第34話 覚醒ヒロイズム 後編

 それが人の集まりだと気がついたのは、もう数十歩のところまで近づいて来てからだった。


 数百人はいるであろう人の群れが、目は焦点が合わずに上を向き、口を半開きにしてよだれを垂らしながら、引きずられるようにしながらこちらへ向かってきていた。


 シャルルがその光景に呆然としていると、キースが、奥の捜索へと向かっていた二人に向かって「外に逃げろ」と声をかけながら、シャルルを抱えて家から飛び出した。


 キースがシャルルを連れて近くにあった木の枝に飛び乗ると、群衆たちは届かない手を空中に投げ出しながら、木に群がりはじめてきた。


『あーあー、シャルル、ちょっとええかの?』


『いいわけないでしょ、とんでもないことになってますよ』


『その件に関して、どうしても伝えねばならんことがある』


『なんですか?』


『到来せし群衆の狂奏、貴様をして抗い争い絶望せしめたのち、その胸に来るは諦観か自棄かそれとも…』


『何を言ってるんですか?』


『今回のタイトルじゃそうじゃ。ゼブルンが今回のイベントの主催じゃからの、これだけはどうしても伝えてくれと懇願されたんじゃ。じゃあの』


 用件だけ伝え終わると神は交信を切ったようで、声が聞こえなくなった。

いつになくつまらなそうだったのは、ゼブルンという陰気な神が起こしたイベントだからだろう。


群衆の中の一人の手がシャルルの裾に届いた。


 シャルルを凄まじい力で地面に叩きつけようとしてくるその手を、なんとか引き剥がし、その男の顔を見つめた。


 虚な目は空中を捉え、シャルルのこともキースのことも見てはいなかった。

そしてその口は涎を垂らしながら、ボソボソと同じ言葉を繰り返し続けていた。


「ジーナから離れろ、ジーナから離れろ、ジーナから離れろ、ジーナから離れろ…」


と延々と同じ言葉を繰り返していた。


そのときに、家の中から、空気を引き裂く悲鳴が聞こえた。

エメリアの声だった。


 キースが槍を構え、飛び出そうとしたシャルルを押さえるのと同時に、エメリアとメイシーが空中に放り出された。


 困惑と恐怖をその表情に残したまま、まるで野球のボールのように、木の上に向かって二人は投げ上げられたようにしかシャルルの目には見えなかった。


 当の二人はもっと何が起きているのか分かっていないようで、自分たちが木の上にいることも理解できていないようだった。


 三人が全く同じ疑問を抱えて固まっていると、突然甲高い声があたりに響いた。


「いやぁ〜、危ないところだったねっ!このべべが来たからにはもう安心だよッ!」


そう言ってベベが姿を顕したとき、二人がベベに抱えられていたということがようやく理解できた。


「ベベ!お前なんでここにいる?」


「キィース!よくぞ聞いてくれたね!べべが空前絶後の超絶マジックショーをして観客の目をこの右手に集めていた時のことさッ!突然観客が僕の右手から視線を外し…さっと後ろを振り向いたのさ!僕は王国警備隊がしょっぴきにきたのか、それとも観客がバースデーサプライズを用意してくれたのかと思ったよ!僕の誕生日は今日じゃないけどねッ!ハッハッーァッ!」


「手短に話してくれ」


キースがいつまでも進まないベベの話を、木の下に群がる群衆を見ながら遮った。


「一時間くらい前に客が移動したからついてきたッ!」


べべがキースの質問に端的に答えたあとで、また透明になって消えてしまった。


「てことは、こいつらモモンマルコンの住人か」


 キースが小さく舌打ちをした。

シャルルがあたりの群衆の顔を見渡すと、たしかに見知った顔もある気がする。


「そ…それじゃあ倒しちゃうわけにもいかないね」


 エメリアが群がる群衆に怯えながら不安そうに呟いた。

その手には念のために斧が握られていたが、斬り付けるわけにもいかず、一応登ってこようとする物を刃の付いてない面でつついて落としていた。


「シャルル!お前のキス•オブ•カサノヴァで絡め取れないのか?」


「やってはみるが…一番大きな網でも、こんなに大勢だと日が暮れるかもしれないね」


シャルルの蜘蛛の巣は、何度か試してみたところ、勢いよく出せば大きなものが出せるがそれでも最大で5メートル程度のものまでしか出せなかった。


「あなた射出系じゃなくて創造系の範疇外でしょ?一度に出せるサイズに限りなんてないでしょ?」


メイシーが不思議そうな顔をしながらシャルルに尋ねてきた。


「どんなに勢いをつけても5メートルくらいの網しか出せなかったよ」


シャルルには知らない言葉が多い質問だったので、とりあえず自分に分かっていることを繰り返してみた。


「それは勢いよく発射しようとしてるからよ!発射するんじゃなくて出し続けるイメージ!基本よ!」


「すまない…先生に銃弾を放つようにと言われたのでね」


「そいつは魔法の素人よ!」


 シャルルの横から、悪かったな素人で、と言う声がした。


「いい?いつまでも出し続けるイメージよ?そうすれば魔力切れまで出し続けられるわ」


 シャルルが右手をかざして、キス•オブ•フロアとかいうヘンテコな名前の魔法を出そうとしたとき、メイシーが繰り返し何度も注意をしてくれた。


 シャルルは目を閉じて、コーヒードリッパーから抽出された美しい茶色の液体が垂れ落ちるように、右手の指先からゆっくりと垂らし続けるのをイメージした。


 不思議な感覚がシャルルの中に満たされていった。

垂れた糸から指先に伝わる振動は群衆の息遣いまで伝えてくれ、瞼の裏では光の筋と塊になってそれを見せてくれた。


「シャルル!もういい!」

とキースの声が引き戻してくれるまで、シャルルは瞼の裏に見える光の筋と塊で、北の山を覆い尽くすことに没頭していた。


 彼が目を開けると、見渡す限り一面が蜘蛛の巣に飲み込まれていた。

虚な目の群衆はピクリとも動けないように固められたまま、口だけを使ってジーナから離れろという文言を繰り返していた。


 メイシーは青い目をまん丸に見開いてシャルルの作りだした蜘蛛の巣の山肌を見渡した。

シャルルの右手から垂らされた蜘蛛の糸はプログラミングされたように規則的に、

しかし生き物のように不規則に拡がり続け、次々と群衆を飲み込みながら、この山の南半分を飲み込んでしまった。

彼女の頬に冷たい汗が流れ落ちる。


「何これ…どうみたって神聖級規模の魔法じゃない…シャルルにそんな魔力は…」


メイシーがそこまで口にした後にシャルルの魔力の残りを確認したところ、ほとんど減っていないことが分かった。


 キースもまた、同じように白くなった山肌を遠くまで見つめていた。

彼の胸の中で、燃える炎のように赤い髪の女性が約束を果たせよ、と透き通るような声で呟きかける声がこだましていた。

 彼はその声を胸に抱きしめながら、切れ長の黒い瞳の中に女性の髪と良く似た赤い光を灯しながら、シャルルの背中を見つめていた。


 二人が様々な思考を巡らせているときに、当の本人であるシャルルの頭の中は全く別のことでいっぱいだった。


『主人公覚醒イベじゃ!しかし、なぜ自分で気が付かん!ワシのやったスキルを試して試行錯誤せぇと散々言って聞かせたのに!お主の頭には女と喋るための言葉以外は…』


せっかくのビッグイベントが自分の思う通りに実現しなかったことに、神が延々とシャルルに説教をしていた。

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