Track-1.part B 闇夜に音で遊ぶ

人間は欲深い生き物だ。

ただ一つの出来事ですら、一瞬で欲を増大させる。それがたとえ小さな事ですら……だ。


音愛はベッドに横たわり、ボーっと先日の夜の事を思い出していた。


最後の曲を弾き終え、私は初めての経験と積年の思いが成就した事から今までに感じることのなかった達成感を感じていた。


他者から見ると大した事はないのかも知れない。ただ、私にとっては大きな出来事だった。


それに……。

私はキーボードから目を離し、正面に目を向ける。そこには先程から私の歌を聞いてくれていた男性が立っている。


さっきまで、どこか驚きのような表情を見せていた彼だったが、今はどうだろう?


この曲を知っているのか?なぜそんな顔をしていたのか、歌は……どうだったか?


色々聞いてみたい事があった。

目を凝らし、彼の顔を見てみる……と、あることに気がつく。


彼の瞳から一雫の線が流れていた。

それは見間違いなのか、雨のせいなのか?

いや、ただ単に飽きて欠伸をしただけなのか?


ただ彼の瞳から何かが流れたと言う事だけは、この暗がりの中でも、はっきりと分かった。


「あの……」

思い切って声を掛けて見る。


すると彼は何かに気がついた様に私を見る。

その様子に、話が聞ける……と、淡い期待を抱いた私だった。が、彼は私の声を聞くとすぐに立ち去ってしまった。


その姿に、「あっ……」と声を出すしか出来ず立ち尽くすしかなかった。


「……なんだったんだろう」

彼の涙の意味をあれからずっと考えてしまう。

それと同時に私の歌に何かを感じてくれた事が嬉しくて仕方がなかった。


どちらも勘違いかも知れない……、それなのにもう一度あの歩道橋の下に行きたくなってしまう。


あそこに行けば、もしかしたら彼がもう一度私の歌を聞いてくれるかも知れない。考えれば考えるほどもう一度……と言う欲は増していく。


「もう一回だけなら……」

口にすると、身体は動き出していた。


さっきまで部屋着だったのに、お気に入りの服に着替えて化粧を始める。まるで初めてのデートに行くかの如くの高揚に自分でも笑いそうになる。


ぴろぴろ〜♪

不意に鳴りだしたスマホに驚き、肩を揺らす。

スマホ不精の私のスマホが鳴ると言う事は相手は家族か優華くらいしかいない。


嫌な予感が全身を駆け巡る。

恐る恐るスマホの画面を見る。


お姉ちゃん……。

画面に映る文字を見て肩を落とす。


別に姉妹仲が悪い訳ではない。

だけど、今は少し苦手だ。


昔からお姉ちゃんはお節介なのだ。


「……もしもし?」


『あ、もし?音愛?」


「何、お姉ちゃん」

さっきまでの高揚感が嘘の様にだだ下がる。


「明日、9時だからね。もう社会人なんだから遅れちゃダメよ!!」


「もう……分かってるって。私も子供じゃないんだから」


「……そうだけど、心配だなぁ。あなた、よく寝坊するから」


「会社には遅刻しない様にするから、大丈夫だよ」


「分かった。迷わない様にね」


「うん……」

相変わらずの態度にうんざりしながら、私はスマホをスピーカーモードに切り替えて、さっき着替えたばかりの服を脱ぐ。


明日からお姉ちゃんの務める会社に勤務するのだ。それを思い出すと行く気が失せてしまったのだ。


「あ、そうそう。音愛の教育担当、私じゃないからね?」


「えっ、そうなの?てっきりお姉ちゃんが教えてくれると思ってた……」

私はその言葉を聞いて憂鬱になる。

基本的に私は人見知りなのだ。


「私もほら、別の仕事があるし、あなたに教えるとなると身内の甘さが出そうじゃない?」


「うぇ……」

私はそれを聞いて額に冷や汗を浮かべる。

中学時代のことを思い出したのだ。


高校受験の時にお姉ちゃんに家庭教師を頼んだは良いものの、真面目な性格な彼女の教え方はなかなかに厳しかったのだ。


「あと、教育担当は男の人だけど、大丈夫?」


「ひゅっ……」

高校、大学と女子高だった私に初めての仕事の上司が男性というのはなかなかハードルが高かい。


人見知り+引きこもり+男性不信の喪女のトリプル役満を極めた私には、新社会人生活は前途多難が確定した訳だ。


新社会人はもっとキラキラとしたものだと思っていたけど、どうやら私には適応外の様だ。


憂鬱が悲壮感に変わる。


「大丈夫だって。私がお願いした人だし、あなたも……」

お姉ちゃんはそう何かを言いかけて、言葉を飲む。その続きを私は気になり、「なに?」と聞き返す。


「え、あ……ううん。なんでもない」


「……?」


「……それより、たまには顔出しなさいよ。父さんたち、ぼやいてたよ?音愛は大丈夫なのか?って……」


「仕事が落ち着いたら帰るってお母さんに言っといて……」

お姉ちゃんが話をはぐらかすかの様に話題を変え、私も同じように話を濁す。


「……そう。じゃあ、明日遅刻しない様にね」


「うん……」

そう言うと、お姉ちゃんは早々に電話を切ってしまう。


着替えを終えた私も、灯の消えたスマホをしばらく見つめ、力無くベッドに身体を投げ出す。


興醒めした……。

ようやく一歩、理想へ歩みを進めたばかりなのに、この電話で一気に現実へと引き戻された気分だ。


『……歌手になんてなれる訳ないじゃない。現実を見なさい』

あの日、目に一杯涙を溜めたお姉ちゃんの姿が脳裏を過ぎる。


あの人の言っていることは理解している……いや、あの人の生きてきた時間を考えるとその発言を否定はできるものではない。


だけど、私には私の人生(生き方)がある。

それを私は理解して欲しかった……。


だから……。

あの日の喧嘩を思い出し、憂鬱な気分を感じながら私の意識はいつのまにか失ってしまった。


気がつくと、朝日が顔を出している。

それを見ながら私はゆっくり伸びをし、欠伸をする。


「……今何時?」

寝ぼけた頭でごそごそといつもスマホを充電しているケーブルのあたりに手を伸ばす。だが、ケーブルにスマホはついていないし、自分の周りを見渡してもスマホが見つからない。


仕方なく、壁に掛けてある時計に目を向ける。

朝7時……。


「あーっ!!」


その時間を見て、私は絶叫する。

それもそのはず……、今日から会社なのだ。


別に慌てる時間でもない。

だけど、それは普段なら……、と言うことだ。


だけど、今日は初出勤の日なのだ。


本来の予定なら、昨日のうちにお風呂に入って、早めに寝る。それからこの時間に起きて、メイクや身支度をして早めに家を出て、先日路上ライブをした所の近くで軽くモーニングを食べて出勤……。


お姉ちゃんみたいな理想的なOLムーブをかまし、出来る新入社員を……なんて考えた時期もありましたよ、はい。


だけど蓋を開けてみればどうだ、その逆のムーブをかましているのだ。


早く寝た事を差し引いたとしても、軽くとはいえメイクをしたまま、お風呂にすら入っていない状態。


今からお風呂に入って、この長い髪を乾かして、メイクを軽くしてetc……。


逆算してもギリギリなのだ。


その上、テーブルには充電せずに真っ暗な画面のままのスマホが置かれ、唯一表示されるのは充電してくださいを現す表示のみ。


充電は支度をしている間にしていればなんとかなるが、自身の充電……、朝食なんて悠長に食べてる暇すらない。


「やっちゃった……」

絶望にも似た感情と、遅刻をしたらお姉ちゃんに何を言われるかを想像するだけで恐怖で身震いする。


「と、とりあえずお風呂に入って!!」

そう言いながら、脱兎の如くシャワーを浴び、髪を乾かして化粧をする。


こう言う時、男だったら……、いや、お姉ちゃんならこう言う失敗もないんだろうな、なんて事を考えてしまう。


だけど、今は落ち込んでいる暇はないのだ。

急いで支度を済ませ、会社に行かなければ。


そう思いながら支度を済ますと、急いで部屋を駆け出して行く。


私の輝かしい社会人生活が今、前途多難な様相を見せ、始まった。


こんな日なのに、お日様は煌々と大地を照らしている。


追伸……。

部屋の鍵をかけ忘れたのは言うまでもない。

とほほ……。


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