『damnum,pactum―喪失、契約』

 ああは言ったものの。

 私は一生が心配だったのでさっきの商業ビル前の広場の交差点を挟んで反対側の目立たない所でコートと帽子を脱いで張っていた。

 約束を微妙に破ってしまったが仕方ない。アイツに任せておくにしても見てなければ。

 交差点の向こう側には人だかり。多分一生いちおだ。逃げるよりは言いくるめる事にしたらしい。

「―ああ。スンマセン。彼女と喧嘩してしまいまして」なんて遠くからかすかに聞こえて来る。

「―お前の連れどこやった?」と拡声器を持ったままの活動家は言う。

「俺と意見が割れましてね…1分前にられましたよ?何処行ったかは知らない」とぬけぬけと言う一生。

「おーおー哀れだねえ。だが我々に賛同したんだな?」と活動家は能天気にく。言ってた内容丸々筒抜つつぬけてた訳じゃないらしい。

「もちろん!全面的に賛同っす。素晴らしい慧眼けいがん」と半ば馬鹿にしたような一生。気分は良いけどあおるな一生。

「おう素晴らしい…なんて言うとでも?」と活動家。

「―ん?ああ?聞こえてた?」と空ボケる一生。

「バッチリ。お嬢さんの反対よりテメーのスカした態度のが気に食わんねえ…」

「あれれ…勘弁してよ。言い合ったって意見と世界観がすれ違うだけだろ?」

「それを無知と言うのさ」

「無知同士の無知合戦」煽り倒す一生。あいつはクールぶるが、絡まれたらきっちり煽り、貶し、スカして叩きのめそうとする悪癖がある。

「教育…してやるか?」と肩を鳴らしながら言う活動家。ああ、やっぱ平和的なヤツじゃなかった。

「豚箱行きたいの?良いよ、死なない程度にやってくれや。気が済むなら」と受ける一生。こいつは殴られてもヘラヘラして被害者ぶり、最後には駆けつけた調停者に被害者ぶって負けた喧嘩に勝つのだ。

「…どうせ豚箱には行くからな。気晴らしはしていくぜ」と一生に殴りかかる活動家。相変わらず一生はヘラヘラしてる。最初のうちはパンチやヤクザキックを避けていたが、加勢した子分に捕まって殴られ始めた…


 骨が肉を打つ鈍い音がしばらく続き―最後に一生は放り出されたのだが。

 放り出された先は交差点の至近距離。いつもより調子の悪い一生はふらつき赤信号の横断歩道にまろび出てしまう。

 今日こんにちの自動車には飛び出した歩行者を検知し、緊急停止するようになってはいたが、距離がが近すぎた…そう、轢かれて、錐揉みして落ちて。脳天からしたたか落ちた一生…それがスローモーションで見えた。

 宝くじの程度でしか起きない重大な交通事故に二度遭遇した男の姿がそこにあった…



                  ◆


 響く悲鳴。ざわつく街。どよめく運動家共…あたりは凍りついた。

 私は信号を渡り、彼に近づく。

 彼は何も言葉を発さず道路に転がっていた。とりあえず救急車なんて冷静な行動が出来るはずもなく。1分近く彼の近くでうずくまってしまう。

「…一生?」ようやく振り絞った彼の名前。返事があるはずもないのに。

「…萌…黄?」と眼が見開いた彼は言う。

「大丈夫なの?」といてしまう。大丈夫な訳はない。返事をしているのも意識があってのことなのか怪しい。勝手に口から出てきていてもおかしくはない。

「…ヘマしちった…二度目だな」なんて冷静に言ってる場合じゃない。

「しゃべんない!!今から救急車呼ぶから―」と冷静さを半分取り戻した私は言う。

「脳天したたか打ってんだ…喋れてるのも不思議…」そう。言語野自体は側頭付近にあるが、体制感覚を司る体制感覚野は頭頂にある。口の筋肉がコントロールできてなくてもおかしくはない。

「もしもし―交通事故です場所は―」私は彼の言葉を聞きつつも電話していた。遅くなってからではすべての脳機能が停止しかねない。時間が惜しいのだ。末期の言葉じみた言葉を聴いてる場合じゃない。

「…救急車、か…間に合うかなあ…頭が…ぼわっと温かい…」その言葉、脳出血を連想させるから止めてほしい。

「萌黄…お前、この事…背負うな…よ」

「しゃべんなくていいから!!」と私は救急回線との合間に釘を刺す。

 彼は―その言葉を最後に…黙り込む。目は見開いたままで。嫌な予感が高まる。ああ。私は彼を亡くそうとしているのだ。


 その後の事。

 私の視界の中は動きを止めた。すべてがストップモーションアニメみたいにコマ送りで進んでいく。カシャカシャと背景が切り替わり…最後はICUで止まる。

 いっぱいの管を付けた一生の前で立ち尽くす私。ああ。今度は頭か、なんて阿呆な事を思ってしまう。腕や脚なら最悪切断すれば良いが、脳は一度おかされたらおしまいだ…

 神経細胞は基本的に再性能を失っているのだ。一生の脳はちょうど神経細胞のネットワーク(ニューロン)の編成が終わる頃。もう神経細胞が新生することは一部を除いてない。

 それに。前頭前野のあたりの動脈で出血が認められたらしい。この事は重度の意識障害が起こっているのと同義で。

 脳は失った機能を代償だいしょうするために別の脳回路を使うこともあるから絶望するのはまだ早いかと思ったが。


「呉一生くんが意識を取り戻すのは絶望的です」主治医が私と一生の家族に告げる。

 その言葉に誰も返事は出来なかった。家族はただ受け止めきれず、私は最終通告の言葉におののいて。

「生命維持に関わる延髄が生きているので、生命の『維持』は可能です。が。俗に言う『植物』状態に陥っています…今後どうされるのかはご家族で話し合ってください」


 こうして。

 一生は損ねられた。亡くなりはしてないが絶望的だ。

 私は―この世に自分を繋ぎ留めていたかせが外れるのを感じた。


                   ◆


 その後。一生の延髄もまた、侵されていたことが判明し―数日後に亡くなったのだった。

 その事を聞いた時、妙に安心したのは、ただ生きる屍にならなかった事が少しだけ私を救ったからだろう。進んでいく日々と止まったままの一生…そんな残酷な日常を過ごすはめにならなくて良かった。

 だが。そんな気持ちが芽生える自分が最悪なのも感じた。

 一生が死んでした?まるで厄介な荷物みたいな扱いをしている自分が許せなかった。


 一生を失った後の日々。

 すべてが空虚で現実感が足りていなかった。もうすぐ受験だと言うのに上の空。

 勉強自体は日々を忘れる為に懸命にこなしていたので問題はない。

 ただ、空いた時間と空間と自分をどう埋めれば良いかわからなくて。

 その頃はよく街や河原で1人ぼんやりしていたな。動いてる物を見ると安心する。人がうごめいていると、とりあえず自分の心臓と心も動いてる気がする。

 

萌黄もえぎィ…大丈夫か?」なんて同居する祖父は言う。

 ちなみに私は両親が居ない。父は早くに離婚して家庭を捨てた。連絡もないので血の繋がった他人だ。残された母は早くに亡くなった。私の出産が命を削り取ったらしい。だから母方の祖父の家で育てられた。祖父は特に子ども好きじゃないらしいが、娘の遺した娘たる私を父から取り上げた。

「んまあ。普通」と返事だけしておく。

「一生…の事まだ引きずってるよな?」と祖父はデリカシーゼロな感じで問う。この人は学問に浸かりきった人特有の浮世離れ感が強い。だから人の感情というような世事には疎い。

「あたりまえでしょ…」と特に気にすることなく返事をする私。いつものことなのだ。クリティカルをそのまま突いてくるのは。

「大学…本当に生命科学をやるつもりか?」なんてアサッテの方向の言葉が返ってきた。何を言いたいのだろう?この人は。

「もともと医学には興味持てないの。特に臨床面」研究は楽しそうだが、ハードな臨床の場で生きていける気がしないのだ。ならもっと穏当な生命科学、脳関連の研究をしていたい。

「医学は臨床に立ってなんぼ…そっかー残念だ。ちょいとした『思いつき』がああるんだがな?」軽い調子でなんだか重たそうな『思いつき』を提示する祖父。

「お祖父ちゃん、話し方にセンスないな…何かアレな『思いつき』に私を引き込もうっうてんでしょ?もうちょい…話し方考えて」昔から私は祖父に容赦なしだ。祖父も特にそれを嫌がってない。昔は相手にされてないみたいで少し悔しかったが、今はこれが祖父なりの愛なのだ、と知っている。 


「一生くんのDNA、シーケンスにかけたろ…お前は彼をどうしたい」と急にシリアス」になる祖父。

「いったっけ?その事?」と私はとぼける。

「いや、依頼した業者が僕の知り合いなんだな」

「ただの記念…というか彼が忘れられないだけ。深い意味はない…」半分は嘘だ。

「で。シーケンスにかけたか。しかも全域」笑いながら言う。シリアスさが足りてない。

「ざっと3GBのデータが返ってきた」そう。平文化されたそれは私の机の中のメディアに保管されている。

「萌黄…君は生命科学を学んだ先に何を見ている?そして、その手のことが禁止されていること、忘れてないだろうね」人の遺伝子改造やクローニングは国家が規制しているのだ、一応。

「バレてたか…んまあ。実際に出来るとは思ってない」と私は現実的な意見を述べておく。決意はあれど、現実的な世界でこれが出来るとも思ってなかった。矛盾した想いを抱え込んでいたのだ私は。

「…普通ならそうさ」と祖父は何でもなさそうにいう。

「普通じゃなかったら?」

「医療目的とか理由をでっちあげて―やっちまうね」とニヤつきながら言う祖父。

「お祖父ちゃんなら出来るからって理由でやりそうだよね?」なんてふざけて訊く私。

「…」急に黙り込んでしまった。

「…何か含むとこがあるわけ?」そう、祖父は…やりたがっているような気がする。

「…いやね?」

「なんだろう?」と私は続きを促す。

「萌黄の婆さんの顔をもう一度見たい気もするんだよ」と祖父はため息と共に言う。

「…ああ。早くに亡くなってたよね?乳がんだっけ?」そう。私の女性の親族は早発の乳がんで亡くなる率が高いのだ。母然り祖母然り。

「そ。ババアになれず終いで死んじまった…僕は最近彼女が恋しくて仕方ない」珍しくアンニュイな表情を見せる祖父。

「で?私に―試作代わりに彼を創れ、と?」恐ろしいことを言ってのける祖父に怖さを感じないでもない。

「いいじゃん、彼ならシーケンスデータと脳のシナプスネットワークの記録がある…後は君がやる気をだせば良い。知識と道具は僕が揃える…後は信頼できる部下が欲しいわけよ、共通の利害を持つ…ね」これは悪魔の契約だ…

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