第29話 アーサーがすごくおかしい
猫になって欲しいと乞われたあの日から、私は一体どこへ向かっているのだろう、そしてアーサーは何を望んでいるのだろうと幾度となく考えた。どうすればいいか悩んだ事もあるし、答えは出ないままに毎日は続いた。だが、今回程それを強く感じた事は無い。
真剣な顔で奇妙な事を言ってくるアーサーに、私は困惑する。
「……で、殿下は……猫として扱われたかったのですか?それなら、頼めばやってくれる人は沢山いると思いますが……。例えばハイネさんに言ってみたらどうでしょうか。最初は困惑すると思いますが、殿下の依頼ならば立派にやり遂げてくれると……」
アーサーは、王家の人間として過ごす毎日に疲弊してしまったのかもしれない。猫になりたいというのは、責務から全て解放されたいという事を表しているのかも。
そう考えると、アーサーの望みも尊重した方がいいのではないかと思えてきた。
だが、アーサーは首を振って呟く。
「いや違う。これはミーシャ相手でないと意味がないんだ」
「……どういう事ですか」
「猫が飼い主をどのように見ているか――という話を知っているか。一説によれば、猫は人間を図体の大きい猫として捉えているんだ。しかも、自分で狩りや身繕いが出来ない未熟な猫だと思っていると。ミーシャは俺に飼われているから、つまりは俺をそういう目で見ているとも考えられる」
「は、はあ」
「という訳で。ミーシャ。……俺の事を猫だと思って接してくれないか」
アーサーはそう言うと、上着を脱いで椅子に掛け、ごろりとソファに転がった。そして私の方をじっと見ている。
……どうしろというのだ。
思わぬ要求に焦りつつも、頭の中で考える。
――アーサーの望みは叶えてあげたいと思った。
例え突拍子の無いものであっても、それで苦しみが癒えるのならば、この場だけでも彼の言う通りにしてあげたい。
私が猫だったら……。
そして、アーサーが猫だったら。
アーサーは、金色の艷やかな毛並みをしている猫だ。だが、いつも縄張りの見張りで気を張って忙しそうにしていて、おやつを食べるのも後回しにしてしまう。自分自身を労る事には慣れていない。
そんな猫が目の前にいるとしたら……。
私は傍らからブランケットを取り出して、アーサーにファサリとかけた。そしてもにもにとアーサーの身体をマッサージしていく。
…………。
乞われたから猫として扱おうとしているものの、正直なところ私の頭を誤魔化すのは難しかった。
アーサーは、どちらかといえば犬のような気質をしていると思うし……。
クロードはもふもふの身体に変身して私に癒やしをくれたから、美丈夫の姿になっても猫として扱う事が出来たけど、それと同じようにアーサーを猫として見るのは難しい。
不敬ながら、アーサーにはもふもふが足りない……。
むしろ、普段の鍛錬と災厄討伐からか、引き締まった身体をしている。ブランケット越しでもその感触が伝わってくるのだ。
アーサーは、猫じゃない……。
でも、猫だと思い込むしか無い。
それが彼の望みでもあるし……。
何より、アーサーに間近で触れていると考えてしまうと、私の身が保たない。
暫くして彼に声を掛けた。
「殿下。どうですか……?」
「その言い方は無いだろう」
「えっ?」
「ミーシャ。俺達が猫同士なら、王子だ何だとは考えないよ。だから――名前で呼ぶんだ」
「じゃあ……。え、えっと。あ、……アーサー……」
「うん」
「……アーサー。気持ちいい……かな?」
「……うん。ミーシャ。君にもしてあげたい」
「うわわ」
目を閉じて喉を上下させていたアーサーが、不意にくるりと体勢を変え、私を腕の中に収めた。そしてブランケット越しに私の身体や髪を撫でる。
猫同士だと考えると、私達がやっているこれはグルーミングだ。親愛の証でやる行動だ。
しかし、今の私はそういう気持ちになる事は難しい。胸の高まりを誤魔化す為に必死で目を閉じて、平常心を保つように心の中で念仏を唱えた。
そんな事をしているうちに、ブランケットの暖かさとアーサーの身体の重みで段々と眠くなってくる。
「ミーシャ。俺は……」
動きを鈍くする私のもとに、アーサーから声が降ってくる。
「役目を果たすために、好きなものをなるべく作らないようにしていた――そう前に言ったな。人間相手でもそれは同じだ。他の者と深く関わりたいとは考えなくなった。だから、人の心を真に動かすにはどうすればいいのか、よくわかっていないんだ。でも、的外れであっても……伝えておきたい。ミーシャ……行かないでくれ」
「…………」
「君がああ言ってくれたから……俺は、周りときちんと話し合おうと思えるようになったのに。俺を置いていくなんて、つれないんじゃないか。家の者より、貴族達より、君の方が残酷だ。好いたものをまた失う事になるなんて、耐えられない……」
「……、……」
私はブランケットごとアーサーを抱きしめた。アーサーはもぞもぞと身体を動かして、私にもブランケットをかけようとする。温めようとしているのだろう。
こんな風に抱き合うなんて――まるで、愛し合う者のようだ。
好いたもの――とアーサーは言った。
私はそれで確信する。
アーサーは今、猫への愛情と人間への愛情の区別が付いていない状態にあるのだろう。
彼は特殊な環境にいたから、自分自身の気持ちに疎い所があるんだ。
――私の脳裏に過るのは、前世と今世の家族の事だ。
どちらの家族もお金には恵まれなくて、だからこそ娘がどう生きていくのかが気がかりだったのか、パートナーについてよくこんな話をされていた。
――愛に気を付けなさい。
――それはあっという間に燃え上がって、強烈な幻をもたらすものだ。
――だが、それは長くは続かない。一時の好きという感情だけでは無事な生活は保証されない。愛情だけに身を任せるのはやめなさい。つまらない話だと思っても、心に留めておいてくれ。
それを聞いた時には、聞くまでも無い話だ――と思ったものだ。
誰々が駆け落ちしたという話や、誰かが誰かに泣かされたという話を聞く度に、そこまで他人に対して情熱を持てるなんて凄いものだとぼんやり考えたのを覚えている。私にとっては日々を生きる事の方が大事な事で、愛だの恋だのは二の次で、恋人を作ろうという意識すら無かった。
……何故だろう。
家族の言葉を今思い返すと、胸が痛む。
聞きたくない話を聞いているような心地になる。
家族を失ってしまって、彼らが故人になったからか。
――違う。それが直接の原因ではない。
私自身が物事の当事者になったからだ。
ああ……、そうだ。
私は、アーサーの事を好きになってしまったんだ。
最初は恩人に対する憧れで、その次は仕事を請けたが故の義務感だったけど。
いつの間にか、人としてアーサーの事を好きになってしまっていた。
だからこそ――こうしていては駄目だ。
私と一緒にいても、アーサーの為にならないのだから。
アーサーを突き放さないと。
ここを出て、自分の部屋に行かないと。
――そう考えてはみるものの。
私を抱きとめるアーサーの腕はとても暖かくて、離してくれる様子も無くて――。
声を出す事も出来ず、私の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
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