2-3 お弁当と瑛梨の逆鱗
遠足目的地の神社には境内の中心から外れたあたり、山の木々が途切れ下界が見渡せる場所がある。行きがけに通った鳥居前町から列車を降りた駅、帝都に向かって流れる阿良川まで一望できた。岩畳は山際に近すぎてちょっと見えない。だいたい班ごとに散らばって景色がいい位置を席取りをしている。抜けるような青空の下で陽を浴びているだけでも気分がいい。
瑛梨たちは
先輩方が女子寮の台所で、前日の夜からこしらえてくださったお弁当の蓋を開ける。丸い曲げわっぱの中に入っていたのは、梅干しおにぎり、玉子焼き、ブロッコリーとささみ肉の朝鮮風和え
ブロッコリーを初めて食べる子は、コレは何? と不思議そうにしている。この野菜、ここ数年で帝都ではよく見かけるようになったが、他の土地ではまだまだ認知度が低いようだ。瑛梨は固茹でされた茎の食感を感じ、よく噛んで味わいながら昔を思い出す。
始まりは里見が「栄養価が高い野菜なんだけど、どこかで栽培してない?」とたずねたことから転がっていった。栄養豊富という言葉に、母国にいた頃の看護婦経験を活かした活動をしている母が興味を持ち、新商品に成りうると目をつけた祖父が細々と観賞用に栽培されていたものを品種改良、後に流通を広めた。
なんとその細々と観賞用に栽培していた農家も、コレって食用になるんじゃないか? と考え色々研究していたそうだ。瑛梨の祖父はそれを財力で後押しするかたちに収まり、農家はブロッコリーの専売契約を結んで安定した儲けを得ている。美味しくなったってこんな珍妙な野菜、市場でなかなか卸売業者が買ってくれないのだ。
里見の前世の歴史上では、大正時代はそれまで医学の一分野だった栄養学が1つの学問として独立し始めた時代であった。栄養学を研究し始めたパイオニアが日本の博士であることを知っているのは、同じ日本人でも少ないのではないだろうか。
ただの一般人でも、里見の『現代の記憶のファイル』にあった健康な身体づくりに関する知識は、黎明期の栄養学を上回る量だった。理由は当人が前世でとある競技に世界で活躍するレベルを目標に本気で打ち込んでいたためである。上達するには膨大な練習量が必要で、その練習量を支えるには丈夫な身体が必要。では、丈夫な身体はどうやって作ればいいのか? そう考えた前世の里見は食生活、睡眠、からだの構造、筋トレ方法などをトレーナーへ聞いたり、書籍や動画サイト等々を参考に学んでいた。メニューのバリエーションを求めて試しに家にあった主婦向けの雑誌なんかも読んでみた。現代で調べたことが巡り巡って大正時代で役に立っているのであった。
※※※※
いい景色を見つつお弁当と食べながら、男子のお弁当は玉子焼きじゃなくてゆでたまごだった、って言ってたっけ、と1日前に遠足だった男子たちの会話を思い出す。女子のお弁当は女子の先輩が、男子の分は男子の先輩が用意していた。
クスリと瑛梨が思い出し笑いをしたのに気づいた春菜が、「どうしたの?」とたずねるので軽く説明する。
「いや、男子のお弁当の話を思い出してて。剣道部の先輩方があの太い指でちまちまゆでたまごの殻を剥いていたのかと思うとなんだか面白いな、と思っただけで…」
「… …。あのさあ…、いつ言おうか迷ってたんだけど、男の人と親しげなのってどうかと思われるわよ? 男なんてどいつもこいつも、下品なくせに偉そうにしてばっかりなんだから」
「そうよ、特にろ組の水嶋くんだったっけ? よく一緒にいるのを見かけるけど、気をつけた方がいいと思う。男の人って私たち女と全然違う生き物じゃない? 彼だって冷たいし、何を考えているかわからないもの」
いきなりな批判に、一拍置いて瑛梨の声がワントーン低くなる。
微妙に食い違っている春菜と櫻子の科白もおかしく思う。櫻子は男に対して反発心を持っていて攻撃的。春菜が抱いているのは世間知らずからくる男性への忌避感のような感情だ。明確な「嫌い!」と「よく知らないから避けたい」なのに、同じ考えの者同士という顔をしているのが笑わせる。
「気をつける、とは?」
「良き婦女としての貞淑さについての話よ。幼馴染でも、男の人であることには違わないんだから」
当たり前じゃない、といった様子の櫻子。どちらかというと男勝りな性格で、自分でもサバサバした性格だと言う割に、目につく淑女らしくない振る舞いは注意せずにはいられないらしい。サバサバした人間とは思えないネチネチした態度だ。
瑛梨の声が更に一段低くなった。あと少しでお弁当も食べ終わりそうだったのに、もう美味しく頂けそうにない。
「里見が女に乱暴する人間だと言いたいのかな?」
ずっと言動に引っかかるところがあったが、縁がなければ遠足が終わって自然に離れていくだろう、と思っていた。まさか里見を貶すという瑛梨の逆鱗に触れてくるとは。
「女は女というだけで狙われやすく、警戒心を持たなきゃならないのはわかるさ。だがそれと、話したこともない人物を危険だと決めつけるのは別の話だろう。里見は前科持ちか何かか?
もし 、里見のことを信用できないなら、それは里見を善き人間だと考えてている私のことも信じていないということだ」
「なっ! そこまで言ってないでしょ!? 曲解がすぎるわよアンタ!」
「じゃあどういう意味か噛み砕いて教えてくれないかな。なぜ、昨日今日初めてまともに話した相手に道徳的に緩んでいる、と言われなきゃならないのか」
「アンタねぇ…っ!!」
言い様に勢いよく立ち上がった櫻子。しかし下から鋭い目で睨んでくる瑛梨に怖気付き、反論を封じ込められると背を向けた。
タッと駆け出した櫻子。それを追いかける気のない瑛梨。
勢いに負け、途中から口を挟めなくなって2人の間でオロオロしていた春菜が、瑛梨に話しかける。なぜ櫻子を追いかけずに瑛梨に話しかける選択をするのか。わかり易く怒っている櫻子より、淡々とした瑛梨のほうが冷静だと踏んだのか。
「あ、あのね、私たち若松さんのことを心配してるだけなの。ほら若松さんって誤解されやすいじゃない?」
「誤解? もしかして、何か私に関する悪い噂話でも流れているのかな?」
「えっ! ええっと、そういうわけじゃないけど…」
「じゃあその『誤解』というのは、私の表面だけを見た君の中で生まれたものだろう。主観に偏った見解を、さも多くの人が同じように考えているように言うのは、それこそ誤解の元だよ」
お前が偏見を持ってるだけだろう、と突きつけられて春菜の顔がカーッと赤くなる。羞恥の感情が高まって抑えきれなくなったのか、涙目になっている。涙を堪えようとして身体に力が入りすぎて細かく震えている。
瑛梨より櫻子のほうが怒りの度合いが強いと春菜は思ったようだが、瑛梨の不機嫌もなかなかのものだった。手に負えないくらいに高まってしまったら、もうどっちの方がマシ、というのは意味をなさないのに。
春菜も櫻子も運が悪かったのかもしれない。
学校の入学案内が届いてからずっと、瑛梨は入学準備や仕事の引き継ぎで忙しかった。できる限りキリよく片付けて新生活を始めたかったのだ。あと、社交界デビュー前にも関わらず親しくしてくださっている方々への、これからは学業優先で過ごすという説明も兼ねた挨拶回りも地味に大変だった。例外は剣道の道場と馬術の先生のところ。両方とも術師学校と繋がりがある人が教えているところなので、これからも顔を見せに行きやすいのだ。
女学校の学業と若松家の事業に関わることの両立はずっと頑張ってきたので予定に空きがないのは慣れていた。が、さすがに最近は忙しすぎた。
そんな忍耐の緒が擦り切れているタイミングで瑛梨に近づいてしまったのだから。
「山本さんを追いかけたら? 私は別の班に入れてもらうよ。こう見えて女の友人もちゃんといるから、ご心配なく」
瑛梨が突き放すようの言うと、春菜は荷物をまとめて櫻子を追いかけていった。ただし、自分の分だけ。
「… … … …。普通ここは山本さんの
結局、置いていかれた櫻子の荷物は瑛梨が持ち、ふもとの町まで帰ったときに「返してよ!」とひったくられた。
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