3-3 農園の殿下と香港の少年
先程前置きしたように、里見たちは柳静と晶燁と親交がある。
尋常小学校に通っていたころ、里見と瑛梨は夏休み中に若松家が運営に関わっている牧場と農園に、それぞれ泊まりでお世話になっていた。
ファームステイのようなもの、と言えばいいのだろうか。農場での過ごし方は、朝早く起きると家庭用の鶏の卵をゲットしに行き、朝ご飯を食べたら野菜の収穫と出荷作業。終わると夏休みの宿題をし、お昼ご飯。食べると、子どもなので昼寝をさせてもらう。起きたら泊まらせてもらっている家のおカミさんに手伝うことはないか聞きにいったり、遊びに行ったり。夜は翌朝に備えてさっさと寝る。もちろん、身の回りのことは自分でする。牧場でも大体同じ、午前中に作業して午後は日によって違うことをして、という感じだ。
今世は帝都育ちで、前世も第一次産業が身近じゃない都市部で育った里見は興味津々であれこれオヤジさんたちに質問していたし、開放感のある農村で人目を気にせずのびのびできて瑛梨も楽しんでいた。
晶燁と農園で出会ったのは10歳の夏だった。
初対面の晶燁は、世話係に促されないと挨拶もできない内気な少年だった。同い年なので、と紹介されるまで年下だと勘違いするような背の低い小柄な体格をしていた。
ちなみに、瑛梨の晶燁への第一印象は「なんか弱っちそうな坊ちゃんだな」である。幼い頃の瑛梨は、リーダー気質というか、仕切りたがりというか。大人に対してはそうではないのだが、自分と同じ子ども相手には上下関係を推し量ってから交流する、という考えを持っていたので。
晶燁について、詳しくどこの誰か、とは教えれもらえなかったが、まあ、そこは子ども同士なので引っ張り回しているうちに気にしなくなった。自然と「あき君」呼びが馴染んだ。主に瑛梨が「次あっち!」と指示と同時に動き出し、着いて行こうと晶燁がアタフタし、里見がフォローをするという流れで日中は過ごしていた。籠一杯入った夏野菜を重い重い、と言いながら運んだり、オヤジさんに言われてわんさか茂った雑草を刈ったり、冷やしておいた
晶燁がいたのは3日間だけだったけど、随分里見と瑛梨に心を開いてくれた。晶燁は己れの虚弱体質故の不甲斐なさや、皇族としての窮屈さを感じている、という誰にも言えなかった密かな悩みを吐露したのだ。
それを聞いて前世を思い出した影響で精神年齢高めな里見と、子どもらしい周りを明るくするポジティブさを備えた瑛梨は彼らなりに真剣に受け止めた。晶燁が最上位の身分だったこと、一般市民のような自由は一生手に入らないだろうこと、とにかく里見や瑛梨とは全く違う教育を受け、色んな人から都合のいいフィルター越しに見られる人生がこの先待っていることを想像した。
里見は細い足を両手で抱え、目の前で弱気をさらけ出している男の子をせめて励ませれたら、と思って「周りと比べるんじゃなくて、昨日の自分、1年前の自分と比べて成長できているかって考えようよ」と言ったのだ。その言葉が晶燁にどれ程の影響を与えたのかはわからないけど、元気を出してほしい気持ちは届いたのだと思う。
それから学習院大学付属の初等科を卒業するまで、毎年夏には一緒に過ごしていたのである。
「もう最後に会ってから半年か。手紙のやり取りはしているけど、どうしてるかな。世間の噂話を聞く限り、元気そうだけど」
「焦らなくてもいずれわかるよ。『花燈』のストーリー通りなら、今年の二学期からい組に来るはずなんだから」
里見たちと出会って以降、晶燁の性格は年を追うごとに図太く、かつ愛嬌がある性格になっていった。身体の虚弱さはゲームと変わらぬまま、己の望みを遠慮せず、明朗快活な性格で叶えてしまう。侍従や兄弟たちに「しかたないなあ、晶燁様は」と愛されている、と季節折々に送られてくる手紙から読み取れる。
※※※※
続いて語ろう。柳静との出会いは3年前にさかのぼる。きっかけは『レディ=グローリア号沈没事故』と呼ばれる大型客船の海難事故だ。といっても、里見や瑛梨が事故にあったのではない。レディ=グローリア号に乗っていたのは里見の母親である。
一旦里見の母親の生い立ちを紹介しよう。里見の母親は裕福な上流階級の子女であった。といっても、母が父と結婚する前に没落したそうだし、里見は母方の祖父母に会ったことはないので詳しくはない。若い頃に留学した経験があり、語学力に長けていた母は、特技を活かしてとある日本人と結婚した外国からやってきたご夫人の通訳兼日本語教師になった。そのご夫人が瑛梨の母親である。若松家の若奥様の信頼を勝ち得た母は、外に出ては通訳の、在宅で翻訳方面の仕事をしながら子ども3人を育てた。里見が複数の外国語に通じているのも、前世の記憶に加えて家庭内に良き手本がいたためである。
里見が12歳のとき、母は引退した軍人老夫婦の海外旅行に通訳として付き添う船旅に出た。この船の名がレディ=グローリア号。夜明け前の一番暗い中、母と共に深い海の底へ沈んでいった貴婦人の名である。
残された遺族は雇い主だった元軍人夫婦と、事故から約10ヶ月が経って訪れた柳静から当時の状況を聞いた。
それまで順調に航海をしていたレディ=グローリア号は、突然水中の何かと衝突し船体に大きなダメージを負ってしまった。異変を察知した母と元軍人夫婦はもたもたすることはなかった。荷物を手早くまとめてデッキへ向かい、救命ボートの順番を待っていた。船員たちも女子供を優先して救命ボートに乗せては急いで海上に降ろしていった。しかし、いくら急いでもデッキに集まった大勢の乗客はなかなか減らない。
このときは、わずかに傾きを感じる程度で時間はまだあると思っていた、と老夫婦の奥様は言った。一方、旦那様は元軍人として培った危機管理能力からわずかな綻びで集団パニックが起きる可能性を危惧していた。
足の悪い奥様を庇いながら進んでいる途中、アジア人の兄と妹らしい子どもが物陰に隠れているのに里見の母は気づいた。母はどうしても子どもらが気にかかってしまったらしい。母は「君たち大人の人は一緒じゃないの?」「英語はわかる? それとも広東語?」そう話しかけて香港人の兄妹の手を引き、一緒に救命ボートに乗ろうとした。
ところが、順番がくると救命ボートの定員はギリギリで、5人一緒には乗れないから誰かは次のボートに乗ってくれ、と言われたのだ。
最初は旦那様が降りようとした。それを母が押しとどめた。「旦那様は足の悪い奥様を助けてあげなくては。旦那様だって心臓がお悪いのですから。今だって、顔色がよくありません。坊や、自分の名前と親の名前、住んでる場所は言える? 旦那様、できたら大使館まで送ってあげてください」そう言って母は救命ボートに乗らなかった。
元軍人夫婦と香港人の兄妹が乗った救助ボートは無事に海上に降りた。次のボートが降りてくる場所を空けるためオールを漕いでいる途中、船が急に傾きだしたという。船はありえない角度まで傾き、そのまま持ち堪えることができずに沈んでいった。海中に沈む大船がつくりだす渦に巻き込まれないようオールを漕ぐことで必死だった、と旦那様は言い、母はどうなったのか、と問う里見の父に、次の救助ボートは降りてこなかった、何人も大きく傾いた船から飛び降りた人がいたけど沈む船に巻き込まれてほとんど溺れ死んでしまった、と奥様は告げた。つまり、里見の母は助からなかったのだ。
一家の大黒柱以上に精神的支柱だった母の死は、特に末っ子の里見に悪影響を及ぼした。里見は母の死以降、放心状態と巨大な喪失感に繰り返し襲われるようになった。最大の庇護者を失い、不意に心に浮かんでくる頼りなさを埋めようともがいて、悲しくなって。今でこそ落ち着いて母のことを語れるが、12歳のときは時間が解決するまで待つしかない、と言われていた。
そんな状態からようよう抜け出せそうな時期に、柳静は妹の手を引いて水嶋家にやってきた。
母の頼みで元軍人夫婦が兄妹を国際的な公的機関に預けたあと、兄妹は無事に家族の下へ帰ることができた。ほぼ1年かかって、兄妹は命の恩人を探し続けて水嶋家に辿りついたのだ。彼らが元軍人夫婦の話に出てきた香港人の兄妹だとわかり、家族は仏壇に手を合わせてもらうことにした。兄妹2人とも涙を流しながら謝罪と感謝を拙い日本語で伝えてくれた。
ゲーム内の『日本人女性に強い憧れを抱いている』という柳静の心には、里見の母の姿が刻まれているとしか考えられない。
付き人らしき大人と里見の父とで御見舞金や恩人の遺族へ援助の申し出など、現実的な話をしていたらしいが、姉たちと里見は詳しく教えてもらえなかった。実は母が助けたのは香港を拠点にしている大きな貿易商の子女だったため、目玉が飛び出るような金額が提示されたことは、後になって教えてくれた。多分、父は程々に受け取っても持続的な援助は断り、代わりに若松家にこの縁をパスしたのだと思う。その証に、若松家の事業を通して柳静と付き合いは続いている。柳静には、親しくしてほしいと頼まれ、
そして、ある意味最も重要かもしれない原作『花燈』との変更点がある。柳静には既に好きな女性がいる。既に想いを寄せている女性が、いる。
乙女ゲームにおいて攻略対象に先に好きな相手がいるとは、どうやってプレイヤーからヘイトを買わずにシナリオをつくればいいのか。無理じゃなかろうか。
周りの人から見て、柳静が彼女への想いを捨てて春菜に乗り換えるとはとても考えられない。
「というか私はともかく、里見もよく8年間気づかなかったな。晶燁か柳静氏に会ったときに気づいてもよかったものを」
「それについてはゴメン! 子どもの姿と『花燈』に出てくる成長後が結びつかなかったんです」
里見は自分でもつくづく間抜けだと思っている点を指摘されがっくり項垂れた。
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