第4話 婚約の申し入れ

「いったい、なんだったのでしょう……」


 激動の夜会から三日後。

 エルランド家の屋敷の自室で、ヒストリカは呟く。


 思い起こすのは、バルコニーで忽然と消えた男性のこと。


 結局あの後、一緒についてきてくれた使用人とローレライ侯爵家の医者に謝罪する羽目になった。


 あの一連の出来事は夢幻?

 と思うには記憶が鮮明過ぎるから、男性にはあの場から立ち去る必要があったのだと推察する。


 男性は見たところ身分の高そうな方だったから、お忍びか何かで訪問していた可能性も否定できない。

 あの場から立ち去ったのは、自分と会ったという事実事態が不都合だったから、という理由かもしれない。


 どれも推察の域を出ないし、結局男性とはあの後会えずじまいだから考えても仕方がないけど。


 それはいいとして、あの後が大変だった。


 狐に包まれたような気分でホールに戻るや否や父親が駆けつけてきた。

 どこからかハリーからの婚約破棄の騒ぎを聞きつけてきたらしい。


 立て続けの出来事が起きて疲労困憊の表情をした上に、ドレスの一部が破けた娘の姿を目にした父親はヒストリカのことを心配する素振りも見せず馬車に押し込んだ。


 馬車に詰め込まれ帰ってくるまでの間、事の経緯を説明するなり父親に頬を打たれた。


 「お前が上手くやらなかったから、こんな事になったんだぞ!」と頭ごなしに怒りをぶつけられた。


 伯爵家との婚約が破断になったのだから、仕方がない。


 「申し訳ございません、申し訳ございません」と、ヒストリカは繰り返し頭を下げ続けるしかなかった。

 父親の罵詈雑言はいつもの事だが、婚約破棄と人命救助でヘトヘトになった身体には流石に堪えた。


 男性の件に関しては話すタイミングはなかった、と言うよりも話す隙も与えられなかった。


 帰ってからもヒステリックを起こした母親に怒鳴られ打たれ散々であったが、一時間ほど耐えていたら最終的には解放してくれた。


 普段はもっと長いのだが、婚約破棄の要因の一端に自分達がヒストリカに施してきた教育があったという事実を鑑みて短めで解放してくれたのだろうとヒストリカは推測している。


 そんな出来事から今日に至るまでは特筆するような事も起こらなかった。

 婚約破棄の波乱が嘘だったかのよう。


 これ幸いと、ヒストリカは自室に籠り読書に明け暮れ夜会での肉体と精神のダメージを癒す平穏な生活を送っていたのだが……。


「ヒストリカ! お前に婚約の話がきているぞ!」


 部屋にやってきた父ベネットの一言が、平穏を切り裂いた。


「こん……やく?」


 まるで幼な子が初めて見る単語を読むかのように、ヒストリカはその言葉を反芻する。

 

 まるで現実感がなかった。

 だって、今の自分には最も縁の遠い言葉のはずだから。


「ああ、先程届いた手紙に記されていた」


 ベネットが便箋を差し出してくる。

 上等な質感を指先で感じながら、ヒストリカは紙面の内容に目を通した。


 宛先はヒストリカとその両親に向けて。

 仰々しい前置きや定型文を取り払うと、おおよそ以下のような事が記されていた。


 ・(手紙の送り主である)テルセロナ家の当主エリクは、ヒストリカ・エルランドと婚約を結びたく思っている。


 ・結婚に際して準備金や資金などは全てテルセロナ家が負担する。


 ・婚約後、ヒストリカはテルセロナ家の屋敷に移住してもらいたい。


 ・詳細の話は直接会って、テルセロナ家の屋敷で話したい。


「悪戯か何かでしょうか?」


 まず冷静に疑ってかかるヒストリカに、ベネットは頭を振る。


「手紙には確かに、テルセロナ家の家紋の入った封蝋が捺されていた。公爵の名を騙って文を送られたとは、考えにくいだろう」

「です、よね……」


 手紙の偽造は重罪だ。

 それも、公爵家の名を騙るとなると死罪もあり得るだろう。 

 

 それでも、反射的に悪戯か何かの間違いなのではと疑ってしまった。


 一応、『このような急な形で申し訳ない』的な前置きがあったが、それを差し引いても突然過ぎる婚約の申し入れだった。


 テルセロナ家と言えば、王の遠戚にあたる由緒正しい名家。

 爵位もこの国の貴族の中で最上位の公爵。


 子爵貴族ごとき話すことはおろか、顔を合わせる機会すら通常は許されない雲の上の存在である。


(そんな天上人であるはずの、エリク公が何故……)


 先日、自分は公衆の面前でガロスター伯爵家の嫡男ハリーに捨てられた。


 一部始終を見ていた人々から、あの夜会での出来事は社交界に瞬時に出回っている事だろう。


 婚約まで取り付けたものの、他の令嬢に奪われる形で捨てられたヒストリカ。

 世間からの評判を何よりも重要視する貴族たちが、そんな傷物も同然のヒストリカをわざわざ新たな伴侶として迎え入れようと考えるわけがない。


 だからこそ、この婚約の申し入れは訳がわからなかったのだ。


「当然、受けるだろう?」


 返答はひとつだと言わんばかりに、ベネットが問う。

 

 突然降って沸いた、公爵家との婚姻。

 それも、お相手がかの有名なテルセロナ公爵家となれば、我がエルランド家にとっては勿体ないくらいだ。


 陞爵を目指すベネットにとって好機という他ないだろう。


(それに……私にとってもこれは好機、ではあるのよね……)


 今のヒストリカは、夜会での婚約破棄の噂が出回っているのもあって相手を見つけるのが非常に難しい状態にある。


 ただでさえ性格的にも男受けの悪いヒストリカにとっては絶望的な状況だった中、エリクからの婚約の申し入れはまさに渡に船と言っていいだろう。


「はい、もちろんでございます」


 ヒストリカの言葉に、ベネットは満足そうに頷いた。


「しかし公爵家からの婚姻とは……何はともあれでかしたぞ、ヒストリカ!」


 先日の天を貫くような怒りは何処へやら、ベネットが嬉しそうに言った。

 

 娘にちゃんとした相手が出てきたという愛ゆえの喜びではない。

 自分達にとって有利な事態になったという、自分本位な喜びである事は一目瞭然だった。

 

(どちらにせよ……私に選択権は無いでしょうし)


 冷めた思考で考えるヒストリカ。


 貴族間の結婚は当事者同士の気持ちよりも、身分が高い方の意向が尊重される事が多い。


 エルランド家は子爵、相手は公爵という天と地の身分差だ。

 子爵家が公爵家からの婚約の申し出を断ったとなれば、ただでさえ外聞が悪い我が家にとって余計芳しくない状況になる可能性もある。


 というわけで、この婚約を拒否するという選択肢はヒストリカに存在しなかった。


「それでは早速、私の方で文の返事をいたしますね」

「うむ、よろしく頼む」


 こうしてヒストリカは、テルセロナ家に嫁ぐ運びとなったのであった。

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