3
人生の大きな流れには逆らわない。それがマナの信条だ。だがしかし、最近の自分の人生の流れは、果たして素直に身を任せてよいものなのか、真剣な疑念がぬぐえない。
目の前で甲斐甲斐しく床を磨く男の、美しく引き締まった背中を眺めながら、マナは軽く息をついた。
「床磨き、終わりました。水を、汲んできますね」
立ち上がった男は嬉々として、天秤棒を担ぎ早足で小屋を出て行く。
『ねえ、あの人間、いつまでここに来させるつもり』
男の消えた小屋の中に、いらだちを含んだ風の精霊の声が響いた。
『あたしたちに害がないのは分かったけど、……あいつ、おかしいよ』
そう、彼はおかしい。マナはぼんやりと彼の背中が消えた扉を眺めながらうなずく。
「俺を、弟子にしてください」
あの日。ミノムシ男の真剣そのものの声に、小屋には沈黙が落ちた。
「弟子、って。……私に魔力のかけらもないのは、あなたなら当然、分かるでしょう。『魔女』って言うのは、魔力なしの私に向けた、からかいの蔑称よ」
「いや。あなたには、得難い力がある。精霊と対等に意思疎通し使役する人間など、見たことがない。それに、あなたのその、医術への深い造詣、そして冷静沈着で適切かつ迅速な処置。このような技量を持った方を、私は他に知らない……」
それは、そうでしょうとも。マナは男の、良く動く薄く整った唇を見つめる。だてに6年も、現代医学の最先端を叩き込まれてはいない。
マナは、いわゆる異世界転移者だった。もといた世界の科学技術のレベルは、今いる世界よりも格段に高く、医学もその例外ではなかった。
その世界の、日本という小さな島国で、彼女は医師の資格を得て、研修医として働いていた。ちなみに、医学知識の充実度で言えば、国家試験を終えたばかりのこの時期が、実は一番レベルが高い。たいてい、医師歴が長くなるにつれ、自分の専門外の分野の知識は、アップデートもされず忘れていくからだ。
研修先に選んだ病院は、救急診療に積極的な大病院だった。そこでマナは様々な経験を積み、そして羽ばたく、はずだった。
その、続いていくはずの道は、ある日突然に断たれた。休憩中に強い揺れを感じ、同時に聞こえた「助けて」と言う声に、待機所から救急セットを抱え飛び出したマナは、突然目の前にぽっかりと開いた真っ黒い穴に、足の先から吸い込まれた。そして気がついたときには、この世界にいたのだ。
(そう、あの、声)
今日、自分を、この男のもとへ向かわせた、声。おそらくあれは、あの時に聞いたのと、同じ声だった。
物思いに沈もうとした彼女の意識を、目の前のミノムシ男の声が引き戻す。
「毒の残った身であったとはいえ、おのれの意識をまともに保てず、貴方に不埒を働いたことは事実。どのような罰でもお受けいたします。ただ、もし、おそばに侍ることをお許しいただけるならば、私の命に誓い、あなた様をこの世界の人間よりお守りし、お役に立つことをお約束いたします。私を、弟子として、おそばに置いてください」
魔術師の言葉には、呪縛の力がある。彼らが自分の口から出した『誓い』は彼らを不可抗力に縛る。そのくらいは、マナでも知っていた。
魔力が
しかし。
「私の知識は、この世界では通用することも、しないこともある。人に教えられる代物ではないわ。それに、精霊と仲良くなる方法は、あなたには絶対、真似できないものだと思う。ここにいても、あなたにメリットは、ないと思うわ。……私も、困る」
「……そうですか」
率直に告げると、男はしゅんと項垂れた。
数刻後、完全に回復した男は、繰り返し礼を述べて小屋を後にした。肩を落として歩み去っていく後姿を小屋の窓から見送りながら、マナは何度目かのため息をついた。
それが、二月ほど前のことだ。
それからあの男――ソーマ、と名乗った――は、三日おきに小屋に現れた。彼は毎回毎回ご丁寧に、小屋に入る直前に、自分の魔力を封印する。そして、魔力なしのマナと全く同じ条件で、手足を使って家事を手伝ってくれたりしながら、午後のひとときを過ごす。
初めの訪問日、ソーマは、マッチと燻製肉、スパイスセットを携えてやって来た。ふいに開いた扉にあっけにとられ、次に目を吊り上げて男を追い返そうとしたマナは、久しぶりに嗅いだ肉の良いにおいに、思わずゴクリと、喉を鳴らしてしまった。
この世界に飛ばされ、街から追放されてから半年間、マナは、人里離れた森で暮らし、地の精霊に生成してもらうビタミンミネラルと、野草や森の恵みの木の実、風の精霊がどこからか攫ってきてくれた野生のヤギの乳で、何とか食いつないでいた。本当に久しぶりに見る、肉だったのだ。
「かまど、あまり、お使いになっていないようだったので。差し出がましいですが、食事を、作らせてください」
マナは食の誘惑に負けた。
それから3日ごとに、ソーマは少しずつ、色々な物を持ってきてくれた。今では小屋の台所の調理道具のラインナップは、いっぱしのものだ。
それにしても、いつの間にこんなことになっているんだろう。鼻歌交じりに鍋をかき混ぜているすらりとした後姿を、見るともなく眺めながらマナは思う。
魔力のフィルターの外れたソーマは、少しぼんやりとした恥ずかしがりの、料理とカードゲームの好きな、美しく、穏やかな青年だった。
もう体裁を繕うこともなく、ただ会いたいからマナのところに通っている、と公言してくる。そのくせ、あの日以来、彼女に指一本触れることはなく、迫るそぶりは皆無だった。
「……味見、してくださいますか」
振り向いた彼の、灰青色の瞳が微笑む。
差し出されたスプーンに、マナはふうふうと息を吹きかける。それからスープを吸い込むと、スパイスと野菜のうまみの混じった、優しい味わいが舌に広がった。
「……うん、おいしい」
軽く首をかしげていたソーマの口元が嬉しそうに微笑む。
マナは思わず手を伸ばし、人差し指で軽く、その唇に触れた。
「……!」
ソーマの目が見開き、それからゆっくりと、その目はマナの方へと近づいてくる。そして二人は、ごく自然に唇を合わせた。
ちゅ、と音を立てて唇が離れると、二人はお互いに、相手の瞳の奥に、揺らめく炎を見出す。
かちゃん、とソーマの手元からスプーンが滑り落ち、彼の両手は恐る恐る、それからしっかりと、マナの肩と腰を抱き込んだ。
飢えていたのは何も、食べ物だけではなかった。男の唇が身体のあちこちに触れるたびに背を反らせ、抑えきれない甘い声を漏らしながら、マナは実感する。
男は時々微かに呻き声を漏らしながら、確かめるように、マナの身体の隅々までに唇を当て、舌を這わせる。
「一つになりたい。……あなたに入って、いいですか」
急に許可を求められ、切れ目のない快感にただあえいでいたマナは、知らず笑い声を漏らした。
とっても、彼らしい。
「聞かないで。好きにして、良いのよ……」
マナの甘い声に、男は切なそうに眉をひそめてから、ゆっくりと身体を沈めた。マナののけぞった喉元に、男の唇が吸い付く。
「ふ……」
腰の奥からズシンと響くような快感の波が、繰り返し繰り返し背筋を抜ける。声が、止まらない。
以前の世界でも経験がないわけではなかったが、これほど穏やかで優しく、それでいて狂おしいほどの交わりは、初めてだった。
なかなか、熱が引かない。
仰向けになり深い呼吸を繰り返すマナに身体を向け、脚を絡めながら、ソーマは柔らかく微笑む。
「辛いところは、なかったですか」
「うん。……すごく、気持ちよかった」
マナの素直な言葉に、ソーマの赤らんだ頬はさらに上気する。
あんなことまでしたのに、今更照れるなんて、なんてかわいい人なんだろう。
マナは思わず、彼の頭を引き寄せ口づける。
「あ……」
ソーマは困ったように、さらに赤くなった。
「マナ、ごめんなさい、……もう一回……」
おそるおそる、と言った彼の言葉に、マナはこらえきれず噴き出しながら応える。
「いいわよ、もちろん。……好きなだけ」
がばり、と、男の身体がマナに覆いかぶさる。彼女を貪る唇は、とてつもなく甘い。
その日初めて、ソーマはマナの小屋で一夜を明かした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます