第12話
セピア調に染まった、時間の停止した淡い色彩世界に一匹、大きな竜が眠っていた。体長はおよそ四メートルほどだろうか。自分よりもはるかに大きい体躯を持つ竜に鳴は数回瞬いた。
「……あなたが、『お露』様……ですか?」
思わず口から質問が出ていた。伏せられていた瞼が静かに開く。大きな水晶のような瞳が、ゆっくりと鳴の姿を捉えた。
「……どちら様ですか。神の類では……なさそうですね」
紡がれる言の葉の音は、どこか歌を歌っているような気持ちのいいもので、鳴は聴き入り固まってしまった。
「……あ、えっと……。はい。僕は人間です」
「人の子……?」
竜の声音が低くなり、地響きを起こしかねない音が空気を震わせた。それまで大した反応を示さなかった『露』と思しき竜神が怪訝そうに鳴を見つめた。その大きな瞳の美しさに思わず息を呑む。
「何故人の子がこの地にいるのです。ここは神域。安易に貴方のようなか弱い者が足を踏み入れてはならぬ場所」
「承知しております。しかし此度の件、僕の意志は関係なくこの神域に……神隠しに遭ったのだと思います」
自分でも今の状況を把握し切れているわけではなかったが、恐らく自分は今、神隠しに遭っているのだと推測していた。現実と異なる時間の流れが、それを物語っていた。
——それに……。と、辺りを見回した際に感じた、セピア調の景色と相まって見えた旱魃地。先程まで休んでいた木陰には無かったものだ。
「……私の所為ですね」
「え?」
「この神域は私の心が作り出したものですから……」
お詫びいたします、と深々と頭を下げる露に、どう応えたらいいのか分からず鳴は困惑した。きっと彼女の所為だけではないだろうに、彼女は自分の所為だと言い切った。
「……名は、何と申すのですか?」
「彼岸鳴と申します。神宿『彼岸屋』の主人をしております」
「彼岸屋の……! 通りで、肝が据わっているわけですね」
「それは、どういう……?」
「大半の者は私の姿を認識した途端に驚き叫びますから」
「そう、なんですか」
「私は、祈雨神・高龗神が
「高龗神……」
——父さんの管轄だ。
大国主神と同等の位に並ぶ、【タカマガハラ】の神様——高龗神。
彼岸屋では彼らはVIP扱いで、鳴の前にその姿を見せる機会など一生に一度あるか分からない上位存在だ。
行動派な大国主神は例外として、父からの話では温厚で滅多に表に顔を出すことがないと聞いていた。そんな神様の使いが目の前にいるという事実に、鳴は純粋に驚いた。
「そしてここは、五十余年ほど時間の動かない集落」
「集落……?」
「……いいえ。違いますね。時を止め、この空間を作り出したのは私の呪い。この呪いの所為で私は自分を
「つまりお露様自身が神隠しに、意図的に遭っていると……?」
そうなりますね、と露は苦笑し、そして目を伏せた。
『願い』は、度を過ぎれば『呪い』だ。
こうした事例は少なくはない。昔、鳴は父からその事例のいくつかを聞いたことがあった。
神を隠した『神隠し』。
神が隠れた『神隠し』。
今回に当てはまるその原理は、祈雨神の竜が起こした無意識下の土地神化と関係していると推測された。
人間に崇拝され続け、気付いた頃にはそれは洗脳に変わり、その場を動いてはならぬと呪いを自分自身に掛けた——信仰心ゆえの事例。
露は、人間に肩入れをし過ぎたがゆえに、大きくなり過ぎた。その土地から動けなくなり、土地神として生き続けなければならなくなった。しかし雨を呼ぶには自分だけでは力が足りず、いつしか人間たちはその地から移住を余儀なくされた。
その場に取り残され、疾もいない。守るべき者たちもどこかへと行ってしまった。することもなく、ただ旱魃は酷くなるばかりだ。
結果、自らを外敵から隠すために、神隠しをしているのだ。
まるでかくれんぼだ。
哀しい、
独りでいなければならない心の苦痛を埋めることはそう簡単なことではない。それをこの竜神は五十余年もの間続けている。
並大抵の精神力では、成せないことだ。
もしもその立場に自分があったなら。そう考えただけでも心が折れそうだった。
——それって……晴と一生、このまま会えないってことだよね。そうなったらその瞬間にいなくなってしまいたいなぁ……。
自分がこの世界からいなくなれば、自然と相手である晴もいなくなる。晴と鳴の歪な関係は残念なことに現状保たれ続けている。
「……不思議な赤い縁の糸……。『命の糸』が消えかけている」
「え」
考え事をしていると、不意に露から声を掛けられた。顔を上げれば大きな水晶のように輝く瞳が、心配そうに鳴を見つめていた。
「どこか悪いのですか?」
「あ……いえ……。僕は……」
人ならざる神の目は誤魔化せないということか。だがその理由を話すことはできない。鳴にとってそれは、リスクが高過ぎることだった。
この竜神が信用できないというわけではない。好感が持てるし、怪しい雰囲気も感じられない。けれど、鳴は『彼岸屋』の若旦那。神々を一時的に預かる神宿の主だ。どこの馬の骨とも知らない
まして当主が先の無い病人であると知られた場合、その隙を突け狙う者たちが多く現れることは想像し易い。そればかりは何としてでも阻止したいところだった。
「……僕の家系では、少しばかり男性の方が寿命の短い人が多いのが原因かと」
だから、濁した。
事実、日本人男性が女性に比べて平均寿命が十歳ほど違うのは統計上で結果が出ている。五十年も前の記憶で止まっているのならなおのこと、男性の寿命は現在よりも医療は進んでいないはずなので、もっと短かっただろう。
嘘は、言っていない。
それでも、真実を告げたわけではないことに対して鳴は少しばかり心を痛めた。どこまでも彼は純粋な男である。
そうですか、と話を聞いていた露もその先を詮索することはなく、この話は終わりを迎えた。恐らく鳴が何かしらの嘘を吐いていることは察していたのだろうが、自分には関係の無いことだと理解しての判断だろう。
◆◇◆◇◆
「……はっ……」
気持ちが憂鬱になっている所為か、渇いた世界にいる所為か、鳴の呼吸音が不規則に乱れ始めた。額には冷や汗が伝い、その表情も険しい。ただならぬ様子に、露は思わず息を呑んだ。
「どうされました。ご気分でも?」
「……あ、いえ……。ちょっと……」
「鳴どの……?」
「……だいじょ……」
『大丈夫』と言い掛けた彼が、急に意識を飛ばした。予想よりも倒れた時の音が軽くて驚く。突然のことで、先程まで普通に会話をしていた彼の急変に露は気付くのが遅れてしまった。
露はどうしたらいいのか思案していた。久しくこの地に、同胞はおろか、人間や動物、生きた植物でさえ訪れたことがない。対処のしようなど今の彼女に分かるはずもなかった。
「め、鳴どの……! どうしよう……どうすれば……っ」
下手に自分が動いてしまえば、その作用でこの結界内がどうなるか分からない。土地神化したがゆえに動けない自分に歯痒さが募る。何もできない自分を露は呪った。
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