第5話 出発

テルセロナ家に婚約を了承する旨の文を送ると程なくして、歓迎の文が返ってきた。

 春の朗らかな日差しがぽかぽかと暖かい今日、テルセロナ家から迎えの馬車が到着する。


「それでは、行って参ります」


 父ベネットと母ローズに、ヒストリカはぺこりと頭を下げる。

 ベネットが低い声で言う。


「くれぐれも、失礼のないようにな。お前は愛想がないから、万が一にも無礼を働き婚約が破断になる可能性も考えうる。それだけは、なんとしてでも避けるのだ」

(別れ際になっても、自己保身の言葉、ね……)


 頭を下げたまま、ヒストリカは思わず苦笑が浮かびそうになった。


「失礼がないよう、尽力いたします」


 頭を上げて、淡々とヒストリカは言った。


「到着次第、すぐに支度金の事を伝えるように。くれぐれも忘れないでね」


 一方、母のローズはお金の事しか口にしなかった。

 父親の領地経営の手伝いをする中で、家の収支表を取りまとめているヒストリカは、母が宝石や贅沢品で散財している事を知っている。


 公爵様との婚約という事で、実家に入る支度金は相当のものとなる。

 娘の門出よりも、自分の懐が温かくなる方が嬉しいのだろう。


 ローズの言葉にヒストリカはなんの感情もなく「わかりました」とだけ返す。

 

「それでは、お父様、お母様、今までありがとうございました。落ち着き次第、文を出しますので、その時にまた」


 こうしてヒストリカは、お付きの侍女と共に馬車に乗り込んだ。


 結局最後まで、両親の口から「おめでとう」も「気をつけて」も出る事はなかった。

 自分は娘ではなく、実家を繁栄させるための都合の良い道具でしかなかった事を、改めて悟る。


 それはもう、前々から分かりきっていた事だし今さら期待はしていなかったけれど。


(せめて最後くらいは、親子らしい会話があっても……)


 ヒストリカの凍りついた思考の中に一匙の思いが浮かんだのを、頭を振って拭い去った。


 なにはともあれ、生きているのに、死んだように過ごしていた実家から出る事ができた。

 その事実だけで、テルセロナ家へ嫁ぐ事に前向きな気持ちになれた。


 ◇◇◇


「醜悪公爵、ね……」


 しばらく馬車に揺られたあと、車窓から景色を眺めながらヒストリカは呟く。


「やっぱり気になりますか、お嬢様?」

 

 尋ねてきたのはヒストリカのお付きの侍女、ソフィだ。


 小動物を彷彿とさせるくりっとした瞳に、あどけなさが残る丸みを帯びた顔立ち

 ヒストリカとは対照的に表情がコロコロ変わる点が特徴的だ。


 首の辺りまで伸ばしたブラウンの髪はサイドで纏められている。

 背丈は低めで、黒と白を基調にしたメイド服を着ていた。


 ソフィとはもう三年ほどの長い付き合いのため、公の場以外ではフランクなやり取りをする仲である。

 

 ヒストリカに唯一良くしてくれる味方と言っても過言ではない。


 そんなソフィの質問に、ヒストリカはゆっくりと首を振った。


「いいえ。噂とは往々にして、尾鰭がつくものだから」


 ヒストリカは、ソフィに命じてエリク公に関する噂話を集めてもらった。


 その結果、社交会から見たエリクに対する評価は散々と言わざるを得ないものだった。


 曰く、その醜悪な容貌のせいで令嬢が怯えてしまい、今まで何度も婚約を破断させてしまったほど。


 曰く、自身の容貌をなるべく人に見せたくないと極力社交界には顔を出さないようにしており、愛想も無く貴族間の付き合いも悪い。


 曰く、本人の性格は根暗で卑屈、些細な事で怒りを露にし周りに当たり散らす暴君……などなど。


 どれも、王国の最高爵位であらせられる公爵様とは思えないものだった。

 噂は基本的に誇張されるものとはいえ、それらが事実に基づいている事は確実だろう。


「なんにせよ、いま気にしても仕方がないわ。私は私のやれることだけをするだけ……それだけよ」

「この身がある限りお供いたします、お嬢様」


 恭しく頭を下げるソフィに、「ありがとう」とヒストリカは返して続ける。


「ハリーとの一件については……私が前に出過ぎた点も否定できないわ。薄々感じてはいたけれど、この国は男尊の風潮が思った以上に深かった。だから……」


 決意を新たにした瞳を浮かべて、ヒストリカは言う。


「私はエリク公の良き妻として、支える側に徹しようと思っているわ」


 つまりはサポートねと、ヒストリカは表情を変えずに言う。


「お嬢様……もしかしてちょっと楽しみだったりします?」

「そんなにはしゃいでいるように見えるかしら?」

「もう長い付き合いですもの」


 ヒストリカに、ソフィはにっこりと屈託のない笑顔を浮かべて言う。


「その点はきっと、大丈夫ですよ。お嬢様なら」

「なぜそう言い切れるの?」

「ええ〜……だって」


 分かりきった事をといった調子で、ソフィアは言った。


「お嬢様、めちゃくちゃ優秀ですもの」


 ぱちぱちと、ヒストリカは目を瞬かせたあと首を傾げる。


「買い被りすぎよ。私よりも凄い人は、たくさんいるわ」

「少なくとも私は、今まで出会ってきた中でお嬢様ほど聡明な方は存じ上げません」

「私はたくさん出会ってきたわよ」

「え、どちらで?」


 すっ、とヒストリカは場所の荷台にこんもりと積まれた大量の本たちを指差して言った。


「書庫に収められていた数多の本の著者たち。彼ら、彼女たちに比べると、私なんてまだまだ……」


 真面目な表情で言うヒストリカに、ソフィアは「その向上心はいったいどこから……」と嘆息するのであった。

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