第六話 瑞穂と雨男
横溝正史の執筆した金田一耕介シリーズの『悪魔の寵児』という一作を読んだ人はいるだろうか。内容を簡潔に言うと、自称雨男なる人間が自らの復讐のために次々と残虐かつ猟奇的な殺人事件を引き起こすというものである。犯人の残虐さは凄惨の一言を極め、あの金田一をも途中で狙撃して負傷させてしまっている。
ところで、なぜいきなりこんな話を始めたかといえば、最近読んだこの小説が頭にこびりついて離れないのだ。特に冒頭で雨男が雨の滴をレインコートに滴らせながら手紙を出す場面がリアルすぎて、僕の頭の中に見事に再現されている。そんなわけで、最近この場面ばかりが頭に浮かんで夜怖くて眠れないという困った事態に陥っている。こんなことだったら読まなければ良かったと今さらに後悔しているが、ミステリマニアの級友が「絶対にお勧め!」と無理やり手に押し付けてきたものだから読まぬわけにはいかないではないか。
その忌まわしき小説を読んだ翌日、僕は寝不足のまま、いつものように学生服を着こんで家を出た。高校まで十五分。遠いとも近いとも言えぬ距離でかえって中途半端だといつも思っている。さらに忌々しいことに今日はバケツをひっくり返したような大雨である。あの小説では雨男は雨の日に限って出現して殺人を行っていた。梅雨だからとはいえ縁起でもないことだと思う。
そんなことを思っていたら、不意に背中をたたかれた。恐怖の雨男のことを考えていたので思わず叫びそうになりながら素早く振り返った。
「おはよ!」
セーラー服姿の女子高生がにこやかに立っていた。彼女こそ、すべての元凶であるあの小説を僕に貸し出したミステリ研究会部長の同級生・深町瑞穂である。ミステリマニアであるという点を除けばショートヘアの似合うかなりかわいい子で、実際にクラスにもファンが多い。かく言う僕もその一人であり、結果、彼女の気を引こうとして、彼女が推薦して貸してくれたあの小説に手を出してしまったというわけだ。我ながら何をやっているのかと思う。
「ねえ、貸しておいた『悪魔の寵児』読んだ?」
「ああ、何とかな。たいしたことないじゃないか」
まさか雨男が怖くて仕方がないと言えるわけがなく、僕は強がりを言った。が、彼女は別に疑う様子もなく、
「ああ、そうなんだ。私なんか初めて読んだ時は雨男が怖くて夜も眠れなかったんだけどなぁ」
今さら僕もそうだったなどと言えるわけもなく、僕は曖昧に笑った。
「そんな本をなぜ勧めたんだ?」
さりげなく聞く。彼女は眼を爛々と輝かせ、
「だって、この私が本気で怖いと思った唯一の作品だもの。何百冊というミステリを読破したこの私がよ。すごいと思わない?」
正直どうでもいい。この趣味さえなければかわいい子で通るのだが。
「とりあえず返しておく」
「ん、ありがと」
彼女は本を受け取ると、そのまま先に走って行った。どうやら感想を聞きたいがためだけに声をかけたらしい。
僕はそんな彼女の後姿を眼で追いながら、彼女にとって雨男とはどんな存在なんだろうと考えた。あのミステリマニアの彼女を震え上がらせたということは、それなりに彼女の心に印象を残した存在なのだろう。
ただ、彼女の中で雨男は恐怖ではなく、尊敬の対象なのだろう。ミステリマニアで幾度となく殺人描写を読んできた彼女を恐れさせた存在。彼女にとってそれは恐怖というより感動の感情が大きかったのではないだろうか。だからこそ彼女はあの小説をお勧め本として紹介するのだろう。
雨男はレインコートを着こんで雨の中殺人を起こすやつだ。だが、その印象は私と彼女で大きく違う。残念ながら、僕はあの雨男に恐怖の念は抱いても、尊敬とか感動の念は抱けない。彼女はあの小説を僕に渡すことでそれを伝えたかったのではないか。僕と自分ではあまりに考え方が違いすぎると。まあ、僕の妄想かもしれないが。
「彼女なりの僕に対する回答だったのかな」
僕はそう呟いて、本を返す時に渡す予定だったラブレターをポケットの中で握りつぶした。降り続ける雨の音が雨男の高笑いに聞こる。笑いたければ笑うがいいさ。僕はそう思いながら学校へと歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます