第四話 照明がもたらす効果

 親方の店は、中村電器の〝お蔭〟もあって改装の必要性は感じつつも、昨今そんな費用を用意できる経営状態ではなかった。向かいは電器屋なのだから他の店より明るいのは当然、と自分を納得させていたのではないだろうか。でも、双方の店を見比べる度に渋い顔になった。


 ところが、渋い顔をしているのは親方だけではなかった。このままじゃいかん! と立ち上がった商店街の店主たち。この半年間で連鎖反応のように近隣の店が改装していき、競うように店内を明るくしていった。その所為で、【和食処 悠の里】の店内は、通行人に極めて暗いイメージを持たれてしまったようだ。おまけに切れるまで電球も替えないでいるから、こびり付いた油で照度も落ちてしまっている。当然ながら、そのくすんだ電球を覆っている木製の照明器具も、すき焼きや鍋物の立ち上る湯気が染み付いて焦げ茶色に変色している有り様。この商店街は、時代劇の撮影で使われたこともあるそうで、そんな撮影期間中に、「撮影でこの照明器具を使いたいので貸してくれませんか?」と助監督から声を掛けられたこともあったらしい。店内にぶら下がっている九灯の照明器具、こんなんでは本来の使用目的において、運ばれてきた料理を旨そうに見せることなどできやしない。常連さんに対し、将来の【和食処 悠の里】の味に失望感を抱かせてしまったきらいがある、と親方は客足が遠退いてから気づいたようだ。


 今更ながら、愉しく食事をしてもらうための雰囲気づくりとして、改装の重要性を認識させられてしまったのだ。だが、そのための費用を捻り出そうにも出せない逼迫した懐事情であるのは善幸でも分かってしまった。


 善幸がこの店で働く前は、板前が二人いたのだから、今より多種の魚介類を揃えていたのだろう。とは言え、今でも『季節感を、お客さんに味わってもらう』この親方の基本方針は変わってはいない。飽きさせない工夫に労力を惜しまない、そんな固い信念を親方は貫いてきたのだ。

 善幸は、親方の指導の下で働くようになってから日を追う毎にそれを感じるようになっていった。


 ホールと厨房の片付けや洗い物は、親方の身体を気遣いながら長年働いてくれている酒井のおばちゃんと、一年前にアルバイトとして入った専門学校に通っている未華子の担当だった。

 板前たちが辞めてからは、人手不足のため、おばちゃんと未華子は葉物だけではなく根野菜の下処理まで手伝っていた。おばちゃんは、高齢である親方の仕事を極力減らしてあげようと頑張ってくれていた。身内同然の存在に思えた。


 酒井のおばちゃんは、休み時間になると、善幸と遅い昼飯を一緒に食べながら、これまでの店の内情を事細かに話してくれた。

 従来、親方を師と仰ぎ従いて来た二人の板前は、善幸がこの店で働きはじめる一年半前から、もう自分たちを雇いきれない経営状態であることに苦悩する親方の心情を十分察しているようだった。

 ある日、板前たちは、「俺たち、これ以上仕事もせず、ぼーっと突っ立ってるわけにはいきません……」そう親方に切り出した。一人ずつ辞めていくことを提案したのだ。親方は何も言えなかった。親方への最後の挨拶、「お世話になりました……」その一言を残し、寡黙な板前たちは、バラバラに都心の雑踏の中へ消えていった。

 板前の二人目が辞めたのは、善幸がこの店に来る十日前のことだった。


 見習いというのは、先輩や親方の技量を盗み取り、頭と身体へインプットすることであり、ひたすら身体を動かし自身に覚えこませる期間でもある。そこには、技量以外の師弟関係で鍛え上げられる忍耐と心遣いを学ぶことも含まれている。なので、この期間を経て一人前になった板前は、見習いに対し簡単に教えようとはしない。苦労して覚えたことは忘れないもの、それを分かっているからだ。 

 そして、技量を覚えるだけではやっていけない世界であることも次第に認識するようになる。善幸は、おばちゃんの話から、大まかにだが料理人になるって、そういうことだと気付かされた。

 通常、一端の板前になるためには十年は掛かると言われている。けれども、今の時代、それは昔ほど厳たるものではなくなってきているようだ。


 善幸は、初日から、なんと包丁を握らされたのだ。親方が使っていた包丁二本を手渡され、研ぎ方もわからず何を切る包丁なのかも分からない。何しろ、言われた通りにやるしかなかった。

 親方は、焦りからなのか、見習いに早く覚えてもらおうと雑駁ながらも的確な指示を出していく。善幸は、三つの初歩的な切り方を習うと、ネギを夫々の切り方で五本ずつ切るよう命じられた。


 右手に持った包丁の薄汚れた柄に力が入る。刃先がまな板に食い込む。というより、切れ味が良過ぎて吸いつくような感じだろうか。刃物が自分を揶揄っているかのように思えてならなかった。

 シャキッ、ネギを切る音でわかった。力を入れる必要はなかったのだ。また、引き切りにすれば、まったく音が出なくなる。普段、料理などしない善幸でも、あまりの切れ味の良さに驚かされた。(包丁が俺の心を弄んでいる。そのうち、使いこなしてやるぞ!)と、包丁に対し敵意をむき出しにしながら色々な野菜を切り刻んでいった。


 善幸は、先月まで建築現場の後片付けの作業員として働いていた。それは、現場監督から指示されたことを何も考えずにやり続ける仕事だった。その時のことを思い出しながら、ダンボール箱からネギを取り出しては洗っていく。切るだけとは言え、自分の手を介し人の口に入ると思うと、いい加減な気持ちで作業をしてはならないと思いはじめた。必然と、これまでの仕事では感じなかった責任感が湧いてきた。


 ネギを切り終えると、今度は葉菜、果菜、その後煮物用の根菜の皮剥きをやらされた。それを横目で見ていた親方が、「どきな、見とけよ」と言って、各食材の剥き方を見せてくれた。しかし言葉での説明はなかった。

 一通り終えると、今度は「やってみろ」と言い、善幸に即実践させる。

 善幸は、見よう見まねで失敗を気にせず、どんどん皮を剥いていった。

 親方は、ダメなものを目の前で撥ねていく。撥ねられたものを善幸は手に取り、一つ一つ確認していった。


 次に、アク抜きが必要な野菜とその方法、及び緑黄色野菜の色止めの処置を、親方は言葉少なめに教えていく。教えなければならないことは限りなくあるようだ。野菜の数だけ蒸す、煮る、揚げる、焼く、炒める等の調理法があるわけだが、夫々の火の入れ具合だとか、また料理によっても異なる固さ加減だとか――。



 そして、あっという間に三週間が過ぎた。が、一度やったからといって全部が頭に入っているわけではないし、況してや今のところ単純作業でさえ、何一つ親方の満足のいく形に仕上げられないでいた。それでも善幸は、無心になって指示されたことを手順通りに毎日やり続けた。過ぎていく日々に、これまで仕事を辞める要因となっていた心の徒然からくる嫌厭はやって来なかった。


 開店は十一時半。昼の膳を出すには、朝七時から九時半までに下拵えを終わらせておかなければならない。板前としての仕事は、全て親方の両肩に圧し掛かっていた。

 客の入りが減ったとはいえ、土日は商店街の知人や近隣のマンションの家族連れなどが来てくれるので、それなりに忙しかった。昼の開店前までの段取りとして、朝一で未華子と酒井のおばちゃんが店先の掃除と備え物の準備を大急ぎで済ませると、手許として、親方にはおばちゃん、善幸には未華子が付くことになっている。

 善幸は、時間に追われるようになり、早くも見習いから脱却しなければならない立場に追いやられていった。


 板前たちは、自分たちが辞めた後、親方が困らないように鮮魚以外の下拵えをおばちゃんと未華子で出来るようにと考え、覚え込ませてから辞めていったようだ。そのお蔭で、善幸さえまごつかなければ、作業はスムーズに運んでいった。 


 だが、親方と突然飛び込んできた素人の善幸では、これまでのような多種の魚介の下処理はとてもできないと判断し、仕方なく、親方は、思い切って寿司ネタを二分の一に減らしたようだ。そんな中でも、季節の移ろいを感じさせる料理を味わってもらおうと苦慮していた。


 どうやら、親方はお品書きを変更するつもりでいるようだ。新たに考案した〝善〟とは――それは、四季折々の旬を活かすための魚介を定めると、刺し身をメインにし、選択として煮付け又は焼き物、更に、揚げ物又は蒸し物と、好みの選択幅を広げたものだった。味の多様さを組み入れたのだ。その絵面にも一工夫加えてあった。夫々に葉菜と根菜で彩りを添え、椀と酢の物で品数を整え、最終的に板前の手心をも感じ取ってもらえる膳に仕立て上げられていた。

 しかしながら、その膳を提供しはじめると、お品書きに記されている「煮付け又は焼き物と、揚げ物又は蒸し物」、この二つもある選択が定まらず、暫く迷っている客がチラホラと見受けられた。


 親方が考えたこの和食の膳は、所謂ラーメンライスや、そばかうどんにおにぎりといった同じ炭水化物の組み合わせ〝大阪の粉もん文化〟の魚版と思われてしまうかもしれない。しかし、同じ魚でも料理方法を変えれば、視覚も味覚も変えることができてしまうのだ。そこは板前の腕の見せ所でもある。よく和食のメニューにある「・・・づくし」、そのパクリだと言われればそうかもしれないが、そこは親方の引き出しの多さで勝負といったところだろうか。また、経営面においても、同じ魚種をこれまでより何倍も仕入れられることから、その単価が下がるため、安くお客さんに提供することもできるのだ。


 善幸は、新たに考えたこのメニュー【悠の膳】を二千四百円に設定したと聞かされて、素人感覚で〝ちょっと高いんじゃないかな〟と思ってしまった。


                               ―つづく―

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