第四十四話 天罰

 戸部映奈とべえいなはどす黒い感情を抱きながら目的地への道を歩いていた。住宅街の一角にある市民球場。そのすぐ隣にある市民公園が彼女の目的地である。

 公園の近くにまで到着すると、映奈はすぐには公園内に入らずに、入口近くから公園の中を観察した。そして、目的の人物が公園の中にあるベンチに腰掛けている事を確認すると、憎しみに燃える目でその人物の方を睨みつけていた。

 公園内にいるその人物は、映奈のかつての上司だった。上司と言ってもまだ映奈同様に三十歳前後くらいの若さで、映奈が勤めていた会社の創業者一族の人間だった。いわゆる同族会社のボンボンという奴であるが、本人はかなり優秀な人間で、そんな彼と付き合う事ができた時、彼女は天にも昇る気持ちだったものである。

 だが、付き合い始めてから二年ほどしたところで些細な事で喧嘩をした結果別れる事となり、しかもその事が社内で噂された事で映奈は会社にいられなくなって彼女は自主退職に追い込まれてしまった。その後も就職活動を続けているがなかなか安定した職業に就く事ができず、一方の元カレの方はといえば順調に管理職への昇格が決まり、しかも映奈より若くて美人の他社の社長令嬢との結婚まで決まったという。あまりの落差に、理不尽であるとはわかっていても、彼女がその元カレに対して嫉妬じみた憎悪を抱くのはある意味避けられなかったのかもしれない。

 彼女はその元カレを殺害する機会をうかがっていた。その結果、彼が日頃からこの市民公園で新しい彼女と待ち合わせをしてデートに出かけている事を知り、その機会を利用してその新しい彼女の目の前で彼を殺害してやろうという計画を立てたのだった。そして今、公園のベンチで待ち合わせをしている彼の元に、白いワンピース姿の現彼女が駆け寄って来るのが見えた。

 映奈は手に持つバッグから一本の包丁を取り出すと、汗のにじむ手でしっかり握りしめた。もうここまで来たら後には引けない。こうなった以上、彼を殺して自分も死ぬしかないのだ。その覚悟はすでに済ませてきたつもりだった。それに、もうしばらくしたら市民球場で行われている試合が終わって観客がたくさん出てくるはず。そうなってからでは遅いのだ。やるならもう、時間がない。

「い……行くわよ!」

 彼女は自分の気合を入れると、包丁片手に飛び出した。

「アアアアアアアアアアッ!」

 そして、驚いてこちらを見やるあの男目がけて絶叫しながら突っ込んでいき……



 ……直後、公園内に悲鳴と血しぶき、そして呻き声と共に人間が倒れる音が響き、全てが一瞬のうちに終わりを告げたのだった……



「いやぁ、凄かったですねぇ」

 ……それから三十分後、市民球場の入口から他の観客に交じって榊原と瑞穂が姿を見せた。瑞穂がやや興奮気味であるのに対し、榊原はなぜか少し複雑そうな表情を浮かべている。

「終わってから言うのも何だが……なぜ私が瑞穂ちゃんの学校の野球部の試合を観戦しなければならないのかね?」

「たまにはいいじゃないですか。今年はうちの野球部がなかなか強くて、甲子園出場まであと少しの所まで来ているんです。同じ学校の人間として応援するのが当たり前じゃないですか」

「私は別に立山高校の出身ではないのだがね」

「まぁまぁ、細かい事は気にしない!」

 要するに、榊原は瑞穂の通う立山高校野球部の夏大会の応援に無理やり引っ張って来られた状況である。

「しかしまぁ、準々決勝なのに派手な試合だったな。君の学校のピッチャーはピンチじゃないと実力を発揮できないジンクスでもあるのかね?」

「いやぁ、そんな事はないと思うんですけど……」

「だったら、何で毎回ノーアウト満塁になってから三者連続凡退を繰り返して無失点に抑えるなんていう危なっかしい投球しかできないんだ! しかもやたらバント処理だけうまくて、相手がスクイズをしても無失点で切り抜けてしまうし、犠牲フライをしようとしても全部インフィールドフライになってしまうなんて、まったく意味がわからない」

「だからこそ手に汗握る試合になるんじゃないですか」

「……緊張しすぎて、はっきり言って心臓に悪い」

 榊原は深いため息をついてからさらに続ける。

「しかも、攻撃に至っては逆に毎回ノーアウト満塁にしながら、スクイズも犠牲フライもせずに愚直にバットを振りまくって三振を連発して無得点のままチェンジするなんて事を繰り返して……監督は何を考えているのか私にもさっぱりわからなかったぞ」

「でも最後には勝てたんだからよかったじゃないですか」

「……そりゃ、毎回ノーアウト満塁からの連続三振をしていた相手ピッチャーが肉体的にも精神的にもヘロヘロになってたんだからそうなるだろう。おかげで最後の最後にピッチャーが場外ホームランをしてサヨナラ勝ちなんてよくわからない勝ち方をしたし……にもかかわらず同じ条件で投げているはずの君たちの高校のピッチャーはケロッとした表情をしていたし……」

 そんな事を言い合いながら歩いていると、球場横の市民公園の辺りが騒がしいのが見えた。そちらを見やると、なぜかパトカーと救急車が停まっていて、しかも何か現場検証のような事が行われているようである。

「何かあったんですかね?」

「さぁね」

「えー、探偵なら興味を持ちましょうよ」

「そうは言うがね……正直、今日は無茶苦茶な試合を見せられて疲れた。そもそも、本来一般人の私がおいそれと事件に介入するような事態は避けるべきだ」

「普段から警察の捜査に介入しまくっている先生が言っても全く説得力がありません」

「それは言ってくれるな。まぁ、それに……」

 榊原はチラリと現場を一瞥しながら言った。

「あの様子だと死人は出ていないようだしな。もちろん、警察から依頼があるなら話は別だが……ひとまず帰ってからニュースを見るだけでいいだろう」

 かくして名探偵は現場を去り、後には「いやぁ、こんな事があるんだなぁ……」などと複雑そうな顔でのたまう警察関係者たちだけが残されたのだった……。


 翌日の朝、テレビでこんなニュースが流れた。

『昨日午後二時頃、東京都品川区××の市民公園で発生した殺人未遂事件について、警視庁は品川区在住の女性を現行犯逮捕しました。逮捕されたのは戸部映奈容疑者(二十九)。警視庁の発表によると、戸部容疑者は市民公園内にいた男性を殺害しようとして包丁で襲い掛かった所、同時刻に市民公園隣の市民球場で行われていた全日本高校野球選手権東東京大会準々決勝にて放たれたサヨナラ場外ホームランのボールが偶然にも頭を直撃してその場に昏倒。駆けつけた警察官に意識不明のまま逮捕されたとの事です。戸部容疑者は警察病院に搬送され、頭を五針縫うことになりましたが命に別状はなく、警察の取り調べに対して容疑を認めながらも「よりによってあのタイミングで場外ホームランが直撃するなんて何の天罰よ!」などと供述しているという事です。警察は戸部容疑者が被害者に対して激しい恨みを抱いて犯行に及んだとして慎重な捜査を進めていますが、同時に戸部容疑者の犯行を阻止した場外ホームランを放った立山高校二年のA君に感謝状を渡すかどうかも検討しているとの事です。では、次のニュース……』

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