸っている。

「あけ美、コッタの手を放しな。いつまでもってんのさ」

 あけ美が抱いている腕をアヤメが取ろうとするが、激しくイヤイヤをした。部屋の隅まで逃げて、こちらを見つめたままじっとしている。懐中電灯で照らしているのが可哀そうになった。無理強いしないようにと、カナエが首を振っていた。

「あたしと芳一で薬を持ってくるから、待ってて」

 カナエとあけ美が先生とコッタの番兵として残る。私とアヤメは旧海軍の物置小屋を出て、西出家の隠し物置へと向かった。

 いつの間に集まったのか、人が多かった。女たちや子供が火消しに躍起になっていた。バケツリレーの終点に村川の奥さんがいて、燃えさかる家屋に水をぶっかけていた。声をかけると、瑠々士別地区の人たちが騎人古地区の住民と協力して消火作業をしているそうだ。村川のことを訊くと、夫は西出とどこかで戦争しているとの返答だった。戦いは男たち、消火作業は女たちと、役割分担が出来上がっていた。

 遠くから銃声らしき音が聞こえたが散発的だ。アヤメは火事には目もくれず先を急ぐ。私たちの姿を見ても、誰も騒がない。自分の家が燃えている、あるいは燃えるかもしれない状況に、西出の指示など吹き飛んでしまったのだろう。

 男が何人か倒れていた。足から血を流した者や腹を押さえてぐったりしている者もいた。どちらの集落かはわからないが、女たちが駆け寄って手当てを始めた。

 サイレンがまた鳴り出した。相変わらず精神の柔らかな部分を鉤爪で抉るような、悲痛で切迫感に満ちた響きだ。先生とコッタの命運を暗示しているようで、気持ちが焦る。

 西出の家の近くまで来ると、アヤメが立ち止まった。振り返ってこっちに向かって叫んだが、なんと言ったのか聞き取れなかった。

「なんだって」

 ガツンときた。

 右の耳がキーンと鳴っている。

「やめろっ」

 第二撃は鼻にきた。今度はツーンとワサビ風味の激痛だ。一瞬、顔が痛いのか手が痛いのかわからなくなった。ミゾオチヘも食らって、吐きそうになった。

 私は誰かに殴られている。嘔吐を抑えながら見上げると知っている男がいた。ただ頭の側面が凹んで、奇妙な形になっている。

 斎藤だった。燃えた電柱の備品に直撃されて死んだはずなのだが、生きていた。

 アヤメの叫びが聞こえた。切り裂くような金切り声だった。頭部がひどいことになっている凶悪な男へ突進したが、あえなくかわされた。逆に髪の毛をつかまれて、さんざんに振り回された末に放り投げられてしまう。

「アヤメ、逃げろ」

 斎藤に抱きついてやった。絶対に、死んでも離すものかと渾身の力を込めて押し込んだ。逃げろ逃げろと喉が潰れるほど言って、アヤメがやっと走り出した。ホッとしたら、背中に猛烈な衝撃が走って崩れ落ちてしまう。息がつまって苦しかったが、襟首をつかまれてズルズルと引きずられてゆく。抵抗したいが片手はダメになっているし、もう力が出なかった。

 私が連れ込まれたのは 物置を少し広くしたような小屋だ。天井から電球が垂れているが沈黙している。代わりに灯油ランプが灯っていた。棚にたくさんのビンがある。アルコールというか、薬品の匂いが強い。斎藤は虚ろな目線で突っ立ったままだ。奥にいた先客が話しかけてきた。

「やあ、芳一君。やってくれたねえ。アヤメはどうしたんだい。フラれちゃったのかな」

 西出日名子は床にだらしなく座っていた。上着はなく、むき出しの熟れた肌はうす汚れている。醜い瘡蓋のほかに首元が焼けただれていた。初対面の時みたいに、やさしくて友好的な口調である。

「全部が燃えてるよ。西出の家も終わりさ。わたしの代で家を潰すことになっちゃった。あははは」

 火傷で喉が渇いているのか、手元にあるビンに何度も口をつけていた。中身はワインだろうか。濃い色の液体が口元から滴っていた。

 突っ立っていた斎藤が、ストンと落ちた。模範的な正座であるが、そいつの陥没頭に銃口がつきつける男がいた。どこから現れたのか、村川だった。

「もう死んでるよ。それ以上鞭打たなくてもいいっしょや。頭が潰れてるんだから、顔まで崩したら可哀そうでしょう」

 今度こそ、斎藤はこと切れていた。村川が西出日名子の前に立つ。 

「おまえの家が呪いを広めてたのか」

「それは違う。呪いがわたしを操っていたのさ。呪いがね、西出の家にとりつていたんだ」

「おまえが英雄を騙して殺したからだべや」

「あなたも侍を殺したでしょう。罪をなすりつけて家族ごと葬ったくせに」

「だから俺たちは呪われて当然なんだ」

「そう、当然のように呪われたわ」

「もう、みんなが知ってしまった。夜が明けたら警察が来るべや。おまえは終わりだ」

「ねえ、呪いがなくなったら、この島はどうなるの。そんなの保古丹島じゃないのさ」

 村川は答えない。西出日名子がモゾモゾと体を動かしている。

「背中が痛いわ。なんなのこれ、すごく痛い。痛い痛い」

 西出日名子が喘ぎだした。手を後ろに回し、背中の下のほうを手の甲でさすっている。

「ああー、うぎゃあー、ぐうーーーー、痛い、痛い」

 徐々に丸くなってきた。ただし、お腹を抱えるようにではなく、あの忌まわしき逆エビ反りにである。何度も見た光景がまたしても展開されている。

「ジャンジャ・ドウーだ。西出がジャンジャ・ドウーになった。ジャンジャ・ドウー、ドウー、ドウー、ドウー」

 村川が「ジャンジャ・ドウー」を叫びながら、例の顔をつかむようなポーズを繰りかえしている。  

「グギギギギギ」

 その悲鳴は、まるで錆びついた機械部品を思わせた。意図せぬ力がかかりすぎて、金属疲労を起こした末にひん曲がったようだ。この場合は人の背骨である。

「ああー、ギャアーー、ギャアーーーーーッ」

 西出日名子の体がCの字となった。後頭部を足の裏が触り、カッと口を開けている。脊椎が折れていると思うが、確認したわけではないし、そうしたいとも思わない。触りたくはなかった。西出日名子が息絶えた。

「見ろ、これが呪いを弄んでいた者の最期だ。確率が変異して死をもたらしたんだ。ジャンジャ・ドウー、ジャンジャ・ドウー、ドウ、ドウ、ドウ」

 村川がジャンジャ・ドウーの念仏を唱えていると、小屋の中に誰かが入ってきた。

「芳一」

「アヤメか」

 アヤメであった。さらに片足を浮かせた男が一緒である。彼は座して死んでいる斎藤の首を触わり、残念そうに首を振った。逆エビ状態で床に伏している西出日名子にも同じ処置をして、同じように首を振った。

「この方々、亡くなっています。斎藤さんは側頭部の怪我ですけど、村長さんは佐藤夫妻と同じですね」

 横山さんだ。挫いた足を引きずりながらようやく騎人古地区に着いたらアヤメと出会い、コッタと先生の事情を知って一緒に薬品を取りにきた。

 死人はあとで片付けるとして、一刻も早く重症の二人を救わなければならない。医者は薬品棚のビンを一つ一つ吟味していた。

「リドカインは、まあ、ないですよね。これはモルヒネ、だったらいいですけど、薬品名が記されていないのでわからないです。劇物かもしれないし、うかつに使えないですよ」

「このビンは痛みを麻痺させるさ。なんでかって、おばあちゃんが作ったから。甘くて飲みやすいよ」

 ウサギの背中のデキモノからでも抽出したのかな。なんにしても痛みを軽減する薬は必要だ。先生もそうだが、小学生が命にかかわるほどの苦痛を受けていい道理はない。

「ともかく、先生とコッタ君を診てみましょう。病院に連れて行かなければならないですが、それまでもたせないと」と言って袖をまくり上げた。

 見かけは冴えない会社員風情だが、この時は頼もしく思えた。コッタは助けられるだろう。なにせ医者は何でもできるからな。アヤメのばあさんの薬は即効性がある。あれだけ痛めつけられていた先生が一時的にも元気になったから、きっとコッタも復活するはずだ。

「急ぎましょう」

 もちろんだとも。横山さんの左肩をアヤメが支えた。外に出ると男たちがいた。騎人古の若者たちで、皆疲れ果てている。もう戦争はやめたようだ。西出日名子の死体を見て、崩れる者が続出だった。あとの始末は村川にまかせて、私たちは海辺の毒ガス小屋へと急いだ。 



 小屋に着くとランプを置いた。西出の隠し物置から持ってきたものだ。電球よりも薄弱としているが、灯が柔らかくて悪くはない。ケガ人に光を直射してばかりは酷だろう

 先生は壁にもたれかかって眠っている。その胸にはコッタが抱かれていた。ボロ小屋の母子像ならぬ父子像は、なんだかほんわかしていて、いい感じある。あけ美とカナエは外にいた。

「先生、遅くなりました、横山です。まずはコッタ君から診ます」

 横山さんが下した優先順位は正しい。先生には悪いがコッタが先だ。いや、先生もそれを望んでいるだろう。

 コッタも寝ていた。痛みと疲れで体力の限界なのだろう。やすらかで、いい寝顔である。将来、こういう男の子を息子にしたいな。多少ひねくれていてズル賢いキライもあるが、まあ楽しくなるだろう。

 横山さんが仕事をしている。ハレンチな医者が女子学生にイタズラするみたいにベタベタと触り、懐中電灯で照らし、どうしたことか最後にうなだれた。

「すごく残念ですが、コッタ君は」死んでいると言った。

「・・・」

 はあ? 

 なんのことだ。

「なにバカなこと言ってんだ。先生がいるのに、そんなわけないだろう。先生先生、おきてくれよ。コッタを連れて行くんだ。痛み止めを持ってきたから、とりあえず飲ませてやってくれよ。痛みがとれるから」

 先生はすっとぼけていた。私の目線を避けて、やや下を向いている。横山さんの手が首を触り、懐中電灯で顔を照らし、胸に手を当てた。怒鳴られないかと心配してしまう。 

「ええっと、先生も亡くなっています。これは、なんていうか、ウソみたいで、うう、そんな、・・・」

 このヤブ医者は、コッタどころか先生も死んでいると言う。二人の頬に触れてみると、そんなに冷たくはない。 

「コッタも先生も温かいじゃないか。死んでるわけない。早く応急手当をしろよ。おい、コッタ、起きろ。バッタ捕りに行くぞ」

「だから死んでいますって。死んでるんです。頸動脈の拍動がありませんし、対光反射もないし、呼吸もしていない。あきらかに心停止しています」

「おまえ、バカ医者なのか。コッタのこの顔を見ろよ。これが死んでいる顔か。きっと疲れ過ぎてるんだ。子供は寝る時間だからな。こいつはバッタ捕りの名人だから、ふつうの男の子よりも体力を使うんだよ。だから、きっと眠いんだ。寝てるだけだって」

 アヤメが後ろに立っていた。知っていたが、知ったことではない。

「芳一、もうコッタはいないさ。天国に行ったよ。先生と一緒に行ったさ。二人で、ほな、おおきに、って言ってるよ」

「それは大阪だ、天国じゃない」ふざけている場合じゃないだろう。

 アヤメが抱き着いてきた。彼女から伝わる温もりは、コッタのそれよりも数段熱量があった。生きている人間の証であり、だからそれがない者は、すでにこの世に存在していないことになる。

「コッタは死んだんだよ。あたしたちを守ってくれたさ。あの子さ、いっつも自分よりも、誰かのことを気にしてた。ツヨシやヤスオやミノルや母ちゃんや、あけ美のこともね」

 いや、こいつは死んではいけないんだよ。どうして、バッタ探しの名人が幼くして死ななければならないんだ。理不尽過ぎるだろう。これも呪いだというのか。英雄や侍を殺した報いだというのか。ふざけんなっ、クソ島め。

「そうだよ。この島に生まれたら仕方ないさ。抗うことはできないんだ」

 アヤメに問うてないのに、私の心の内側を見透かしていた。彼女が男だったら殴りかかっていただろう。

「すみません、すみません」

 助手が謝っている。先生に対してか、コッタにか、それとも自分にか。なぜだか私も謝りたくなった。

「あけ美、その手を返してやりなよ。両手がないと、コッタは天国の原っぱでバッタがとれないっしょ」

 あけ美が小屋の中に入っていた。その後ろにはカナエもいる。泣いていた。コウタコウタと呟いている。小さな顔が濡れて崩れて、ぐしゃぐしゃになっていた。ほとんど声を出さず、静かに悲しんでいた。大声で泣き叫んでくれたほうがいい。もっと力を込めて泣かないと、コッタの魂が天国まで昇っていかないだろう。

 ウサギがとび出した。いまだ暗く靄っている外へと出て、そのまま走り去ってゆく。呪いがつくられたこの島で、カナコは自由になったんだな。

 先生とコッタの遺体をリヤカーに乗せた。ここへ来るときと比べて軽く感じられた。少しも揺れないように、そうっと動かした。この気遣いは生きている時にやるべきだった。後悔することしかなく、涙が出てきて止まらない。

 いまごろになって風が凪いでいた。保古丹島民総出のバケツリレーの効果か、騎人古地区の火災が下火になってきた。もっとも、燃える家屋は焼き尽くされてしまい、燃料が減ってしまったともいえる。

 女も子供も婆さんも爺さんも、へたり込むように休息していた。その中で一人忙しく動き回る者がいた。

「宏太、宏太、どこいった。どこにいるんだよ。西出の巫女さんを見にいったのかー。バッタとってんのかいー」

 コッタの母ちゃんが息子を捜していた。

「アヤメ、宏太を見たかい。どうせ、あんたのとこにいるんでしょ。なにして油売ってんだか」

 アヤメはなにも言わずリヤカーの荷台を見た。荷台を覗き込んだ母ちゃんが、いつものように叱る。

「宏太、おまえなに寝てんだい。お医者の先生に迷惑かけたらダメだって、いったしょや。ホントにもう、鉄砲玉なんだから。これから炊き出しするから学校に行くよ。ヤスオやツヨシも呼んできな。うま煮つくっから。宏太、宏太、不貞腐れんじゃないってさ」

 母ちゃんが呼びかけるがコッタは返事をしない。反抗しているのであれば、どれだけ救いとなるだろうか。そして、息子の異変に気づいてしまう。 

「あんたたち、宏太になにしたんだよ。動かないべさ。あけ美、おまえの持ってるの、宏太のかい。宏太の手かい」

 やがてコッタを抱きかかえ、揺さぶって、強く抱きしめた。母ちゃんはもうわかっているが、それでも誰かが告げなければならない。

「コッタ君は亡くなりました。そのう、すみません」

 横山さんが死亡宣告をした。その若い医者を、母ちゃんはじっと見つめていた。

「ああ、そうかい。宏太は死んだのかい。死んだのかい。バカな子だけど死んだんだ。そうかい、死んだのかい、死んだんだね」 

 母ちゃんは事実を受け入れた。あけ美とは正反対に、おいおいと号泣した。息子を抱きしめながら、あらん限りの涙を流し続けた。横山さんは頭を下げたままで、とても沈痛だ。アヤメと私は、母ちゃんの嘆きが治まるのを待っていた。

 流れ弾が当たった、とだけ説明した。私たちを助けようとして、あえて危険を冒したことは伝えなかった。息子が英雄だと知っても、母の絶望を一ミリたりとも鎮める効果はないだろう。失ったものがすべてなんだ。彼が思い出となったら言えばいい。

 私と横山さんと母ちゃんがリヤカーを押して、学校へと向かった。役場も燃えてしまったので遺体を安置する場所がない。体育館は避難民でごった返しているだろうが、どこかに二人分の隙間ぐらいあるだろう。アヤメとカナエは、まだくすぶっている火消しの手伝いをするために残った。呪いにかこつけた西出の悪行は口伝いに広まっていたが、意外にも、騎人古の人たちは気にしていないように見えた。

 体育館と教室は使えなかったが、職員室には空きがあった。小さな部屋だったが、来客用のソファーがあったので、コッタの遺体をそこへ横たえた。先生には悪いと思ったけど、床に寝せかせた。母ちゃんと横山さんがそれぞれを見守っている。しばらくはそうっとしておいた方がいいと思い、職員室から離れることにした。

 学校の玄関を出ると、夜が明けてきたことに気がついた。あれだけ吹き荒れていた風がおさまり、とても穏やかな朝だ。ずっと鼻を突いていた煙と焦げのニオイが弱くなり、少し潮臭いのが懐かしかった。 

 消火作業をしていた人たちがやってきた。皆が疲れ果てていて、グランドに集まって座り込んだりしていた。煤けた顔を朝陽に晒して、心地良いまぶしさに耐えている。ケガ人は体育館に集められた。島唯一の医者である横山さんが呼び出されて治療にあたっている。あれだけ派手に撃ち合って戦争していたのに、けが人は出たが死者はいなかった。仮の遺体置き場となった職員室に横たわるのは、先生とコッタだけだった。西出日名子と二人の用心棒、頭を吹き飛ばされた中学生はどこかに放置されている。

 アヤメとカナエも帰ってきた。もう西出のクビキは無くなったので、体にジャンジャの元凶をくっ付けている必要がない。カナエを人目のないところに連れて行って、皮膚に食らいついているダニを取り除いた。最初はざわついたが、すべてを取り除くころにはなんとも思わなくなっていた。腫れが痛々しく残っているが、そのうち消えて気になくなるだろう。

 職員室に戻ると、あけ美やツヨシ、ミノル、ヤスオ、杏子がいた。コッタが死んだことを受け入れて、お別れをしていた。

「コウタ、バイバイ」

「オラァ、コウタがいないとつまんないべや」

「コウタ、天国においしいものあったら残しておいてけろ」

「コウタ、コウタ、コウタ」

 贈る言葉は年相応に拙かったが、やさしくて気持ちがこもっていた。子供たちはコッタの傍から離れようとしなかった。先生は床に伏せったまま、顔に座布団をあてられていた。ぞんざいな扱いだが、子供の誰かがそうしたのだろう。豪快な笑い顔が見られないのが残念である。

「みんな、炊き出しがあるから朝飯を食いに行くよ」

 アヤメが食い物で誘い出そうとするけど、子供たちはコッタを見つめたまま動こうとしない。母ちゃんが「食べてきな」と言うが、状況は変わらずカナエまでもが膝をついてしまった。気持ちは痛いほどわかるが、コッタだって腹がへっただろうに。

 アヤメが棚の上にあったレコード機器をガチャガチャとやり始めた。パチパチと、針が円盤の表面をなぞる音がしたと思ったら音楽が鳴り始めた。レコードを校内放送で流し始めたのだ。その曲は、Those Were The Days{悲しき天使}だった。

 メロディーに合わせてアヤメの体が揺れている。踊っているというよりも、ゆる~く振り付けをしているという感じだ。英語歌詞の女性ボーカルの歌声は、どこか物憂げで、せつなかった。アヤメの家にもあったレコードであり、私もコッタも子供たちと聞いたことがあった。そういえば、あいつはこの曲を好きだと言ってたな。

「♪ ラーラーラー、ラーラララ~ ラララーラーララ ♪」 

 コーラス部分をアヤメが歌った。すると、子供たちもつられて口ずさみ始めた。あけ美がミノルの手をとりミノルの手がツヨシをつかみ、杏子とヤスオも繋がった。

 コッタを囲んで子供たちの合唱が整っていた。楽しくホットケーキを食べたあの時と同じであって、たった一つの違いはコッタが繋がれていないことだ。

 いや、すまない。あいつも手を繋いでいた。私の目が濡れてふやけてしまい、見えないだけだった。

 この島に呪いがあるのかは知らない。でも、少なくともこの場所とこの時には、そんな不浄なものは存在しない。透き通って清澄な歌声がコッタを天国へと導くだろう。あいつは、どこに行ってもバッタとりの名人なんだ。

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