note

第1話

「ボクは、どこから生まれたの?」

幼い頃、ボクは母さんに訊いた。母さんはボクに、赤ちゃんの時、母さんのおなかの中に居たと教えてくれた。

 僕は最初、それを嬉しく感じた。母さんが大好きだったからだ。大好きな母さんと、一つであったことが、嬉しかった。母さんの中に居られたこと。それは、僕にとって最大の安らぎだった。

 でもボクはそのすぐ後で泣いた。母さんと一緒にいたのに、突然、切り離されてこの世に生まれたのだと気づいたからだ。

 どうして、ボクを産んでしまったの?ボクはずっと母さんと居たかったのに。

母さんと一つで居たかった。ずっとずっと母さんの内側に抱かれて居たかった。

なのにどうして、ボクを離してしまったの?どうしてボクを、生み出してしまったの?


どうして、


「……ボクは、ずぅっとここにいたかったのに」

男はそう言うと、真っ赤な血の海の中を探った。ごぼごぼと、それは男の手を飲み込もうとしているようにすら感じる。だが、男はそれすら楽しんでいるかのようだった。まるで幼子が、砂場に隠した宝物を探すように、やがて、一つの臓器を探り当てた。誰もが、命の鼓動を始めて最初に抱かれる、命のゆりかご。ずるりとそれを引きずり出して、男は愛しそうに頬に当てた。男の頬が、朱く濡れる。それすら愛しそうに、何度も何度も。

 愉悦を浮かべる男の頬に、それでも涙が伝い落ちた。歓喜の涙ではない。顔は笑っていても、それは決して、喜びだけに心を震わせているわけでは無い。男の心は、冷たい涙で満たされていた。

「帰れたらいいのに」

呪文のように繰り返す。何度も、何度も。

 そのゆりかごが、熱を失ってしまうまで、男はそれを抱き続けた。


「なぁ、人を殺すって、どういう心境だと思う?」

それは、たまたま犯罪学の講義で隣り合わせた奴の台詞だった。

 オレはその言葉に、立ち上がりかけた腰を、すとんとまた椅子に下ろした。だが、相手はオレを対象に話しているとも思えない。何故なら、その台詞は真っ直ぐ前を見たまま発せられたのだ。当然、オレの方を向いてもいない。そんな状態で発せられた。

 だが、彼は、オレが座ると同時に、オレの方を向いた。オレが答えたわけでもないのに、彼にはオレがその話に興味を示すとわかっていたかのようだった。

 そして彼は、にっこりと、人好きする笑顔で笑った。

 それが、オレ、カズユキと、タケトの出会いだった。

 タケトは話してみると面白い奴だった。タケトが法学部で、オレは国文学部だったから、学部は違うが、ミステリーが好きということと、アクション映画が好きという事で話は合った。

 しかし、最初の質問にオレがどう答えたかと言えば、

「さ、さあなぁ。オレ、人を殺したことないし」

笑いながら適当にそう言った。この時オレは内心、タケトをヤバい奴だと思った。実は案外根暗とか、呪うリストとかこっそり付けてる系?何て思ってしまった。

 でも、そういう奴なら逆にそんな質問をさらっと他人に言うだろうか。いや、言わない。犯罪学を受けているということは、多分法学部。でなければ、自分みたいにミステリー好きだろう。その上での質問だな、と、オレは結論付けた。

「虫も殺せそうにないよね。カズユキは」

タケトはいきなり呼び捨てでオレを呼んだ。オレが名前を知られている事に驚いていると、タケトはオレが持っていたノートを指さした。確かにそこには、オレの名前が書いてあった。

 オレはそもそも、初対面でいきなりなれなれしくするやつは好きじゃなかった。そのはずだった。でも、タケトがオレを呼び捨てにしても、悪い気はしなかった。

 それは、思いの外、タケトの声が綺麗だったからかもしれない。それと、笑顔も。


 それから、俺とタケトは何かと行動を共にするようになった。講義は重ならないし、学部も遠いのに、何故か空き時間に会う事が多かった。それも、特に申し合わせたわけでもないのに、何となく、会う。

 よぉ、なんて挨拶をしたら、後はもう、前から約束していたように二人で過ごした。オレたちにはそんなペースが合っている。

 何を約束するでもなく、それでも会えた時は、時間が許す限り一緒に過ごす。そんな感じ。それが心地よかったのだ。

 そのノートを拾ったのは、そんな時期だった。

 その日、オレはタケトと映画を見に行った。それは、とある実際に起こった連続殺人事件をモチーフにした、ミステリーものだった。巧妙なトリックと、緻密な心理描写、そしてアクション。久々の琴線に触れる映画にオレは興奮していた。タケトはオレよりは冷静だったが、やっぱり気に入ったらしい。映画館近くのファミレスに入り、二人で映画の話をめたら止まらなかったからだ。

「でさ、やっぱり犯人って、生きてると思うか?」

オレはそう言ってコーヒーを飲もうとした。そして、カップが既に空だったことに気付いてウェイトレスを呼んだ。何度目かのおかわりだったにも関わらず、彼女は人好きする笑顔で会釈した。接客態度も良いし、笑顔も柔らかくて結構好みの女性だった。オレは今日はツいてる、と、心の中で思った。

 映画は最後、犯人が崖に追い詰められ、海にダイブして終わる。エンドロールの隙間で懸命に波間を捜索する警官達が映る。しかし、犯人は見つからない。音楽の後ろで地元の警官が、ここは潮の流れが速くて、などと言っているのが僅かに聞こえる。すると、犯人の来ていた、破れて血の付いた服が、ふわりと浮かんでくる。黒い波間に白いシャツが、何かの指標のように見える。が、それまで。本人は浮かんでこない。刑事は、濡れたシャツを握りしめて、悔しいとも、哀しいとも取れる表情を浮かべる。そして、暗転。オレはそれを思い出してわくわくしていた。

「……犯人、か。」

タケトが呟くように言った。オレはどきり、とした。それまでの盛り上がりに対して、それは不思議に思えるほど、静かで、重い声だったからだ。

「生きてるかもな。普通の人に紛れてさ。普通の人のふり、しててさ」

淡々と語るタケト。それが却って不気味に感じた。オレは、何かを思い出しかけた。こんなタケトを、自分はどこかで見た気がする。どこだ。どこで見たんだ。オレが自分の記憶を探っていることなどお構いなしに、タケトは続けた。

「犯人も普通の人として生きたいのかもしれない。だから、敢えて人の中を選ぶ。そこで、自分が望んでいた通りの普通の生活をして、普通にふるまって……でも、どこかでスイッチが入る。それは、とても小さなきっかけで……」

「お、おい。タケト……」

おれはたまらず声をかけた。背中が寒くなって来たのだ。

「普通の人間、誰かにとっては隣人、誰かにとっては友達、同僚、仲間。それが、ある日突然、連続殺人鬼になる。それも、大きな事件や事故じゃない。日常ありふれた、小さなことで、だ」

オレはごくり、と唾をのみ込んだ。

「ホラ、カズユキ、お前の後ろに!」

「うわああああああっ!」

オレは思わず立ち上がって後ろを見た。

後ろの席に座っていた中年のおっさんが驚いたあと、いかにも迷惑そうに顔をしかめた。

オレはひたすらすみませんすみませんと頭を下げた。

「タ……タケトぉ、脅かすなよ…」

「ごめんごめん。やっぱりカズユキは虫も殺せないよな」

くっくっと笑うタケト。

でも、なぜか悪い気はしなかった。

「なーんだそれ。バカにしてる?」

オレはわざと拗ねた風に言った。

「してないしてない。イイ奴、ってことさ。」

それも場合によっちゃ、バカにしてる風に聞こえるけどな。とは、思ったが口には出さない。何故なら、タケトはそれを馬鹿にする意味では口に出さないって知っているからだ。オレはタケトを睨み付け、だが、笑ってコーヒーを飲んだ。

 そうしていると、タケトのスマホが鳴った。ごめん、と、言い残してタケトは一度店を出た。オレは、ふぅ、と、息を吐いた。そして、さっき何かを思い出しかけたことを思い出した。しかし、それはもう、追う事の出来ないことのような気がした。少なくとも、今は。タケトに脅かされたせいで、どこかへ気持ちが飛んでしまったようだ。

「ごめんごめん」

その後、戻って来たタケトは両手を合わせてオレに謝罪した。

「急にバイトになった」

その日、入るはずだったバイトが急に休んだということで連絡がきたのだ。タケトも大概、お人よしだよな、とオレは思った。

「今度、食堂でランチ奢るよ」

「おー。約束な」

オレはコーヒーを片手にタケトを見送った。タケトが帰ってしまってやることが無くなったオレは、仕方がないので帰ろうとした。コーヒーを飲み干し、荷物を持って立ち上がると、タケトが座っていた席に一冊のノートが置いてあるのに気がついた。

「タケトが忘れたのか?届けてやろ」

そう思い、オレはそのノートをカバンに押し込んだ


 その日の夕方、オレは部屋に戻った。途中でスーパーに寄って、適当に食材を買ってきた。それを冷蔵庫にしまうと、買ってきたジュースを出して座り、一息ついた。

 その頃にはもう日は沈んでいて、部屋の中も薄暗くなっていた。大学進学を機に実家を出て借りた、ワンルームのアパートの部屋。僅かに西日が入るその部屋の窓辺に寄って、カーテンを閉めて、それを遮った。

 ベッドに座り、今日持って行ったバッグを置いくと、中から今日見た映画のパンフレットを取り出す。すると、一緒にタケトのノートが出て来た。それは、取るつもりのなかったオレの指をすり抜けて、ばさっと開いて床に落ちた。

「おっと、」

慌てて拾おうとした時、そのノートの、いつもは几帳面なタケトの、少し崩れた慌てたような字が目に飛び込んできた。その書き方が珍しいと思った所為か、ついついオレはその文字を追ってしまった。そして、オレは一瞬、凍り付いた。

「三十代。女。絞殺後、刃物にて腹部を開く。子宮を切除。後、元に戻す。他には手を付けない。血は拭いてそのまま埋める。手は祈りを捧げる形で」


 そして、一行開けて。全く同じことはしない、と、書かれていた。

「こーわ、何これ」

オレはその時はその程度の感想だった。その言葉に触発されて、映画の殺人鬼のシーンを思い出したから、そのせいで背筋は寒くなったが、それだけだった。それだけだと、思った。

「何のメモなんだろう。小説とか?漫画?何か気になってメモったのかな」

パラパラとノートをめくってみるが、他には何も書いていない。使い始めなのか、あるいは急なメモが必要で予備的にメモしたものなのか。

「あ、授業のメモか。授業で何かの事件を取り扱ったんだろ」

オレも犯罪学には顔を出しているが、他の法学部系の講義は取っていない。犯罪学に関しても毎回いるわけではないし、オレがタケトが受けた講義の内容を全て知っているわけではないのだ。オレはその手の授業のメモだろうと勝手に納得してノートの閉じた。瞬間、何故か思い出したのは、出会った頃に訊いた、タケトの台詞だった。

「人を殺すってどういう心境だと思う?」

オレは、はっとした。そうだ。さっきのファミレスで思い出しかけたのも、これだ。あの時のタケトは、初めて会った時の匂いがした。何故同じことを考えるのか。ノートに書いてあったことと関係あるのか。どちらにしても、オレの知らない、タケトの中の暗くて深い何かが関係している様な気がした。

「オレの、知らない……暗くて深い、何か……」

オレは、一瞬頭に浮かんだ考えを、かぶりを振って吹き飛ばした。

(何考えてるんだ、オレ……)

オレはしばらく思考を停止して、その後、がりがりと頭を掻いた。何かが釈然としない。でも、それを詳らかにするのは怖い。しかし、放っておけない。混乱している。それは分かる。

「……テレビでも見よう」

黙って一人で考えてるから要らない事を考えるんだ。他の事で気を紛らわせれば、すぐに忘れる。そんなバカな考えだと、オレは思い、リモコンを手にして電源ボタンを押した。

 直後、画面に現れたのは、「キャンプ客、女性の惨殺死体を発見」という、色んな意味でショッキングな見出しだった。

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