過程嗜好症

純文学同人 上陸

過程嗜好症

著:朝倉 千秋


 世の中には二種類の人間が存在する。過程を愛する者と、結果を愛する者である。

 私は過程を愛する者なのだと、最近強く思うようになった。そして実は、そちらの人間の方が数としては少ないのではないかと思っている。

 登山をしているとき、このことに思い至った。


 最近、三十歳にして人生初の登山に挑戦した。登山を趣味とする人間に手を引かれ、道具を揃えて初めて挑戦した形だ。

 事前に聞いていたのは、「道中はとにかく黙々と進むだけで辛いが、山頂からの景色を肉眼で見ると最高に美しくて全て報われる」ということだった。なるほどそういうものかと覚悟を決めていたのであるが、当日は生憎の空模様。小雨と霧に包まれた中で登頂し、道中も山頂も一面真っ白な景色で美しい風景などは一切見えないという有様であった。

 にもかかわらず、登山は非常に楽しかった。たしかに道中、身体に負担はかかる。私は元々運動が不得手だし、普段は運動不足の塊のような人間である。足腰の筋肉は疲労し、酸素が薄くて息が上がる。それでも、登山道の中により適切な足場を見極め、自分なりのペースを見定め、一歩一歩踏みしめながら果てしない道を着実に登っていく行為自体が、私にとっては純粋な快楽であった。

 登っている時間自体が楽しいな、と私は思った。


 振り返ると、自分は過程に魅了され続けて生きてきた。

 ゲームをすれば冒険よりもレベル上げの方が楽しくて、何時間でも時間を忘れてコツコツと敵を倒し、経験値とお金を稼ぎ続けた。

 いくつかの楽器を嗜みバンドを組んでライブをしたりもしていたが、実際に曲を演奏するよりも地道な基礎練で新たな技術を習得したり、ギターのエフェクターを集めてちまちまといじり、理想の音を作り上げる試行錯誤を繰り返す方が正直性に合っていた。

 遂にはそこそこ高価なギターに自らドリルで穴を開け、ボディを削り、ピックアップを交換してまで理想の音作りに没頭するようになった。その頃には既にバンドも解散し、ライブで使用するあてなどなかったにもかかわらず……。


 そんな趣味の最たるものが車かもしれない。

 大学生の頃、自動車部でモータースポーツをやっていた。主に広場に設置されたコースを周回してタイムを競うジムカーナという競技が中心だった。その頃もまた、実際にタイムを計測して人と競い合うことよりも、地道な基礎連を繰り返してひとつひとつ、自分のマシンを意のままに操れるようになっていく過程の方に異様に心惹かれていた。

 技術を習得するのは楽しい。自分の身体の中に存在しなかった回路が新しく通り、その回路を通すことによって、最初は魔法のように見えていた行為が意のままに行えるようになる。そのときまさに、未知の回路を通して世界との新たな交感方法が切り開かれたような気がする。

 初めて自転車に乗れるようになったときの、乗れなかった頃の感覚がふわりと消えてしまったような驚きを覚えている人も少なくないのではないだろうか。車の運転というのはまさに、あのような驚きの感覚の連続であった。

 その頃は、夜な夜な目的地もなく車に乗って首都高を(もちろん合法的な運転で)流して帰宅した。ハンドルの切れ角、アクセルやブレーキの踏み具合、ギアチェンジのタイミング等をひとつひとつ確かめながら、最適な操作を目指す。

 ひとつのカーブを曲がるだけでも、適切な速度、加重移動、ライン取りが存在し、それにアプローチするためのアクセルとブレーキとステアリングとギアチェンジの操作がある。改善の余地のある操作があり、理想的だと思える操作もある。全ての操作がカッチリと噛み合い、完璧だと膝を打つようなことは滅多にない。だからこそ、完璧な瞬間を目指して延々と試行錯誤する。ただそれだけを繰り返すのが快楽だった。


 そんなことを考えているうちに、自分にとって小説も同じなのだと気がついた。

 小説の書き方は人それぞれであるだろうが、人によっては「プロットは最後まで見えているが、それを文字にするのが面倒だ」と感じる場合もあるらしい。

 私の場合は全く逆で、コツコツと文字を連ねていくその時間が、楽しくて仕方ない。そのために小説を書き続けていると言ってもいいだろう。

 何万字単位の作品を一文字ずつ入力していくのだから、考えてみればなかなか途方もない作業なのかもしれない。しかし言葉を選び、言い回しを練り、文章として出力する過程の気持ちよさは何物にも代えがたい。

 作品が書き終わるとき、もちろん完成させた達成感もあるが、小説を紡ぐという作業が終わってしまうことに一抹の寂しさを覚えたりもする。

 もっと上手くなりたい、プロになりたいという野心ももちろんある。しかし私が小説と呼べるかも怪しい処女作に初めて手を付けて以来、そろそろ十年にもなる長い間小説を書き続けて来られたのには、この「過程の快楽」の存在は小さくないと感じている。


 小説という大きな単位の創作物は、その生成過程において、たった一文字の創出にまで分解できる。語彙や語順の吟味、情報の取捨選択等の一文単位の小さな選択が、その最小単位になる。

 いかなる小説も、それらの積み重ね以外の方法で作り出されることはない。一歩一歩の足の運びが身体を山頂へ導くように、手足それぞれの微妙な操作が自動車を理想的なコーナリングに導くように、一言一句の吟味を積み重ねることが小説を完成へと導く。

 そんなミクロな営みに没頭しているときにふと、その小説全体のことが理解できたような感覚を得ることがある。何かのギアがカチっと噛み合い、その小説専用の回路が自分の中に通ったような感覚である。それがあると、小説が格段に良くなるという確信がある。

 そんな「全てが嚙み合った」ような奇跡的な感覚を追い求めて、小説を書いてきたのかもしれない。そんなに滅多に得られる感覚ではないけれど、それを目指してコツコツと文章を紡ぐ「過程」が楽しくて仕方ないというのは、ある意味「性に合っている」ということなのだろう。


 過程嗜好症で良かった。お陰様で、死ぬまで書き続けられそうだ。

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