紗倉桃のとある休日
大学二年の春、とある休日の朝。
桃にしては珍しく、自宅のベッドで、悪夢にうなされることもなく目を覚ました。
「……あー…だる…」
意識が飛ぶほどに酒を飲んだ昨晩の記憶を頭痛と共に蘇らせて、ひとり額に手の甲を当てた。
二十歳になってからというもの、連日こんな寝起きばかり続いている。ちなみに初日…誕生日を迎えて一番に祝ってくれたのは渚で、酒がまだ飲めない年齢の彼女に見守られながら人生初の飲酒を済ませた。
その日からもう…何日も。朝方まで友人達と飲み明かしている。
慣れない酒の影響は強く胃腸は大荒れで、全身の倦怠感がひどい二日酔いに悩まされるのが分かっているのに、何日も飲酒をしては他人や自分の家のベッドで気絶する日々。
そのおかげで、一週間もの間…彼氏もいなければセックスもしてない。気絶という名の睡眠を確保できている今、必要がなくなったと言った方が適切かもしれない。
誕生日祝いと称して飲み会に誘ってくれる相手が多いのは幸か不幸か。分からないが、ありがたいことではあるものの、飲みすぎによる苦痛を伴うものである事に間違いはなかった。
だからもう飲まない、飲みたくない…と心の中で意思を固めるのも虚しく、
「…もしもし」
『もし!誕生日おめでと!連絡するのちょっと遅れちゃった…ごめん〜!お詫びに奢るから飲み行こう?お祝いも兼ねて!』
「……行く」
ベッドを降りようとした時にかかってきた電話に応じてしまった時点で、無理だと悟った。
「はぁー……まじでバカ、クソすぎ…」
愚かな自分にため息をひとつ落として、とりあえず頭を冷やすため寝室を出て脱衣所へと移動する。その間も頭痛は続いていた。
洗面器に頭を雑に下げ入れて、後頭部に向かって蛇口から水を垂らす。このまま溺れ死ねそう…なんてことをぼんやり考えながら、冷水で物理的に頭を冷やした。精神的にも効果はあったようで、血迷った思考はすぐ消え失せて落ち着いた。
腰を曲げて洗面器に顔を突っ込んだ状態のまま手探りでタオルを手に持って、なるべく床は濡らさないように気を付けながら姿勢を戻した。
「髪乾かすの…だる……はぁ…」
起きてからまだ十数分。何度目になるか分からないため息をついて、それでも自慢の黒髪の艶を維持するためケアを始める。
ついでに歯を磨いて、眠気もすっかり覚めた頃、脱衣所を出て今度はキッチンへと向かった。
今日も今日とて頭痛を改善してくれる半分は優しさで出来てるかもしれないそれを、水と一緒に口の中に放り込む。
「ん……また…?」
相変わらず服のとっ散らかったリビングのソファに腰を下ろそうとしたらスマホが音を鳴らして、ほとんど反射的に耳に当てた。
「…もしもし」
『あっ、紗倉〜?誕生日おめでとー!』
「ありがと」
『なんか高校ん時のみんなでお祝いしたいって話してて、今夜とかどう?空いてる?』
「あー……行きたいけど、今日は大学の友達と飲むんだよね」
『ふたりで飲むの?』
「…たぶん」
『じゃ、その子も連れてきちゃいなよ〜!』
「うーん…わかった。聞いてみるね」
『無理そうならまた明日とかにしよ!』
「ありがと。また連絡する」
『はーい!』
誕生日を過ぎて一週間経つというのに、こういった連絡が途絶えない事には素直に嬉しさを覚えつつ、そろそろ面倒にもなってくる。
それでも断るつもりは一切なくて、予定変更のため通話を切ってすぐ連絡を送る。相手からも間を置かず『お邪魔していいなら全然行く〜』と来たから、今度はそれをメッセージで「大丈夫だって」と送っておいた。
メッセージでのやり取りを何往復かして、誕生日祝いの飲み会は夕方からに決定したあたりで、今はまだ朝で時間もあるから…と準備を整えて、この日は清楚系に決めて家を出た。
もはや日課となりつつある、カフェでのモーニングを終えた後は暇を潰すため渚の家へと向かう。
「サンドイッチお持ち帰りしてきた。朝ごはんに食べて」
「ありがとう…お金いくら?」
「五万」
「ちょっと待ってね」
「嘘だよ、ばーか」
「お金持ちの朝食はそのくらいするのかと…」
「んなわけないでしょ」
最近は自分も株でそれなりに儲けていて小金持ちの仲間入りくらいは果たしているというのに以前とにも変わらない渚には苦笑を返して、普段通りの会話を重ねる。
「……そういえば、好きな女から連絡きた?」
「全然。悲しいくらい通知来ないんだけど…私のスマホ壊れてる?これ壊れてるのかな」
「壊れてるのはあんたの頭じゃない?…自分から連絡すればいいのに」
「いやー…また暴走するのが怖くて」
「…そっか。来るといいね」
渚の大失恋から、もう一年。
未だなんの進展も無い…それどころか関わりすら断たれてしまってる親友の恋路を心配しながらも、そろそろ諦めて前に進めばいいのにと、もどかしく思う。
いつまでも会えない相手に、いつまでも思い馳せてる親友に僅かばかりイライラもする。そんなにも好きならもっとグイグイ行けばいい…と思うのは桃だけで、過去にフラレた経験がある本人はすっかり臆病者になってしまっていた。
「…今日さ、あたしの誕生日祝ってくれる飲み会あるんだよね」
何か、なんでもいいから。
自分では上書きできなかった渚の恋愛を、大きく変えてくれる運命的な存在が現れてくれれば。
「渚も…来なよ」
大切な親友を救いたい一心で誘った桃の気持ちを汲んでか、それとも気付きもしていないのか。
「せっかくだから、行こうかな」
渚は気さくに頷いて答えた。
その事にホッとして、今日という日に望みを賭けて、待ち合わせの時間まではいつもと変わらない、くだらない話ばかりだけど楽しい時を過ごした。
「桃ー…私の服選んで」
「いいよ」
出かける前にお願いされて、無遠慮にクローゼットを開ける。
開けてすぐ、桃の視線は下へ落ちた。
「ん…?なにこれ」
明らかにひとつだけ毛色の違う箱を見つけて、気になって思わず手に持った。
「…誕生日おめでとう、桃」
後ろから聞こえた静かな声と言葉で、装飾されたそれが自分へのプレゼントだと察する。…誕生日の日、飲みに連れて行ってくれた時も、お気に入りのブランドの服を一着買ってもらったのに。
思いもしてなかったサプライズに喜ぶのと同時に、感動して視界が涙で滲んだ。
「ふは…っ、渡し方キザかよ」
泣くなんて恥ずかしくて出来なくて、溢れないように気を付けた目元の涙を指で拭ったあとで、照れくさくなって素直じゃない言葉を吐いた。
「そうでもしないと貰ってくれないかなって。遠慮するでしょ?」
「あたしのことよく分かってんね」
「そりゃ大親友ですから。…中、見ていいよ」
肩にポンと手を置かれて促されて、リボンを解く。
蓋を開けてみると、入っていたのはアイマスクやらキャンドルやら…何を目的としてるのかは意味不明な組み合わせの物たちだった。
「……なにこれ」
「安眠グッズです」
「は?」
渚曰く、不眠症気味な桃の悩みを少しでも解消させるためのものらしい。…てっきりSMグッズかと思った。
「こんな色気ないプレゼント初めてなんだけど」
「ははっ、思わぬところではじめて貰っちゃった」
「えー…せっかくなら、なんかえろい事が良かったな、どうせあげるなら」
「大体もう経験してるでしょ?」
「うん、ア○ル以外は………あ。後ろの初めてあげよっか?」
「ほんと勘弁して」
手のひらを前に突き出して断られたのを見て、楽しくなって喉を鳴らして笑う。ほんとこういうところは、からかいがいがあって退屈しない。
「女と付き合った初めてもあげたし、そう考えたら渚ってあたしの初めてけっこう貰ってるかも」
「ほんと?」
「うん。責任取って結婚してくれない?」
「嫌だよ、私には皆月さんという相手が…」
「連絡取ってから言って。クソヘタレ」
片想いの相手一筋と言うわりに踏み出す勇気もなく…ウジウジしてる渚に対して途端に気分は萎えて吐き捨てるように言えば、自覚があるのか渚はしょんぼりと凹んだ。
呆れ果てて悪態をつく気も無くした桃はプレゼントの箱に視線を下ろして、ふと。
「ん?」
隅に置かれた白い封筒に気が付いた。
「なんだろ…」
「あぁ、それは温泉旅行のお誘い手紙」
封を開ける前に答えを貰って、納得する。いつだか「ふたりで温泉行きたいね」なんて話したことを思い出したからだ。
……覚えててくれたんだ。
大の温泉好きである桃はウキウキで封筒を胸に抱き締めて、渚の方へ振り返った。
「まじ好き、大好き。嬉しすぎてムラムラしたからセックスしない?」
「どういう理屈なの」
「今もうめちゃくちゃに抱かれたいなって。どうせ皆月さんとやらに会えなかったら一生独り身確定でしょ?いいじゃんちょっとくらい」
「嫌です、だめです、私の童貞は皆月さんのものです」
「ち○こ生やしてから言ってもらっていい?」
「…女同士にち○こはいらないから」
「いいよ、じゃあ…指で」
「指以外の何で触れと?指もだめです」
「ケチ」
「ケチじゃない、ドケチ」
「ふはっ、もっとひどいじゃん」
軽口もそこまでにして、ちゃんとしたお礼を伝えてから気を取り直して渚の服選びを進める。…好きという言葉の中には、以前みたいな恋心はほとんどない。人として好きすぎるからこそ言える冗談だった。
渚も、言わずともそれを察してくれる。そういうところもまた居心地よく思う要因のひとつだ。
「今日あたし清楚系だから……渚も合わせる?」
「うん、そうしようかな」
本人の希望も確認しつつ、頭の中で組み立てたコーディネート通りの服を渡していく。受け取って早々に渚は着替えていった。
桃のセンスの良さには誰より信頼を置いてる渚に文句を言うなんて選択肢は当然なく、この日も着替えを済ませて鏡に映った自分の姿を見て満足気に微笑んだ。
「どう?嫌だったら選び直すから言って」
「いや…さすが桃さん。大満足です。シンプルでいいよ」
「物足りなかったらアクセサリー着けなね」
「……そういえば、桃はおしゃれなのにピアス開けないよね。なんで?」
聞きながら、渚は穴のない耳へと手を伸ばした。
「耳、性感帯だから。触られると感じちゃうよ?」
「すみませんでした」
しかしそれも、その白く滑らかな肌に触れる前に引っ込める。
「別にいいのに。せっかくだから一発ヤッてから行く?」
「なにがせっかくなの?…一発も何も出すものないから一生不発だよ。あと誘うにしても言い方……日に日に雑になってない?」
「あんた相手には適当なくらいでちょうどいいの。このあたしが本気出したら容赦ないもん、そんなん困らせるだけでしょ」
「見てみたいけどね、桃が本気出すくらい人を好きになるところ。…私相手には困るけど」
「本気で好きになれる相手、ね…」
いるわけもない、とは言えずに心の中だけで留めておく。
唯一、心の底から付き合ってみたいと思っていた渚相手でも……寂しいことに愛を知らない自分は諦めることが出来てしまった。そのことに落ち込んで絶望したのは他でもない桃自身だった。
そんな自分が、なりふり構わず冷静で居られなくなるくらい好きになれる人間なんて……きっとこの世界中どこを探しても見つかることはない。
渚にとっての皆月さんとやらみたいな、何物にも代えがたい存在なんて。
桃の好きな言葉に言い換えるとするならば、“運命”の相手なんて。
…そんなの、いるわけないじゃん。
再度自覚して、気分が沈み切る前に思考を遮断させた。
「もう行こ」
「うん」
お互い落ち着いた雰囲気の服装を身にまとって、ふたり仲良く部屋を後にする。
今日は特に酒をたらふく飲んで、可能ならまだ一度も飛ばしたことのない記憶ごと虚しい思いを吹き飛ばしたい。そう、密かな期待を抱きながら。
生まれてこなきゃよかった自分の誕生を祝う会へと、軽快に足を運んだ。
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