第45話 信じてみたい

 ヒストリカの朝は早い。

 が、この日は少し遅めの起床だった。


「……ん」


 小鳥の唄声で目を開ける。

 部屋の中はすっかり明るくなっていて、朝の到来を嫌でも知らせてくれていた。


 ふと、両手で何かを抱き抱えている感覚。

 見てみると、ひと抱えくらいある白い猫のぬいぐるみ、『くも』を抱きしめている事に気づいた。


 ゆっくりと上半身を起こして、くもを見る。


 窓から差し込む朝陽に照らされたくもは、相変わらず可愛らしい顔立ちをしている。

 くりくりっと丸い目、今にもぴくぴくと動き出しそうな小さな耳、触り心地はもふもふと良い手触りで、ずっと撫でくりまわして痛くなる不思議な魅惑を秘めていた。


 思わず、ヒストリカの口元が緩む。

 愛らしいシルエットにもそうだが、何よりこれを誕生日プレゼントとしてエリクがプレゼントしてくれた事に、ヒストリカは胸がぽかぽかするような嬉しさを感じていた。


 ぎゅー……と、くもを胸に抱き締めてみる。

 思わず目が細くなって、ほっとするような安心がやってきた。


 抱擁には心をリラックスさせる効果があると資料で読んだが、どうやら対象は人間に限らないらしい。


 しばらく、くもを我が子のように抱き締めて、撫でたりしていると。


「気に入ってくれてたようで、何よりだよ」


 優しげな声が鼓膜を震わし、はっとする。

 いつの間にか目を覚ましていたエリクが、とろんとした表情でこちらを見ている。


「おはよう、ヒストリカ」

「……おはようございます、エリク様。ちなみに、今起きられましたか?」

「起きたのは、ヒストリカが目を覚ます少し前かな」


 つまり、今までの一連の自分の振る舞いを全部見られていた。

 その事実に、ヒストリカの思考がこちんっと固まった。


 次いで沸き起こる羞恥。

 表情には出ないが、ほんのりと頬が熱い気がする。


 ちょっぴり八つ当たりしたい気持ちが湧き出て、ヒストリカは抗議の声を口にする。


「起こしてくれたら、良かったですのに……」

「ごめん、ごめん。いつも僕より先に目覚めるヒストリカが起きていないなんて、相当疲れが溜まってるんだなって思ったから。昨日は色々あったし、起きるまでそっとしておこうって思って」


 そう、確かに色々あった。

 いつにも増してエリクが挙動不審だったから、何か悪い隠し事でもされているのかと一日中ヤキモキした。

 かと思えば、実はサプライズで誕生日を盛大に祝ってくれて、二つもプレゼントを贈ってくれた。

 

 嬉しかった。

 

 自分の誕生日を心から祝福してくれた事も。

 日頃の感謝の気持ちも含め、自分の事をたくさん考えた上で選んだプレゼントを渡してくれた事も。


 とても、嬉しかった。 

 

 結果、ずっと『無』のまま固まっていた表情が、笑顔という久しく忘れていた姿を現した。


 一方で、いつもは氷の蓋で覆って出ないようにしていた感情が漏れてしまって、制御出来なくて大変だった。

 普段使わない頭をたくさん使ったようで、エリクの言う通り疲れが溜まっていたのだろう

ずっと動かなかった表情筋を使ったから、心なしか口角のあたりも張っているような気がする。


(ですが……)


 色々差し引いても、昨日はとても嬉しかったし、楽しかった。

 きっと、一生忘れない日になっただろう。


 それだけは、揺るぎない事実であった。


 自然と、口元に笑みが浮かぶ。

 そんなヒストリカを、エリクはどこか呆けたように眺めていた。


「……何か、私の顔についていますか?」

「いや、やっぱりヒストリカは……笑顔が似合っているなって」

「……っ」


 感情が、揺れる。

 きゅうって、音がする。


 昨日も感じたから、わかる。

 この感覚は、『嬉しい』だ。


(どうして、こんな些細な言葉で……)


 考えるも、答えを出すために必要な頭の余裕は感情の乱れで無くなってしまっている。

 悟られないように、深く息を吸って落ち着かせる。


 先ほどから些々たる事で乱されているのがなんだか納得がいかなくて、仕返しとばかりにエリクの顔をじっと見つめる。


(……随分と、変わりましたね)


 当初ヒストリカが想像していた通り、エリクはなかなかの変貌を遂げていた。

 顔色はぐっと良くなって、青白く不健康だった肌は血色と艶を取り戻している。


 コケていた頬も肉が付いてきていて、もともと整っていた目鼻立ちがよりくっきり見えるようになった。


 まだ不健康さは残っているが、もっと栄養をたっぷり摂って貰って、目元のクマが無くなるまでしっかりと身体から毒素を抜き切れば、かなりの美丈夫になるだろう。


 その確信があった。


(どうして、また顔が熱くなるの……)


 仕返しのつもりだったのに逆に乱されている事に気づいて、ヒストリカはバッと背を向けて毛布を被った。


「ヒストリカ?」


 不貞腐れた子供のような仕草に、エリクが不思議そうな顔に尋ねる。


「なんでも、ありませんっ……」


 ほのかに声を荒げて、そう答えるのがやっとだった。


 昨日に引き続き感情のコントロールがまだうまくいってなくて、今自分が何をどう感じているのかわからなくなって。

 でも、確かな思いがふたつ存在している事に気づいた。


 ひとつは、昨日エリクが自分のために誕生日会を開き、プレゼントをくれた。

 その事に嬉しさと感謝の気持ちを抱いている事。


「……昨日は、ありがとうございました。とても嬉しかったですし……楽しかったです」


 思った事をそのまま言葉にする。


「どういたしまして。楽しいと思ってくれたのなら、何よりだよ」


 その優しい声に、鼓膜と胸の辺りが震える。


 そう、もうひとつは……エリクという男に、特別な感情を抱いている事だ。


 最初はお互いの利害が一致した故の愛の乏しい結婚だと思っていた。


 しかし、エリクと一緒に過ごして、彼の誠実さを、真面目さを、優しさを、思い遣りを知って。

 エリクと共有する時間がとても穏やかで、居心地の良いものだと自覚した。


 共に過ごす時間が増えるごとに、自分が少しずつエリクに惹かれていっているのだ。


(でも、まだ……)


 ハリーとの一件もあって、完全に信頼しきっている訳ではない。

 エリクの見えていない一面も沢山あるだろう。


 だけど。


「えっと……ヒストリカ?」


 振り向き、毛布から顔を出して、じっとエリクを見つめる


(信じてみたい……エリク様を……)


 心からそう思っている事もまた、確かであった。


「さっきからどうしたの? なんか様子が変というか……」

「いえ……」


 口角に力を入れる。


「なんでもございませんよ」


 自分の意思で、ふんわりを笑顔を浮かべてみせた。

 柔らかくて慈愛に満ちた笑顔に、エリクがはっと息を呑む。

 

 ようやくエリクの感情も乱せた事に、ヒストリカは少しだけ得意な気持ちになった。


「さて、と……」


 ただでさえ少し寝坊をしてしまったのだ。

 いい加減、活動を開始しなければならない。


 ぐーっと、両腕を天井に伸ばす。

 全身に血が巡っていく感覚。


 いつもより身体も心も清々しい気持ちを感じつつ、ヒストリカはベッドを降りて言った。


「今日もよろしくお願いしますね、エリク様」


 まずはいつもの白湯からだと、ヒストリカは今日これからする事を頭の中に思い描くのであった。

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