第9話 一色千代子最後の事件
「何かわかったの?」一色が立花先生に尋ねた。
「うん、遷延性窒息の可能性を忘れていたよ」と立花先生が答えた。
「遷延性窒息?」
「そう、首を絞められるなどして窒息に陥り、ほとんど死にかけた時にまた呼吸ができるようになると、その場では死なずにすむ。しかし窒息状態がある程度長く続いていたら、脳に酸欠による不可逆的なダメージが残るんだ」
「そうしたらどうなるのですか?」
「しばらくしたら死んでしまう」
「ということは、この事件に当てはめるとどうなるんだい?」と島本刑事が立花先生に聞いた。
「富美江さんはもっと早めに首を絞められて、意識を失い、死にかけていた。しかし意識が戻り、立ち上がったところに博夫さんを刺し殺した播磨が立っていた。富美江さんは包丁を拾い、家から出ようとする播磨を渾身の力を込めて刺した。そして裏口のドアを閉めたところで力尽きた。つまり包丁を床に落とし、博夫さんの足下に倒れて亡くなった・・・というところかな」
「なるほど、それならすべての説明がつきますね!」と喜ぶ山下刑事。
「富美江さんはいつ首を絞められたのかな?」
「倒れていた位置から考えると、嘉夫さん、じゃない、和夫さんが刺されたすぐ後かな。禎子さんの悲鳴を聞いて和夫さんと富美江さんが二階から降りて来たんだ。居間に入って来た和夫さんを播磨が刺し殺し、悲鳴を上げて逃げようとした富美江さんの背後から播磨が首を絞めたんだ」と立花先生。
「その時博夫さんも階下に降りていたけど異変を察知して台所に入り、小三徳包丁を手に取った。その間に播磨は二階に上がり、有美子さんを転落死させ、惠子さんを撲殺した。一階に降りて来た播磨を博夫さんが包丁を突きつけて脅したが、逆に包丁を取られて博夫さんは刺殺された。人を何人も殺してしまい、盗みどころではなくなった播磨は包丁を床に落とし、裏口から出ようとしたところに息を吹き返した富美江さんが現れた。播磨が刺し殺された後、富美江さんも力尽きた、というところか」と島本刑事がまとめた。
「これで報告書が書けそうです。ほんとうにありがとうございました!人骨が嘉夫さんと判明すれば一件落着です!」と興奮する山下刑事。
「人骨が嘉夫さんでなければ新たな問題が生じるけど、少なくともこの事件はこれで解決ですね」と私も言った。
「遷延性窒息の可能性については解剖した先生の意見を聞いてほしい」と立花先生。
「了解しました」と言って敬礼する山下刑事。それを見て私たちは笑った。
ところが、一色だけは浮かない顔をしていた。
「どうしたの、一色さん?何か腑に落ちない点があるの?」
「富美江さんが最後まで生きていて、遷延性窒息で死んだという説明には納得できるけど、息絶え絶えの富美江さんが播磨を刺せるのかな?」
「普通に考えれば難しそうだけど、播磨もおそらく初めての人殺しを、それもひとりではなく何人もの殺人を行って、憔悴していたんじゃないかな?それなら富美江さんも播磨に気づかれないまま刺すことができたのかもしれない」と島本刑事。
「そうかもしれません。しかし播磨が刺される前に気づいたとしたら、反撃して富美江さんを返り討ちにする可能性が高いのではないでしょうか?」
「一色さんは何を言いたいの?」
「別の可能性も考えられるということです」と一色が言って私たちは息を飲んだ。
「まず、この血だまりの位置が描かれた見取図を見てください」と一色が言って、山下刑事が描いた図を指さした。
(血だまり水たまり記載間取り図参照)
https://kakuyomu.jp/users/henkei-p/news/16818093088675950065
「階段を降りたすぐのところに血だまりがあり、そばにバットが落ちていました。最初に考えたように、階段の横に隠れていた博夫さんが播磨を刺してできたような出血の跡です。そして播磨は死に、博夫さんは播磨の死体を裏口の外に突き落とした・・・」
「じゃあ、誰が博夫さんを刺したんだい?・・・まさか!?」と立花先生が叫んだ。
「博夫さんは播磨を叩き出した後、血で濡れた手を洗いに洗面所へと向かいました。これは藤野さんの、有美子さんが手を洗ったのではという推理を聞いて思いつきました。・・・洗面所に向かう博夫さん。そこへ息を吹き返した富美江さんが和夫さんを殺した犯人に敵討ちをするために包丁を拾い、犯人と見間違えた博夫さんに包丁を刺しました」
「そ、そんなこと・・・」
「・・・野沢家の人たちは嘉夫さんが蘇って自分たちを襲ったと思っていた可能性があります。嘉夫さんは博夫さんや和夫さんに背格好が似ていたことでしょう。富美江さんは既に死んでいた嘉夫さんを再びあの世に送り返すために刺したので、罪悪感はあまりなかったと思います。しかし富美江さんが刺したのは博夫さんでした。富美江さんは倒れた博夫さんから包丁を抜き、床に落とすと、その場で力尽きて亡くなったのです」
一色の説明に私たちは口をはさめなかった。そうだとしたら、富美江さんは仲が悪くなかった舅を勘違いで刺し殺したことになる・・・。
「・・・一色さんの説明はより合理的だと思います」と山下刑事が言った。
「しかし富美江さんが人違いをしたとはいえ、舅の博夫さんを殺したと報告することには躊躇します。ですから、何か決定的な証拠でも見つからない限り、島本刑事の説明で報告書をまとめるかもしれません」
「・・・それでかまわないと思います。私の考えも想像でしかありませんから」と一色が同意した。
重苦しい空気に包まれる私たち。その時、島本刑事がわざとのんきそうに、
「そろそろ腹が減ったな。どこかに食べに行くか」と言い、重苦しい雰囲気が霧散した。
「そうだね。帰りの時間も迫っているし、腹ごしらえをしておこう」と立花先生。
「わかりました」と山下刑事が答えて警察署を出た。
山下刑事の車に乗り込み、先日入った蕎麦屋に行って昼食を注文した。
「何でも注文してください。ビールも注文しましょうか?」
「そうだな。多少は役に立てたようでほっとしたよ」と島本刑事。
「藤野さんと一色さんには今回もお世話になった。しかし、女子大生探偵一色千代子の活躍もこれが最後かもしれないな」と島本刑事が続けたので、私は驚いた。
「え、どうしてなの!?一色さんの推理は絶好調だと思って見ていたのに、警察はお役御免にするの!?」
「そうじゃないんだ、藤野さん」と私の剣幕に圧倒される島本刑事。
「もう言ってもいいかな、一色さん、立花先生?」
「・・・ま、まあ、いずれ知られることだし」と顔を赤くして同意する一色。
「一色さんがいいなら、僕もかまわないよ」と立花先生も言った。
「じゃあ、立花先生から説明するかい?」と島本刑事。
「・・・そうだな」と立花先生は一色の顔を見て言った。顔を赤くしたままうなずく一色。
「実は、この秋、一色さんと結納を交わして、年明けか春先に結婚することになったんだ」
「結婚!?」私は驚いて大きな声を上げてしまった。結婚よりも血痕の方が好きそうな一色が結婚だって!?
「え?・・・一色さんはまだ大学二年生だよね?大学はやめるの?」
「できれば卒業はしたいと思ってるんだ」と答える一色。
「学生結婚か。・・・まあ、立花先生の職場も同じ大学だし、不自由はないでしょうね」
そう言ってから私は言い忘れていた言葉を思い出した。
「お、おめでとう、一色さん、立花先生!」とようやく私は二人をお祝いした。
「ありがとう、藤野さん」と微笑む立花先生。
「これからもよろしく、藤野さん」と一色も言ってようやく微笑んだ。
「一色さんなら頭がいいから、主婦をしながら大学を卒業できるわね。・・・それで、結婚を機に警察への協力をやめるってことなの?」
「そうじゃないぞ、藤野さん」と島本刑事が口をはさんだ。
「何か難しい事件があればこれからも一色さんと立花先生に相談するつもりだ」と胸を張る島本刑事。
「でも、今回が一色さんの最後の事件になるかもって・・・?」
「一色さんの知恵を借りるような難事件はそうそう起きないからね、次に相談に乗ってもらうのは来年ぐらいになるかもしれない。その時には、一色さんはもう一色さんじゃないだろ?」
「え?・・・あ、そうか!その時は立花千代子になってるわね!」
「そう!だから女子大生探偵一色千代子の活躍は終わり、その後は人妻女子大生探偵立花千代子が活躍するってわけさ!」と島本刑事が得意そうに言った。
「島本刑事が得意になるのがわからないんだけど・・・」
「そうですか、おめでとうございます」と山下刑事も一色たちを祝福した。
「こんなおめでたい話を家に持って帰れば、妻も喜びます」
「ようし、前祝いだ!乾杯しよう!」と島本刑事。
もちろん私と一色と、車を運転する山下刑事は飲まなかったが、島本刑事と立花先生は嬉しそうにビールを注ぎあっていた。
「大学の人たちはこのことを知っているの?」と、私は一色に尋ねた。
「ううん、まだ。知ってるのは両家の家族と、立花先生の従弟の兵頭前部長だけど、ミステリ研のほかの人たちにはまだ話してないの」と一色が答えた。
おめでたいことだけど、恥ずかしいからなかなか言えないだろうな、と私は一色の気持ちを
結婚したらどうするか、ということを二人に聞きながら、楽しい昼食が終わった。そして山下刑事に軽井沢駅まで車で送ってもらい、お礼を言う山下刑事に別れを告げ、午後一時五十四分発の特急あさま二号に乗って東京に帰った。
翌週、一色が私の家を訪ねて来た。野沢家の裏庭で発見された人骨が誰だかわかったという話だった。
「野沢嘉夫さんが大阪で暮らしていた頃にかかっていた歯科医からカルテが届いたんだ。そして人骨の歯と比較したら一致したそうだよ」
「じゃあ、やっぱりあの骨は嘉夫さんの遺体で、和夫さんが嘉夫さんに成りすましていたのね」
「そのようだね」
「でも、あんな事件が起こらなかったなら、和夫さんは嘉夫さんとして幸せに暮らしていただろうね」
「そうだね」
再び結婚の話を聞いてから一色は帰宅していった。こうして一色千代子の最後の(と思われた)事件は幕を閉じた。翌年、一色は結婚して立花千代子になった。あいかわらず島本刑事との交流が続いているらしい。
<完>
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