第6話
『奥の間』を後にした鳴と晴は、先ほどまでの緊張をほぐすために彼岸屋の談話室で一息ついていた。
「……しかしまあ、本家が出張ってくるとはなあ。そういえばこの依頼、宗純さんからの話だったんだろ? 言われた時に何か疑問に思わなかったのか?」
「それは……まあ、普段無いことでしたし思いましたけど……。父さんも忙しいだろうし、少しでも力になれるならと思って……」
「それもそうか」
鳴と彼の父の関係性を知っている晴からすれば、鳴が黙って宗純の仕事を請け負うのも頷けた。
微妙に納得がいかないという顔をしながら、晴は手に持っていた缶コーヒーを一口飲む。キリッとした苦みが、今は不思議と心地よかった。
「……そういえば櫻爾様の雰囲気、重かったな……。お前、よくあのプレッシャーに耐えられたな」
「ああ……それは多分、櫻爾様の周りが澄んでいたからでしょうね」
浄化の力を持つと云われる櫻爾の能力にでも
(要するにあの女狐のせいか)
考えるだけでも腹が立つ。晴はその負の感情をすべて缶コーヒーの残りにぶつけるようにして中身を飲み干した。
「……そんな飲み方したら胃が死にますよ?」
「大丈夫だ。胃が頑丈で有名なんでね」
「それどこの界隈の話ですか。聞いたことないです――……晴?」
缶コーヒーを飲み干した晴はおもむろに席を立った。ゴミ箱に空いた缶を放り捨てるとそのまま踵を返し、再び『奥の間』の方面へと向かおうとしていた。櫻爾との謁見後は眠るのではなかったかと鳴は首を傾げた。
「たんまり寝るんじゃなかったでしたっけ?」
「あー……。ちょっと野暮用を思い出した」
行ってくる、と手を振りながら談話室を去った晴の表情は、どこか
◆◇◆◇◆
晴が向かった先は、神様が此岸に訪れる『奥の間』の、そのさらに深い場所へと続く池だ。
彼岸池、と呼ばれるその場所は季節を問わず一年中黒い彼岸花が咲き狂っている。この彼岸池に立ち入れるのは、原則、この神宿を管理する彼岸家当主である
今宵は新月。深淵よりも深い闇に閉ざされた世界に、晴の目的はあった。
足を進めるごとに、薄く張った池から靴の中へと水が遠慮なく侵食していく。この場所は酷く寒く、足元の芯から冷えていく感覚に嫌気が差す。
「――遠野」
晴が闇に続く先に話しかけると、血のように濁った双眸が暗闇の奥からぬるりと現れる。彼岸花の噎せ返る甘ったるいにおいに混じって、強い獣臭が池中に漂い始めた。
ギャハギャハと独特な笑い声が静寂の闇に溶けていく。晴は燭台に残っていた蝋にいつものように火を灯した。
徐々に明るさを増していく彼岸池のその奥から〝
普段は花魁のように妖艶な女の姿形をして、からかうような素振りで晴の前に現れるのだが、今回は勝手が違うのか獣姿のままだ。そのことに疑問を感じつつ、冷静を装って晴は遠野に話しかける。
「今日は、そっちの姿なのか」
「ギャハ。たまには新鮮でよかろう? これが今巷で流行りの〝もふもふ〟というやつよ。現代の人間には受けがいいと聞くが……」
お前には意味の無いものだったなァ、と遠野が嘲笑した。
晴はこの獣が何を言おうと何をしようとなびくことは無い。見た目でいくら誘惑しようとも、晴が遠野に欲情することは万が一にも無い。
「……さっさとやれよ」
そう言って晴は男らしいその首筋を晒す。いつもであれば女との情事で鬱血痕を付けられる程度の感覚であるが、今回ばかりはその首に牙が通ることを覚悟した。
「……首に牙を通してお前が呆気なく死んでしまうのは面白くないなァ。どれ、腕を貸せ晴。今宵は腕にしよう」
「は――?」
気づいた瞬間に晴は彼岸池の地面に押し倒されていた。バシャンと晴と池がぶつかり合い水飛沫が上がる。顔を拭うこともできぬまま、晴はされるがままに遠野に腕を拘束された。
「――ぐっ」
大きな獣の手に拘束され動けないことをいいことに、腕に遠野の牙が食い込む。そこから腕を咥える形になり、喉を鳴らして晴の血液をゆっくりと飲んでいく。ジュルジュルと卑猥な水音が耳を掠めれば、視界が次第に霞み眩む。全身が濡れ、加えて首ではない吸血行動に普段とは異なる気持ち悪さが一層増した気がした。
「……やはりそうか。春の王がこの地にいるのか」
ふと気になるワードが晴の脳裏に嫌に響いた。この獣は外界から一切の情報を遮断されているはずであり、晴が話さない限りその手の情報は得られないようになっているはずだった。それなのに何故この獣は、櫻爾が彼岸屋に来訪したことを知っているのか。
「てめェ、どこまで知ってる」
「知らぬよ。わらわは、お前からしか知ることができぬのでなァ。これまでも、これからも」
「嘘くせェ……うぐっ」
晴の吐いた悪態が気に食わなかったのか、遠野は咥えていた晴の腕にさらに深く牙を食い込ませた。
「お前からしか知り得ないと、たった今申したであろう? お前の血という情報に触れさえすれば、記憶などすぐに辿れる。なるほど。春の王がいるのならば、わらわが美しき女人に化けられぬのも合点がいく」
「……どういう、ことだ」
「春の王の力は〝浄化〟と云われている。わらわのような大妖怪にその力は毒も等しいのよ」
ゆえに化けられぬ。遠野は心底つまらないという顔をして、しかし、と晴から吸血を止めずに話を続ける。
「あの老いた鹿も不憫なものよ。以前その存在を感知したときは、浄化の力はもう少し強力に健在であったというのに」
ギャハギャハと突然嗤い始めた遠野の声が、徐々に聞こえづらくなる。今、どのくらいの体内の血液量を吸われているのだろう。聞こえづらくなっているのは、失血し意識が遠のいている証拠だ。だがここで意識を飛ばしてしまっては、その後遠野に何をされるか分からない。もし何かされた場合、その記憶は残らないだろう。晴は気力を振り絞り、珍しくお喋りな遠野の話に集中した。
「春姫の終わりが近いのか……代替わりの頃が近いのか……。どちらにせよ、はやく手を打たねば二度とこの国に春が来ることはないぞ、晴?」
外界のことを憂いているのか、晴にヒントを言い与えた遠野であったが、その言葉を最後に晴の意識は完全に世界から切り離された。
「――――ギャハギャハギャハ!」
獣のしゃがれた嘲笑は、晴にはもう聞こえていない。
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