第16話 下山事件の話

私は久しぶりに医学部法医学教室に行って検査室で立花先生と歓談していた。


「・・・ところで先日松本清張の『日本の黒い霧』という小説のようなノンフィクションのような本を読みましたが、昔『下山しもやま事件』というのがあって、法医学者の間でも自殺か他殺か見解が分かれたそうですね?」と私は聞いた。


言うまでもなく松本清張は『点と線』や『砂の器』などの著作で有名な推理作家だ。


「下山事件かい?もちろん知ってるよ。昔法医学会でも過激な論争になって、学会内でその話をすることはタブーになったと聞いたことがあるよ」


私が知った下山事件の概要を以下に記す。ごく簡単に記すので、多少の誤謬は勘弁してほしい。


昭和二十四年、日本国有鉄道(国鉄)は十万人の人員整理リストラを計画中で緊張した状況にあった。その渦中にいた国鉄総裁の下山定則しもやまさだのり氏は、七月五日午前八時二十分頃に自宅から公用車で出勤した。その途中、下山総裁は日本橋の三越百貨店に行くよう運転手に指示した。そして「五分くらい待ってくれ」と言い残して急ぎ足で三越百貨店に入り、そのまま消息を絶った。


当然、国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に通報して失踪事件として捜査が開始される。


そして翌七月六日午前〇時三十分頃、下山総裁は常磐線の線路上で轢断死体となって発見された。


同日T大法医学教室で司法解剖を行ったところ、死体の傷に出血が認められず、死後轢断、つまり他殺された死体を線路上に置いて蒸気機関車に轢かせたと鑑定された。


しかしその後K大法医学教室の教授がその鑑定を批判し、下山総裁は生きている時に機関車に轢かれたとして、自殺説を主張して論争になった。


A新聞は他殺説を主張し、M新聞は自殺説を支持し、二大新聞の報道合戦にも発展したという。


「松本清張は他殺説、具体的にはアメリカ占領軍GHQの陰謀説を主張したけど、M新聞の記者だった井上 靖いのうえやすしは自殺説を自著『くろうしお』に書いているよね」と立花先生。


井上 靖は『風林火山』、『天平てんぴょういらか』、『敦煌とんこう』などの小説で有名な大作家だ。


「結局、自殺か他殺か分からないままなんですか?」


「自殺か他殺かは分からないね」と立花先生が言って私は脱力した。


「でも、機関車に轢かれたのが生前か死後かははっきりしてるよ」と言われて私ははっとした。


「前に死後の傷には出血が見られないとお聞きしました。下山総裁の傷にほとんど出血が認められなかったから、機関車に轢かれた時には既に死亡していたんじゃないんですか?」


「確かに生きている時の傷には出血がある、なぜなら心臓が動いているからだ、ということを説明したね。でも、死亡時の状況によってはそう簡単には判断できないことがあるんだ」


「どういうことですか?」


「それを説明するためには下山総裁の解剖所見を話さないといけないけど、聞く気はあるかい?」と聞かれた。


蒸気機関車に轢かれたという話だ。相当ひどい傷だと思うけど、小説の記述を読むような感覚で聞いてみることにした。


「お願いします」


立花先生は自分の机の引き出しからノートを取り出した。そこに勉強のためにメモしてあるらしい。ノートを開くとそれを読み始めた。


「まず、遺体の皮膚は蒼白、つまり血の気がなく、死斑も認められなかった。死斑というのは体内の血液が死後低い方に移動して、その部分の皮膚が赤っぽく変色する現象だけど、それが見られないということは体内に血があまり残っていなかったことを意味するんだ」


「大量の血が失われたということは、生前に大量出血していたということですか?遺体の傷には出血が見られなかったと書いてありましたが」


「その点を説明するためにも解剖所見を話さないとね。覚悟はいいかい、一色さん?」


「は、はい。お願いします」


「遺体の右腕は肩の付け根で切断されていたんだ」思わずひっと言いそうになる。


「左右の足も足首あたりで切断されていた。これらの傷は機関車の車輪で轢かれて生じたと考えられる。そしてこれらの切断部には出血がなかった」


「だから解剖した人は死後の傷だと考えたんですね」


「傷がこれだけだったら死体を線路上に置いて機関車に轢かせたと考えられるだろうね。もっとも殺人かただの死体遺棄かは分からないけどね」


「ほかにも大きな傷があったんですね?」


「うん。右腕の付け根から折れた肋骨と潰れた心臓が飛び出していたそうだ。この損傷が生じた時に大量の血液が体外に飛び出て、体の中の血液量が減ったと考えられる。それがさっき言った死斑が見られなかった原因だろうね」


私はその状況を想像しないように努力した。ただの言葉として聞いておこうと。


「さらにお腹の皮膚が裂けて、内臓が飛び出していたし、骨盤も粉砕していたらしい。これらの傷は、胸とお腹にとても強い力が加わったことを示すんだ」


「となると、車輪で轢かれる前に何かが体にぶつかったんですね?」


「そう。人力で殴っても、自動車が衝突しても、ここまでの傷は生じない。考えられるのは走って来た機関車が体に衝突したということさ」


「・・・下山総裁が線路の上に立っていて、そこに機関車がぶつかったということですか?」


「そうなるね。線路の上に横たわっていたら、機関車は衝突できないからこんな傷は生じない。機関車の車輪で轢かれてできた傷とは明らかに違うからね」


「死体を立たせることはできません。だから機関車が衝突した時、下山総裁は生きていたんですね?」


「そう考えられるね」


「生きている時に機関車が胸とお腹に衝突したら、胸とお腹の傷には出血が生じるんじゃないんですか?」


「死体を傷つけても出血が起こらないのは、心臓が止まっているからだと前に説明したよね?」


「はい」


「機関車のような極めて重い鉄の塊が高速でぶつかったら、その衝撃で心臓は一瞬で潰れてしまう。それは心臓が止まったのと同じ状態だから、同時に生じた他の傷には、死後の傷と同じように出血が生じないんだ。さっき心臓が潰れた時に大量の血が失われたと言ったけど、それは出血ではなく、衝突の衝撃で体の血が絞り出されたんだ」


「瞬時に死んだと考えればいいんですね?」


「そういうこと。ちなみに心臓が一瞬で止まれば同時に生じた損傷に出血が生じないということは、自殺説を唱えたK大学の教授が三鷹事件という列車脱線転覆事故の被害者を解剖して分かった現象なんだ。それまでは法医学者もよく知らなかったことだから、T大学の司法解剖の執刀医が、下山総裁は死んだ後に機関車に轢かれたと勘違いしてもやむを得なかったことになる」


「下山総裁の股間には出血があって、それが生前に暴行を受けた痕跡ではないかとも言われていますが?」


「その出血のほかに、左右の手の甲が強くうっ血していたらしい。うっ血というのは血管内に血が貯まって皮膚が赤く見えることなんだ。でも、血管は破綻していないから出血じゃない」


「それはどのように解釈されるのですか?」


「胸とお腹に機関車が衝突して強い力が加わった際に、体内の血管の中にある血液が周囲に押し出され、腕の末端に集まって手の甲がうっ血し、また、股間に血が集まって、その圧で血管が破裂して出血が生じた、と考えることもできるんだ。この時点ではまだ右腕は切断されてないからね」


「じゃあ、明らかに暴行を受けた痕跡はないということですね?」


「そうだね。それから機関車の前輪の前に排障器という縦に細長い鉄製の部品があって、線路上に落ちている物体を押し退けるようになっているんだけど、その排障器が顔に当たってできたと考えられる傷もあるんだが、・・・詳しいことは省略するね」と立花先生は私の顔を見て言った。


「以上の考察をまとめると、生きている下山総裁が線路の上に立っていて、機関車が体に衝突して即死した。線路上に倒れた死体の顔に排障器が当たり、さらに車輪に轢かれて右腕と左右の足首が切断された、と言うことになるんだ」


「轢かれる直前まで生きていたとすれば、下山総裁は自殺したと言うことになるんじゃないですか?」


「機関車が来る直前に下山総裁が誰かに線路上に押し出されたのかもしれない。そうであれば他殺ということになるね。下山総裁が自ら線路上に立った自殺かもしれないし、たまたま線路上を歩いていた時に機関車が来て、驚いて体が硬直して逃げられなかった不慮の事故かもしれない」


「死因と死亡時の状況がわかっても、必ずしも自殺か他殺か、法医学的には判断できないということですね?」


「そういうこと」


「ところで、機関車の進行方向と逆方向の線路上に血痕が点々と落ちていたそうですね?その先のロープ小屋にも血痕があったとか。それが下山総裁の死体を運んだ痕跡だと言われていますが?」


「線路上に落ちていた血痕はT大の法医学教室の人がルミノール検査で検出したそうだ。ルミノール検査とは、暗所で試薬を血痕上に霧吹きでかけると淡い蛍光を発する化学反応を利用した血痕の検出方法なんだ。目で見てわからない血痕を検出するのに便利だね。逆に言うと、線路上には目で見てそれとわかる新しい血痕はなかったということなんだ。雨が降って流されても、新しい血痕ならかすかに見えるはずだよ」


「古い血痕だというんですか?」


「おそらくね。ちなみに当時の列車に付いていたトイレは線路上に垂れ流していてね、糞尿と共に落ちた血の可能性も考えられるんだ」


「トイレから落ちた血?」


「その・・・あの・・・女性の経血とかね」言いにくそうな立花先生の言葉を聞いて私は顔が熱くなった。


「ロープ小屋の血痕も、そこでけがをした人の血の可能性が高いらしい」


「血痕の血液型が下山総裁と一致したという話ですが」


「血痕の血液型検査は簡単じゃないんだ」と血液型検査をいつもしている立花先生が言った。


「新鮮な血液を用いた血液型検査は比較的簡単なんだ。前に説明したように表検査では調べる血液の赤血球に抗血清を混ぜればいい。裏検査では調べる血液の血清に血液型が分かっている赤血球を混ぜればいい」


「そうですね。実際に検査するのを見せてもらいました」


「血痕は乾いたしみになっているから、赤血球も血清も取り出すことはできない。だから解離試験や吸収試験という方法を使うんだ」


「どんな方法ですか?」


「解離試験では血痕に例えば抗A血清を反応させる。余分な抗血清を洗い流した後に血痕を生理食塩水に浸して五十℃の湯煎で加温する。血痕がA型かAB型なら抗血清中の抗A抗体が血痕の血液型物質に結合しているんだけど、加温するとその抗体が型物質から分離して生理食塩水中に溶け出すんだ。血痕を取り出し、その生理食塩水にA型の赤血球を加えると、生理食塩水中に抗A抗体があるからA型の赤血球が固まるんだ。同様に抗B血清とB型赤血球を反応させて赤血球が固まればB型かAB型ということになる。この二つの検査結果を比較して、片方の検査でしか赤血球が固まらなければA型かB型、両方の検査で固まればAB型と判定されるんだ」


「二つの検査の両方で赤血球が固まらなければO型なんですね?」


「そういうこと」


「吸収試験というのは?」


「原理は同じなんだけどね、血痕に薄めた抗血清を加えて抗体を型物質に吸着させる。血痕を取り去れば抗体を含まない抗血清が残るので、同じ型の赤血球を加えても固まらない」


「なるほど。血痕に抗A血清を反応させ、血痕を取り出し、A型赤血球を加えて固まらなければ血痕はA型かAB型、同様に抗B血清を反応させ、B型赤血球を加えて固まらなければB型かAB型。この二つの検査を比較して血痕の血液型を決定するんですね?ややこしいけど、いずれも表検査と裏検査の応用だということは分かりました」


「それで話は戻るけど、血液にはABO式とかRh式とかMN式とかいろいろな血液型があることが知られているけど、古い血痕から血液型を検出しやすいのはABO式で、他の血液型は難しくなるんだ」


「ABO式血液型だと、例えばA型なら十人のうち四人が該当するから、血液型が一致しても本人だとは断定できないんですね?」


「そういうこと」


「結局現代の法医学によれば、下山総裁が生きている時に機関車に衝突されて轢かれたという事実は分かるけれど、他殺を示す根拠はなくて、他殺なのか自殺なのか事故なのかは判定できないということなんですね?」


「そう。死体検案書、つまり死亡診断書に該当する死因などを記載する書類には、死因の種類が病死か事故死か自殺か他殺かを選択する項目があるんだけど、この場合はそのどれでもない『不詳の外因死』を選択することになるね」


「立花先生、詳しく解説していただきありがとうございました」と私はお礼を述べた。


「司法解剖の結果が警察の捜査に大きく影響するのですね。大変なお仕事だということが改めて良く分かりました」


私が尊敬のまなざしで立花先生を見たので、先生は少し照れて頭をかいた。


「そこまで言われると照れくさいけど、この後また一緒に食事に行かないかい?」


「はい、喜んで」と私は尊敬する立花先生に言った。


医学部棟を出ようとして私は兄の夕食のことを思い出した。夕食を作らずに外食して帰ったらまたうるさいだろうな、と思う。


「さあ、行こうか」と言って歩き出す立花先生。私は兄も料理人なんだから、自分で自分の夕食ぐらい作れるだろうと思い直して、立花先生の後を追った。


(参考文献:錫谷 徹著.死の法医学−下山事件再考−.北海道大学図書刊行会、1983年)

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