第36話 乱れる理性

(寝ちゃったか……)


 腕の中ですぅすぅと寝息を立てるヒストリカを見て、エリクは腕の力を緩める。


 ヒストリカの方が疲れていたのか、先に寝落ちしてしまったようだ。


 新しい環境に来てから二日目という事に加えて、毎食の準備を始めとしたエリクに対する数々のサポートなど、相当動き回ってたのだろうから無理もない。


 感謝の気持ちが湧いて、エリクはお礼をするようにヒストリカの頭をもう一度優しく撫でた。


(なんだか、不思議な感覚だな……)


 日中は毅然としているヒストリカが今、自分の腕の中で無防備な寝顔を晒している。

 先ほど自分から抱擁をしたいと言われた時は、まるで母の愛情を求める子猫のように甘えられている気がして、庇護欲を掻き立てられた。


 ヒストリカを抱き締めた後も、その気持ちは大きくなった。

 そしてつい、頭を撫でてしまうという自分らしくない行動を取ってしまったわけだが、受け入れてくれたようで一安心だ。


(気は許してくれているようで、良かった……)


 何はともあれその結論に行き着いて、ほっと息をつくエリクであった。


 とはいえ──。


(目が、覚めてしまった……)


 先ほどから心臓が大きく高鳴っていて、体温も急激に上昇してしまっている。


 エリクも、異性と触れ合った経験は皆無に等しい。

 十代前半には婚約者がいたものの、お互いが奥手だった事もありなかなか仲が深まらず、最終的には擦れ違いに近い形で別れている。


 その後から体調を崩し始め、ボロボロになった容姿が原因で令嬢から逃げられるようになり、結局ほとんど経験のないままこの歳になってしまった。


 そのため、吐息が聞こえるような距離で異性が寝ているという今の状況に並々ならぬ緊張を覚えていた。


 それもエリクから見て、ヒストリカの容貌はとても魅力的に映っている。

 一般的に見ても相当な美人の部類に入るのではないだろうか。


 顔立ちは一流の彫刻細工のように整っていて、鼻立ちはスッと高く、肌は雪のように白い。

 身体つきも程よく引き締まっており、出るところはちゃんと出ている。


 自分なんかが隣に並ぶのは申し訳なくなるぐらい、ヒストリカは魅力的な女性だった。


 身体の前部分にあたる柔らかい感触が、思った以上に高い体温が、頭がくらくらしそうになるほどの甘い香りが、エリクの精神をぐわんぐわんと揺らす。


 エリクとて一人の男である以上、色々な所が反応してしまうのは無理もない話であった。


(いけない、このままではいけない……)


 妻とはいえ、意識のない相手に欲情するのはなんとなく嫌だと思った。


(いったん、落ち着かせよう……)


 そう決めた後、エリクはゆっくりとヒストリカから身体を離し、ベッドから降りた。

 そのまま静かに部屋を抜け出し、厠へ向かう。


 閉鎖的な空間で用を足す事なく、しばらく煩悩を払う事に意識を集中させた。

 じきに心臓の速さが元に戻ってきて、体温も正常になってくる。


 自分がすっかり落ち着いたことを確認し、廊下に出ると。


「あっ、エリク様」

「!?」


 突然かけられた声に、悪いことをしていた訳でもないのに飛び上がってしまった。

 

「あ、申し訳ございません。驚かせてしまいましたか」

「君は……」


 再びバクバクと跳ねる心臓を宥めながら、その人物に目を向ける。


「こんばんは、ソフィです」

 

 ぺこりと使用人が頭を下げた。

 そういえば昨日、挨拶に来たヒストリカのお付きの子だと記憶が蘇る。


「もうお休みになられたのかと思ってました」

「うん。ヒストリカは、部屋で寝ているよ」

「なるほど。エリク様はお手洗いに?」

「そう、だよ……」


 別に用を足したわけではなく、ヒストリカに魅了されて乱れた心を落ち着かせにきたという実情を押し隠してエリクは言う。

 しかし、どこかの主とは違って高い空気察知能力を持つソフィは、エリクが纏う微妙な空気を敏感に感じ取ったようで。


「あっ、ああ……あああ〜!! そういうことですね……!!」


 にまにまと、微笑ましい表情を浮かべてソフィは言った。


「大丈夫ですか? 替えの下着を持ってきましょうか?」

「何か勘違いをしていないかい?」

「私は気にしませんよ! 夫婦なんですから、なんの問題もございません」

「やっぱり勘違いをしているね! 君が思っているような事は一切ないから、本当に!」


 必死に弁明するようにエリクに、ソフィは「その様子だと、何か起こったわけではないみたいですね」と、どこか期待を外したみたいに言った。


「今日こそは初夜に違いありませんと、そわそわしていた私が馬鹿みたいに思えてきました」

「なんて事を考えてるんだ……今日はヒストリカの方が先に寝ちゃったし、それに……」


 目線をソフィから逸らし、吃りながらエリクは言う。


「そういうのは、お互いの気持ちが通じ合っている事が、大事だと思うから……」

「はあ……なるほど……」


 気のせいだろうか。

 なんだこのヘタレは、みたいな目を向けられている気がするのは。


「エリク様もこの調子だと、初夜までの道のりは長そうですね……」

「なんだって?」

「なんでもございません。早とちりしてしまい、申し訳ございませんでした」

「いや……こちらこそ、惑わせてしまってすまない」

「いえいえ、ヒストリカ様もああ見えてとても奥手ですからね。進展は亀の如しと言ったところでしょう」

「さっきから君は、何を言ってるんだい?」

「こちらの話でございますよ。それでは、お足元にお気をつけて、おやすみなさいませ」

「あ、ああ、お休み……」


 ソフィに見送られて、エリクは歩き出す。

 ヒストリカとは方向性が真反対の使用人だなと思いながら部屋に戻った。


「ん……」


 再びベッドに舞い戻るなり、ヒストリカがエリクに身を寄せてきた。


(起こしてしまったか……)


 どこ行ってたのと言わんばかりに、腕を絡めてくる。


 心配になったが、すぐに規則正しい寝息に戻った。

 ほっと、エリクは胸を撫で下ろす。


 再び密着する形になってしまったが、厠での心頭滅却が効いたのか今度は下半身の欲が昂る様子もない。


 ほどなくして、眠気が帰ってきた。

 最後にエリクは、ヒストリカの額にそっと自分の口を触れさせて。


「おやすみヒストリカ」


 静かに囁いた後、ゆっくりと眠りの世界に落ちていった。

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