消費増税に合わせたポイント還元事業とやらで、○○ペイで支払えるお店はずいぶん増えた。けど、ここのファミレスはまだ現金決済オンリーを続けている。何かの記事で読んだが、システム開発のスピードと導入コストの見極めをしてるらしい。


「キャッシュレスになると、お釣りを募金するみたいなことも少なくなるよね」

「そういう心配をしてくれる人がマジョリティだったらいいのにね」

「小宮もこの前お釣り募金してなかったっけ?」

「あれはときちゃんのマネをしただけだよ」

「……そうだったんだ」


 会計を済ませて、二人はファミレスを出る。気づくと外は暗くなっていた。


「肌寒くなってきたね」


 小宮がアウターを羽織りながら言う。


「そうだね。最近は朝晩になると冷えこむよね」


 今日は別の意味でヒヤヒヤしたけど。

 小宮が丹念に作品を読んでくれたことはとてもうれしかった。常盤の意図とは異なる解釈もあったけれど、それも含めて醍醐味だ。

 しかし小宮が和歌の話をしたときはドキリとした。

 紫式部の和歌が元ネタなのはそのとおり。


めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影

(久しぶりにめぐり逢ったというのに、はっきり見えないうちに雲に隠れてしまった月影のように、あなたもあわただしく帰ってしまいましたね)


 幼馴染の友人に久しぶりに会えたのに、あわただしく帰ってしまったことを残念に思って詠んだ歌だという。見えたと思ったらすぐに隠れてしまった月影に、友人を喩えて表現したものだ。

 常盤の書いた小説のほうでは、かぐや姫を月に見立てている。


めぐりあって愉しむ時間もないうちに雲に隠れし月や美し


 かぐや姫とAがともに過ごした期間は少なくとも数年間におよぶが、それがあっという間に感じられてしまう。そんな気持ちを込めた歌だ。

 紫式部の和歌との大きな違いは、その結句。こちらの歌では「月や美し」と、ストレートに月の美しさを詠んでいる。

 月はかぐや姫のメタファー。そしてこの歌はかぐや姫に贈られたもの。だから「月がきれいですね」というのは「あなたはきれいですね」ということであり、こういう場面でそんな和歌を贈るのは、「あなたのことが好きです」と伝えたいからだ。「月がきれいですね」は「I Love you」のメッセージだ。

 それは敬愛ではない。恋愛の情だった。


 しかしAはストレートに好意を伝えることはできなかった。側仕えという立場に加え、掟のことも知っていた。まして女性である自分がかぐや姫に懸想することなど赦されなかった。Aは自分の想いを抑えつけ、そのかわりに心を尽くしてかぐや姫にお仕えしてきたのだった。

 手紙に「あなたが好きです」とはっきり書くのは憚られる。だから代わりにAは和歌に想いを忍ばせることで、間接的に気持ちを伝えようとした。


 Aがかぐや姫に焦がれる気持ちには強いものがあった。

 五人の貴公子やほかの男どもをシャットアウトすることに精を出す様子は、気に食わない虫を近づかせまいとする心理が色濃い。それは天上世界の掟を守らせたいからではなく、寵愛を独占したいという私情なのだ。

 なぜAは瀧久の手紙を読んだとき、激しいショックを覚えたのか。それは強い嫉妬を感じたからであって、かぐや姫がルールを破ったことに憤ったのではない。

 実際Aが激情したのは、手紙の束を読んだときではなく、を読んだときだった。むしろ最後の一通以外は、好意的に受け止めてさえいる。態度が変わるのは、瀧久が下心を抱いていたり、逢瀬があった事実を知ってからだ。瀧久を「敵」認定し、強い言葉で非難している。

 Aは瀧久の手紙をすべて燃やそうと考えた。もし色恋沙汰の事実を隠蔽したいだけなら、燃やすのは最後の手紙だけでよい。残らず焼却しようとしたのは、最後の一通だけではなく、瀧久という男そのものに矛先が向かっているからである。

 そして感情の向かう先は瀧久であって、かぐや姫にではない。逢瀬をしたことがタブー破りだというなら、その責任はかぐや姫の側にもある。手紙のやりとりそうだが、かぐや姫と示し合わせなければ逢瀬などできない。それどころか、“私にだけ”タブーのことを打ち明けていたのなら、ほかの人たちは天上世界の掟のことなど知らないはずだ。ならばタブーを破ったのはかぐや姫というべきであって、瀧久を非難するのは筋違いだ。

 Aはタブーが破られたことを嘆いているのではないのだ。湧き上がったのは嫉妬であり、それはAがかぐや姫に恋心を傾けていたからなのだ。


 そして常盤は、ほかならぬ語り手Aに自己投影しながら小説を書いた。

 常盤は小宮に対して好意を抱いている。一方で小宮は近藤のことが好きだと公言している。それを知って常盤は自分の気持ちを伝えられないでいるのだ。

 常盤が『かぐや姫の秘め事』という作品を書いたときに念頭にあったのは、そんな自分自身の心境だったと言えるかもしれない。


 Aは手紙の和歌に自分の想いを込めた。それは瀧久という別の男を装って書いた手紙で、しかも和歌の内容は、少なくとも表面上は月の美しさを讃えただけの歌だ。

 それがそのときのAにできる精一杯だった。かぐや姫と離れ離れになってしまう前に、ギリギリ贈ることのできたメッセージ。たとえのちに恋慕のことが発覚しても、月について詠んだだけだと言い訳できる歌。


 Aはおそらく、かぐや姫が真意に気づかなくても構わないと思っていたことだろう。

 忍ぶる恋を打ち明けることすら御法度。それでもAは気持ちを伝えられないまま別れるのは嫌だった。たとえかぐや姫に届かなくても、告白だけはしておきたい。それがAの心情であり、彼女なりのけじめだった。

 想いが伝わったかどうかはわからない。

 しかしAの主観のなかでは、その気持ちは報われたのだと思う。

 だってかぐや姫はAに伝えているではないか。“でも嬉しかったわ。頑張って慣れない歌まで詠んでくれて、嬉しかった。ありがとう”と。そして“私たちは気持ちを確かめあうように、抱擁を交わしました”とAは語っているのだ。


 かぐや姫が仮にAからの愛に気づいたとしても、それをそのままを受けとめるわけにはいかなかった。やはりストレートに返事をすることはできない。だからAが手紙を記したことを確認したうえで、和歌に対して感謝を述べるのだ。

 かぐや姫は「頑張って慣れない歌まで詠んでくれて、嬉しかった。ありがとう」とAに伝えている。

 和歌を詠んでくれたことに対する感謝。それは同時に「あなたの気持ちに気づいたよ」というメッセージでもあるはずだ。

 お互いに、直接的な言葉を交わすことはない。交わしてはいけないと了解し合っている。そのうえでギリギリ可能な告白と、ギリギリ可能な返答のやりとりをした。

 それで満足だった。少なくとも当時の段階では、Aはそれで満足していた。二人きりの美しい思い出として大切にしていた。歳をとってから“余計な考え”が浮かんだりはしたようだが。


「そういえば近藤も読みたいって言ってたから、こんど感想聞いとくね」

「えー、いいよ。恥ずいからあんまり人に読んでほしくないんだけど」

「なにそれ、せっかく書いたのにもったいないよ」


 駐輪場のところで、それぞれ自分の自転車を取り出す。学園祭シーズンだけあってか、授業が休みなのに自転車はやけに多い。

 小宮は歌の解釈についてまでは述べなかった。常盤が作品に込めた意図は伝わっていないかもしれない。けれど、それならそれでいいと考えている。ひょっとすると伝わらないほうがいいとさえ感じているかもしれない。


――小宮と近藤の仲がうまくいけばいい。そう本心から願っているためだろうか。


「じゃ、また来週ね」


 さよならを言って常盤が別れようとしたとき、小宮がすっと裾をつかんでひきとめた。


「なに、どしたの?」

「ほら見て、月が出てる」


 小宮が指さした空には、たしかに月がくっきりうかんでいた。

 空気が澄んでいるためか、派手なネオンの光がないためか、月の光が映えて見える。手を伸ばしても届かないことは知っているのに、身近に感じてしまう星。

 そんなことを考えていたせつな、小宮が耳もとで囁いてきた。


「月がきれいだね」


 はっとして、常盤は思わず振り返った。月よりも何よりも、小宮の顔を確かめずにはいられなかった。

 だってそうだろう。さよならを済ませた後で、わざわざ人を引きとめたうえで告げた一言。よほど伝えたいことでもあったのか。たしかに月はきれいだが、ただそれだけのことなら、あえて呼び止めるほどでもないだろうとは考えてしまう。

 だとすれば「月がきれい」ということ以上に、そこに他意を勘ぐりたくもなる。

 小宮は、常盤が振り向くことがあらかじめ分かっていたかのように、にっこりとほほ笑んでいた。狂おしいほどかわいげな笑みをたたえて、常盤をまなざしていた。

 常盤はなにも言葉を返すことができなかった。

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