第22話 coral pink-1

「折原、ちょっといい?」


人事総務のフロアに顔を出した氷室が開口一番名前を呼んできて、結は飛び上がらんばかりに驚いた。


あの懇親会以降、氷室と結の話題でランチ時のカフェテリアは大盛り上がりなのだ


ここ最近で一番ホットな話題よーと赤松から言われてしまって、本気で穴を掘って埋まりたくなった。


ここ数年フリーだった氷室が、懇親会から結を連れ出した一幕はドラマチックに盛られて、まるでシンデレラストーリーのように語られている。


薄着の結を気遣って氷室がスーツを羽織らせてくれたところまでは事実だが、暗がりで抱き合っていたとか、駐車場の車から出てこなかったとか、とんでもない捏造まで混ざっているから始末に悪い。


課長と係長と主任は打ち合わせ、後輩たちはそれぞれ会議室の後片付けに出ていて、フロアに一人だから良かったものの、もしもここに誰かいたならば結は素直に応じられなかった。


あり得ない、本当にあり得ない。


ここまで込みで氷室がああいう行動に出たのだとしたら、本気で彼は結の手には負えない。


氷室と結が高校の同級生だったところまでリークされてしまって、このままでは二人が付き合っていたことがバレるのは時間の問題だ。


この状況にもかかわらず、顔色一つ変えずに平然とここにやって来られる氷室の強心臓が恐ろしすぎる。


結としては、出社拒否したいレベルの大事件だ。


勤怠の締め処理と重なっていなければ迷わずリモートワークを選んでいた。


「・・・ナンデスカ」


思い切り片言で返事を返せば、氷室がひょいと眉を持ち上げてこちらを見下ろして来た。


心外そうな顔をされたってこっちのほうがずっと心外である。


「なんだよ、なんでそんな怒ってんの?」


「心当たり氷室くんにしか無いはずなんだけど」


「もういっそ付き合ってますって言った方が丸く収まると思わん?」


平然と次の提案を口にして来るエリートの顔をぎょっとして見つめ返す。


「っちょ!・・・・・・狙ってたの!?」


「まさか。さすがにあの場所で口説かれてるところまでは計算出来ないから」


いまだ彼の中であれは口説かれたの範疇に入っているようだ。


「だから、西山くんのことは・・・」


「次からはちゃんと断ってな」


「・・・・・・・・・うん・・・・・・いや、そうじゃないっ」


思わず流されて頷きかけて、いやそんな権利まだあなたにありませんよね、と慌てて我に返る。


っていうかまだ、ってなんだ、まだって。


あの日を境に一気に彼に引き寄せられつつある自分の恋心のチョロさが怖い。


初カレの思い出補正がやばすぎる。


「万に一つもないけど、もしほんとに告白されたらそういうつもりが無い相手にはきっぱりお断りします」


というかそんな経験片手で、いや、三本指でも余る。


結の返事にふうっと息を吐いた氷室が、表情を改めた。


チラッとそれを確かめて、一気にこちらの分が悪くなったことを悟った。


最近時々彼が見せるこの不敵な笑みは、物凄く心臓に悪い。


彼が勝利を確信しているとその顔に書いてあるのだ。


あの頃嫌というほど惚れられていた自覚がある氷室にとってみれば、結の表情から気持ちを察するのは大したことではないのだろう。


そして、何を言えば結が動揺して心を揺さぶられるのか、彼はもう知り尽くしている。


「・・・・・・・・・なら俺は望み持ってていいんだな」


ほら来た。


ぐっとお腹に力を込めて必死に表情を動かさずに答えた。


「そういう話はしてないでしょ」


つっけんどんな返事を投げたにもかかわらず、氷室はすかさず食らいついてくる。


「いや、そういう話だろこれ」


「・・・氷室くん、性格悪くなったね」


あの頃の彼は、駆け引きとは全く無縁の人だった。


結が差し出す言葉を受け止めて、照れたように視線を逸らす人だった。


心が浮き立つような甘ったるい言葉はくれなかったけれど、彼が自分の言葉で頬を染めてくれるのが嬉しかった。


本当に絵に描いたようなピュアな恋だったのだ。


それが10年ちょっと経った今は、すっかり大人の恋を覚えた氷室に翻弄されている。


今の彼からは純粋さの欠片も感じられない。


油断したらあっさり絡め取られてしまうような気さえする。


地味で堅実な事務員を続けて来た結とは違って営業職だった彼は、こなして来た経験の種類も場数も桁違いなのだろう。


さすがにいまの辛辣過ぎたようで、さすがの氷室も面食らった顔になった。


ちょっと勝った気がしてしまうあたり、結もこの10年ちょっとでそれなりに性格が悪くなったのかもしれない。


「・・・駆け引き覚えたって言えよ・・・・・・・・・でも、ちゃんと付き合ったら揺さぶらないから、そこは心配しなくていいよ」


もう数日後には結が自分の彼女になっているような強気な発言をしてくる氷室に言い返せないのは、絆されている自覚があるからだ。


苦かったけれど、ちゃんと甘酸っぱかった青春の思い出がいつまでもキラキラしているからいけない。


あの頃を取り戻そうと心が騒ぐのを止められないのだ。


制服=コスプレになってしまう大人では、もう二度とあんな青春を送れるはずも無いのに。


触れた手を繋いでくれている間は嬉しくて、解かれた後の何とも言えない寂しさまでセットの恋だった。


けれど、大人になった氷室はそんな心配は無用だと言外に伝えて来る。


高校生の頃より数倍饒舌になった彼が言葉巧みに本気で口説いて来たら、あっさり頷いてしまう未来が思い描けるから怖い。


こういうところはあの頃と変わらない。


大人になった氷室も、高校生の頃の氷室も、ちっとも結を冷静でいさせてくれない。


ときめきやドキドキとはかけ離れた場所までやって来たと思っていたのに。


どうして何もかもがいきなり押し寄せてくるのか。


こちとら恋愛経験も豊富とは言い難いし、あれ以来押されて付き合うことしかしてこなかったので、一番大好きで押して押して押しまくった彼から10年以上ぶりに押されている事実にもう倒れそうなのに。


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