第19話 朝のお散歩

「まさかこの歳になって朝に散歩するなんて、思いもしなかったよ」


 気持ちの良い朝の太陽の下で、エリクがぼやく。


 テルセロナ公爵家は最上位貴族という事もあり、その屋敷の敷地も広大である。

 朝に散歩をするには広すぎる庭を、ヒストリカはエリクと並んで歩いていた。


「朝陽を浴びながら散歩するのは、体内時計を正常に戻して睡眠のリズムを整える効果があるんですよ」

「タイナイドケイ? 体の中に時計があるのか?」

「時計というのは例えですね。通常、人は朝になったら目覚め、夜になったら眠くなります。それは、体内時計がうまく機能している証拠なのです」

「なるほど……なんとなく理解した」

「エリク様はおそらく体内時計も壊れているので、朝陽を浴びる事で正常に戻さないといけません」

「た、確かに、夜になっても全く眠くならない日が続いていたからね……」


 遠い目でエリクは言った。

 ちなみに今のエリクは素顔をそのまま見せている。


 部屋を出る際に仮面を被ろうとしていたが、「私の前で被る必要ないでしょう、それに視界も悪いですし、何かに躓いたらどうするんですか」というヒストリカの言葉を受け入れた形である。


 しかし昨日と違って、ボーボーだった髭は綺麗さっぱり消え去っていた。

 散歩に出る前、顔を洗うついでに全て剃った次第であった。


 相変わらずげっそりした面持ちだが、髭がなくなったぶん何歳か若返ったように見える。


「散歩の効果は他にもありますよ。歩く事によって下半身の血の巡りが良くなり、頭も活性化します。心なしか、いつもより頭がスッキリしている感じがしませんか?」

「確かに言われてみると、目が冴え渡っている気がする……」


 そう言ってエリクは、腕をググッと伸ばして大きく深呼吸した。


「うん……気持ちいね」

「そうでしょう?」


 表情に笑みを灯すエリクに、ヒストリカは心なしか弾んだ声で返した。


 しばらくぶらぶらと庭を散歩していると、前方の草陰からガサガサッと物音が聞こえてきた。


(野生動物かしら?)


 そう思うと、エリクがすっとヒストリカの前に守るように立った。


「え……」


 エリクがしそうな行動のパターンとして想定していなかったため、ヒストリカは抜けた声を漏らす。

 次の瞬間、草陰から一際大きな音と共に一匹の動物が出てきた。


「なんだ、君か」


 エリクがホッとしたような気。

 

 にゃあんと、なんとも耳が蕩けそうな鳴き声を聞いて、ヒストリカはエリクの身体の横からひょこっと様子を伺った。


「ねこ……」


 ヒストリカが呟く。


 白くて毛並みの良い、一匹の猫が二人の前でぺろぺろと毛繕いしていた。


「お知り合いですか?」

「うん。どれくらい前かな。確か、一年くらい前からこの屋敷に住み着いてる猫だよ」

「なるほど」


 公爵家の屋敷となると、普通は王都にほど近い所に建てられる。

 しかしテルセロナ家の屋敷はまるで隔離されているかのように、王都から離れた山に近い場所に位置している。


 その山から迷い込んだ猫が、そのまま住み着いたのだろうか。

 見たところどこかの誰かみたいに痩せこけてはなく、むしろふくよかな身体をしているので、使用人か誰かが餌でもあげているのかもしれない。


「触っても、大丈夫でしょうか」

「むしろ、触って欲しそうにしてるね」


 白猫はごろんとお腹を見せていた。


 そろりそろりとヒストリカは白猫に近づき、膝を折り曲げる。


 それから、そーっと手を、子猫に伸ばした。


 なで、なで。


「ふわふわ、しています……」

「そりゃ、猫だからね」


 人差し指であごをよしよししてあげると、白猫は頭をのけぞって気持ちよさそうに喉を鳴らした。


「可愛い……」


 自然と、感想が口から漏れる。

 すると、白猫の方から顔を指に擦り付けてきた。


 その柔らかい手触りに、見る者全てを無条件に虜にする可愛らしさに。


 これまでピクリとも動かなかったヒストリカの口角が、微かに持ち上がって──。


「いかがなさいました?」


 視線を感じて顔を上げると、エリクが目を丸めていた。


「いや……そんな表情もできるんだな、って」

「どんな表情ですか」


 自分の表情が変化していた自覚のなかったヒストリカは小首を傾げる。

 すでにヒストリカの表情は元の無に戻っていた。


 エリクは問いには答えず、困ったように肩を竦める。


 気になったが、そこまで掘り下げる興味も湧かないので話題を変える。


「この子の名前は?」

「特に無いと思うよ」

「なるほど」


 優しく白猫の頭を撫でながら、ヒストリカは空を見上げ思考に耽る。

 すると、ハッと何かを閃いたみたいに目を見開いていった。


「じゃあ、『くも』で」

「まさかとは思うけど、この猫は白い、雲も白い。だから『くも』、とか言わないよね?」


 エリクが言うと、ヒストリカは「よくわかりましたね」と目を丸めた。


「本気かい? 蜘蛛という虫と被るだろう?」

「猫と蜘蛛は別だと言う事は一目でわかります。雲は白い、これは人間の共通認識です。この猫ちゃんも白い。ゆえに、『くも』と名付けることになんら問題ありません。さっき空を見上げた時に白い雲が目に入って、これだと思いました」


 表情を変えず淡々と言うヒストリカはどこか得意げだ。

 どうやら本気で言っているようだ。


「なるほど。とりあえず、君のネーミングセンスが少しおかしいという事はわかった」 

「むう、だめですか……」


 不服そうに眉を寄せるヒストリカの仕草が妙に子供っぽくて、エリクは思わず吹き出してしまう。


「何笑ってるんですか」

「ごめんごめん。ちょっと、おかしくって」

「そんなに笑うのでしたら、何か代案をください」

「代案か、代案……うーん……」


 エリクが腕を組んで考えようとすると。


「あっ……」


 急に猫は立ち上がって、そそくさと走り去ってしまった。


「行っちゃいました」

「猫は気まぐれだからね」


 エリクが言うと、ヒストリカは残念そうに息をついて立ち上がる。


「そろそろ戻りましょうか」

「うん、そうだね。もうお腹ペコペコだよ」


 そう言ってお腹をさするエリクに、ヒストリカは口を開く。


「あの……」

「ん?」


 先ほど、守ってくれようとしてくださって、ありがとうございました。

 そんな言葉が頭に浮かんだが、わざわざ言うのも変かと思って引っ込める。


「……いえ、なんでもありません」

「……? そう?」


 こほんと、ヒストリカは誤魔化すように咳払いした。

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