12.マザーズデイ・フライト!
大きなプロペラの回転音、こんな大きな機体を持ち上げるのだから、かなりの騒音だった。それだけで柚希だけじゃない、ほかの一般乗客も緊張の表情を見せている。
機体がふわっと浮かんだのがわかる!
離陸だ!!
民間旅客機がハイスピードで滑走路を突き進み機首をあげて、空へと急角度で上昇するのとは異なる。
ほんとうにふわっと、駐機していたその位置から徐々に徐々に地面が離れていく。昇っている!
すぐそばの窓にはもう青い空、丘珠空港の滑走路、駐屯地が見下ろせる。
柚希は思わず、機内の先頭を見る。後ろ姿だが姉の背が見える。迷彩柄の女性パイロット。姉がいまこの機体を持ち上げているのだ。
芹菜義母はどうしているのかと視線を向けると、誰もが外の景色を見て歓声をあげているのに対して、ただひたすら、じっと、優しい眼差しでコックピットにいる百花姉を見つめていた。まるで見守るようにだった。
芹菜さんにとって、景色よりも娘が頑張る姿を見たかったのかもしれない。そう思えた。
だがそこから方向転換のために、初めてチヌークの機体が斜めに傾く。柚希と広海がいる側の座席が上、対面している座席が下に。向こう側に落ちる感覚に陥り、びっくりした柚希は思わず隣にいる広海の手をぎゅっと握りしめ、腕にも抱きついていた。
広海も角度に驚きながらも抱きついてきた柚希をそっと長い腕で支えてくれる。
「わっ、けっこう傾くな。簡易的な座席だからよけいにびっくりした」
「モモ姉、こんなこと毎日してんの。凄いっ」
しかも乗っている人ではなくて、操縦している人!
広海がいう通りに、座り心地を考えられた客室ではないので、ほんとうに隊員がただ座るだけのためのもの。機体の動きがダイレクトに伝わってくる。
「大丈夫か。ユズ。乗り物酔いにならないといいけど……」
「だ、大丈夫。薬を飲んできたし。ちょっとびっくりしただけ」
高度があがるたびに、広海と繋いでいる手に力が入る。柚希が頼るように握るたびに、彼も握り返してくれる。
やがてそれに気がついて……。ふたりの視線があった。
大きなプロペラ飛行の騒音の中。なぜか柚希には一瞬、静かになったように感じる。夫と見つめ合う、重なる視線。
外の景色は、札幌の市街と南に広がる森林と山岳が見渡せるところまで昇ってきている。
「久しぶりだな。ふたりきり」
「うん。久しぶり」
でもそんな滅多にない『ふたりきり』を知っても、次にふたりが視線を向けたのは、芹菜母――。
義母は館野三佐との会話を楽しんでいて、時々、コックピットを見つめたり、窓の外の景色を眺めたり。息子夫妻へと視線を移すことはなかった。
そんな母親を見て、今度は広海から柚希の手を強く握り返してくる。
「これまで、ありがとう。柚希。勝お義父さんと、百花お義姉さん、心路義兄さんにもそう伝えたい。俺たち親子のために、ありがとう」
「そんな……。私だって、父とふたりきりだった毎日を、芹菜さんが来てくれて明るい家になったんだよ」
「あのさ……」
広海が伏せた眼差し。伏せた長いまつげに少し滴がついているのを知る。
「これからは、俺たちのことを考えよう。柚希と俺だけのことを」
プロペラの音を聞きながら、柚希は少し考える。
ちょっとだけ、芹菜義母へと視線を向けると、義母は義母で楽しんでいる。目が合わない。
柚希も夫の手をもう一度握り直す。
「うん。広海君とのこれからは、私だけのものだよね」
「うん。柚希のこれからも、俺だけのものだ」
その裏でなにをふたりで決めたのか。言葉にしなくてもわかっていた。
夫も抜け出して、自分だけの空へと飛べる日を迎えた。
妻として柚希はそう思えた。
これは姉がくれたプレゼントだったのかな……?
ふたりきり。姉が見せてくれた札幌上空の景色を楽しんだ。
💑
チヌーク観覧飛行を終えてしばらく――。
また北国が真っ白に染まる冬を迎え、また雪を見送って。遅い春がやってきて蝦夷山桜が咲いて、ライラックが北国の青空を彩り、ニセアカシアの白い花が鈴なりに咲いて、甘い香りが漂う。
ポプラの綿毛がふわふわと、あたたかな昼下がりに庭に舞う季節を過ごして。もうすこししたら、芹菜義母が育てている百合が満開を迎える。
ポプラ並木に広大なタマネギ畑、百合が咲く公園が近く。
ゆったりとした郊外の二世帯住宅で、今日も柚希はたのしく暮らしている。
ユズちゃん、カリンちゃんが泣いているわよ!
「はーい、いま行きます!」
庭にいる義母の声に我に返り、ランドリールームにいた柚希は急いでベビーベッドまで。
わんわんと元気いっぱいに泣いている『娘』を見下ろして、にっこり微笑む。
「花梨ちゃん、おなかすいたのかな」
小柄な身体で柚希は娘をベッドから抱き上げる。
百花姉がプレゼントしてくれたあの日。チヌークでフライトをした日の後。夫の広海と子供を迎え入れる決意をした。
決意まで時間がかかったのは柚希も働いていたし、二世帯生活が落ち着くまで、とか、そんな様子見をしているうちに、百花姉が里帰りをして……という日々だった。子供はそのうちに――だったのに。あのフライトで、夫の広海と向き合えたから掴めた幸せ。
姉と芹菜義母からのプレゼントだったんだと思う。あのフライトは。
妊活を始めると初雪が来てすぐに妊娠発覚。まだ姉も心路義兄も札幌市内勤務で実家に住んでいたので、力になってくれた。
ちいさな孫がいっぺんにやってきて、父もてんやわんや。
芹菜義母はまた孫が増えること、今度はほんとうの意味での初孫。しかもある時から『女の子』とわかって、ばあばフィーバーでいつも忙しそうに動き回っていた。しかも念願の『女の子ベビー』がやってくるため、もういまから『あれもこれも手作りにしちゃう』と、洋服用の生地などクラフト素材を買い集めることに勤しんでいた。
家族や先輩たちから沢山の手を借りて、柚希の出産は安泰で迎えられた。
お祝いも賑やかだった。荻野の姉弟も来てくれたし、自衛官ファミリーも駆けつけてくれた。小樽からは父の勤め先所長さんである優吾さんも、お得意の手芸でかわいいベビーグッズをたくさん届けてくれた。
生まれてまだ二ヶ月。柚希も少し余裕がでてきたところ。
ベビーベッドのそばにあるソファーで授乳をしていると、ガーデニングをしていた芹菜ばあばがやってくる。
「花梨ちゃん、おっぱいだったのね」
「はい。だんだんリズムがついてきて見通しができるようになってきましたね」
「ふふ、一路君のときを思い出すわね」
「ほんとですね。お姉ちゃんがお手本を見せてくれたおかげで、私も予測が付けやすくて……。お姉ちゃんは大変だったんですけど……」
「モモちゃんは、ユズちゃんのお手本になれたこと、自分が先に学んで妹の力になれることのほうが嬉しいはずよ。いまなんて、一路君を背負ってパワフル自衛官ママさんじゃない。そもそも、私たちが力を貸していることにすら気兼ねするような子だもの。自分から力を貸すことが性分で生きていける女性なのよ。甘えておきなさい」
「はい。ママ――」
いつのまにか柚希も姉同様に芹菜義母のことを『ママ』と呼ぶようになっていた。芹菜義母も、もう姉妹の母親そのものだった。
小柳家のリビングに、夏の遅い夕日が差し込んでくる。
おなかいっぱいになって満足そうに頬を膨らませている娘にも、優しい茜が降りそそぐ。
「ただいまー」
夫が帰ってきた声が聞こえてきた。
今年も凜々しいクールビズのビジネススタイルに整えている広海が現れる。片手にはかわいいショップバッグを持っていて、それを柚希へと掲げる。
「また千歳がおさがりをくれたんだよ」
「え、また!? 千歳お嬢様のところのおさがり、いいものばっかりなのに」
「姉妹で揃えたものもいっぱいあって、ちょっとしか着ないでサイズアウトしたものけっこうあるから、使って欲しいってしょっちゅう持ってくるんだよ」
リビングのソファーで授乳を終えたばかりで、柚希の腕にはちょうどおめめぱっちり開いている娘がいる。広海がそれに気がついた。
「うわっ。今日はパパのただいまの時間に目覚めていたんだ」
「パパに会いたかったのかな?」
「花梨~。ただいま~。パパ、帰ってきたぞー」
柚希のすぐ隣に、すらりと背が高い広海が腰を掛ける。
茜に染まる中、小さな娘を挟んで柚希と広海は肩を寄せ合う。
「だんだん、柚希ぽい顔になってきたな。ママ似かな。ちいさくてかわいくて、どこか逞しい。そんな女の子になってほしいな」
「……逞しかったんだ、私」
初めて言われた気がして、柚希はぎょっとした。
「小さな身体でかわいい見た目だったけど、すごく頑張り屋さん。周りへの気配りがよくできて、一緒にいると安心するんだ。そんなママがパパとばあばを支えてくれていたんだよ。逞しいだろ」
娘のほっぺをつんと指先でつついて、広海が笑う。
「花梨も、そんな女性になってほしいよ」
「私は、芹菜ママみたいになってほしいな」
「え、母さんみたいに? いつまでも乙女なってこと? いやいやいや、乙女チックは母さんだけで充分」
「え、大人になっても乙女で素敵じゃない」
「やめてくれ。花梨は柚希にそっくりでいいんだって」
背後のキッチンに入っていた芹菜義母が『あら、私みたいなのはダメなの』と息子を睨んでいたが、『でも私もユズちゃんみたいにかわいく育ってほしいわ』と朗らかに笑い飛ばしている。
もう小樽で出会った時の弱々しさも、打ちひしがれて静かに過ごしていた母子の影はない。
寄り添っていないと生きていけなかった母子ではない。
広海はマザコンかもしれないと思われるような男性ではなくなっている。
芹菜義母は自立をしたし、頼りがいがあるお姑さんだ。
広海は妻と娘をいちばんに思う男として自立している。
でも家族としていつまでも一緒にいたい。
そして柚希も、この家の妻で嫁で母になろうとしている。
『ただいまー』
『たたいまああ』
『ただいまーうほうほー。じいもいっしょに帰ってきたぞー』
続いて姉の百花と、保育園通いの一路、父の勝まで一緒に帰宅。
リビングが一気に賑やかになっていく。
やがて、心路義兄も制服姿で帰宅する。
そこから家族揃って、一気に子供たちのこと、夕食のこと、片付いていない家事を協力してこなしていく。
一路はもう元気いっぱいの二歳児で目が離せなく、百花姉が荒っぽい言葉でおいかけまわしたり、逞しいレンジャーの心路パパががっしり捕まえてお風呂に強制的に連れていっちゃったり。
柚希と芹菜義母は夕食の支度。その間、父の勝は洗濯物を片付けてくれたり、広海は娘の花梨のめんどうをみてくれたり。
姉夫妻はあと一年は札幌市内勤務とのこと。次の異動では、また中央に近い駐屯地に配属になるかもしれないと予測している。
でも、それまでは。この賑やかな小柳・神楽・東一家で暮らしていけそうだった。
その間に、たくさんの思い出を残しておきたいねと姉とも話し合っている。
あの日のフライトは、母のためのフライトだった。
姉は母親になって初めてのフライトだった。
芹菜義母への感謝のためのフライトだった。
そして芹菜さんはほんとうに自分の足で歩き始めた日。
柚希にとっては、母になろうと決めた日。
マザーズデイ・フライト。
そう名付けている。
あの日。チヌークが着陸して、コックピットから降りてきた姉がヘルメットを取り去り、凜々しいいつもの姿で柚希を優しく見つめてくれていた。
「柚希のおかげで、お母さんに会えたよ」
なんのことだろうかと、姉を出迎えた柚希は首を傾げる。
「出産したばかりでへとへとだった時。慣れない新生児の世話で疲れ切っていた時。ふらふらしながらキッチンに行ったら……。お母さんが居たんだよね。お母さんが、うどんを作ってくれていたんだ。私が好きな、おあげを甘辛く煮付けたやつを乗せてくれるキツネうどん」
「……やだ、お姉ちゃん。それって疲れて幻覚でってこと?」
姉がそっと眼差しを伏せ、首を振る。
艶やかな黒髪、綺麗な面差しの姉が柚希を見つめたまま、少し目を潤ませて告げたこと。
「柚希の後ろ姿が、お母さんにそっくりになっていたってこと」
そう聞いて、柚希はハッとする。
確かに、自分は亡くなった母親に似ていると言われてきたからだ。
「お母さん。私に柚希をお母さんとして残してくれたのかなって思ったんだ。キツネうどんもお母さんそっくりだった。ありがとうね。柚希――」
迷彩服の姉に抱きしめられた。
いろんな母を想った一日だった。
いま、柚希も百花姉も母親として生きていこうと前を向いている。
目の前にうかぶ母たちのように。
今年も芹菜ママの百合が咲く。
そのかおりが、この家のかおり。
甥っ子の一路にも、娘の花梨にも、懐かしい匂いになりますように。
マザーズデイ・フライト! 終
明日、最終更新です
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