――というメタファー
涙田もろ
第1話 バスというメタファー
乗客を満載したバスが走っている。
そのバスの運転手は乗客によって選ばれており、ハンドルを操り行き先を決めることの出来る責任者となっている。
運転手は徐々に細くなっていく道を、傲然かつ悠々と運転をしているようではあるが、視界が極端に短くて昼だというのに前方数メートル先しか見えていない。
そのため、新たな別れ道が現れる度、進む先の道がどこへ通ずるかを考える間が無く、気の向くままにハンドルを右へ左へと切りつつ進んでいく。
判断力もお粗末なため、しばしば道路脇にタイヤを脱輪させそうになるし、たまに舗装外へとタイヤを落とし、ガタガタと車体全体を揺らしてしまうため乗客の乗り心地は最悪で、車酔いをする人も多数いた。
車体を激しく揺する度に運転手は乗客の様子を窺うが、乗客たちは眉間に皺を寄せても、声を上げる者はいない。乗客が何も言わないため、運転手はそのまま変わらず、特に先の道は考えずに自らの行きたい方へと、無思慮で荒い運転を続けている。
何度同じ失敗を繰り返しても乗客から抗議の声が上がることがないので、運転手の運転はさらに疎漏になってきた。
それでも乗客たちは、手元のスマートフォンを眺めて自己に没頭している。
途中、停留所毎に多数決によって運転手を代えることのできるボタンがあるが、そのボタンを押す作業をする乗客はだいたい半数でしかなかったし、このバスに乗る人はみな、運転手が行う疎漏な運転や一部の乗客から受け取っている金品とその意味には全くと言っていいほどに興味が無いようだった。
『――誰かが言ってくれるだろう』
『――運転手がそのうち自分で反省してくれるに違いない』
運転が危ないと思っている数少ない乗客も、そう思うのが当たり前となり慣れてしまっていた。
そうこうしているうち運転手は変な自信をつけ、己が能力に合わないスピードにまでアクセルを踏み始めた。
間違った道を進んで来たため、いつのまにか曲がりくねった薄暗い下り坂に差し掛かり、道幅も狭く岩肌に車体を擦るほどだ。
バスはその岩肌に接触し、嫌な金切り音を上げ、車体に傷やへこみが目立って増えてきた。このまま走行を続ければ、大事故になりかねない。
だがそれでも、乗客に運転手を代えたり声を上げて自制させるような動きは、全くと言っていいほど見えない。
運転手自身も大事故を起こすような危険な運転だと思っていないようで、進むほどに妙な自信をつけ、片手で乗客からの金品を受け取り、片手でハンドルを握り、前もろくに見ないで走る無謀な運転をすることさえ増えてきた。
遠くからそのバスを眺めることのできる他のバスに乗る人たちから見れば、どうして運転手は、あんな無謀な運転をしているのか、そしてどうしてあんな運転を乗客たちは許しているのか、といぶかしげに首をかしげている。
はたから見れば、いつ事故が起きても不思議ではない走行なのだ。
だが、無線でそのバスに「あなたは危険ですよ!」と知らせてくれるバスはいない。
それは、その危険な運転をしているバスが、過去に自らと利益を競い合うライバルになった会社が運航しているバスであり、その走行が危険だと指摘することで良い運転に復帰されたら困る。つまり、再び自らの会社の利益を削られる存在になられたら厄介だったからだ。
どのバス会社もまたライバルを増やし、自らの不利益に繋がる事を指摘してはくれない。そこまでお人好しな会社は無かった。
自分のバスが危険な状態にあるかどうかは、そのバスに乗る乗客自身が気付かなければならないのだ。
世界には様々なバス会社があり、中には停留所での投票そのものが無いバスもある。そのようなワンマンバスでは、運転手のすることが絶対で、乗客は行く道に対して批判をすることも出来ないし、運転手を代えることもできない。
批判をすれば、運転手を代えようと隣の席に座る乗客と話しただけで、走行中のバスの窓から落とされてしまうのに、乗車料金だけは取られ続ける環境にある。
さて、運転手を乗客が選択可能にもかかわらず危険な走行をし続けるバスだが、そこへ至るまでの間にもっと平坦で、広い場所に通ずる安全な道を選ぶことが出来たはずだった。パワーもあり、その能力があるバスのはずだった。
しかし、バスの責任者である運転手の方には、まずその資質の第一とも言っていい地図を読み解く力がなく、しかも運転技術は稚拙だった。
さらには狭視野だったために、運転手自身が合理的な判断無しで、ただ自分が走りたい、またはその低い技術や能力で進みやすい道を、その場しのぎの判断で運転をしていただけということを、その時バスが迷い込んでいた悪路が証明していた。
それでは安全な道は、先へ進めば進むほど逆に遠ざかってしまう結果となっても、なんら不思議ではなかった。
そもそも、運転手には目指す目的地がどこなのかも解ってはいないのだ。
どの道を選び、最終的にどこに到着すれば乗客を無事安全に降ろした後、彼らがその土地で豊かに暮らしていけるかなどとは、露にも考えていない。
全ての行動の基にあるのは、運転手自身の利益、ただそれのみ。
運転を任されさえすれば、表裏様々な恩恵が濡れ手に粟となって自己と、自己の属する組合にもたらされるのだ。
一方、乗客は運賃を払ってそのバスに乗ってはいるが、勝手に降りることは原則としてできない。だが、多数決で運転手を代えることができる権利を持っていた。
暗く危険な道に至るまでの間、窓から見える周りの状況の異変を感じ取り、彼らは無能な運転手を運転席から引きずり降ろすことができたのだ。
運転手は、途中何度も小さな事故を起こしてもいた。だがそれでも、乗客の大多数が、無関心によって選択するボタンを押さなかった者も含め、その運転手に運転を任せてしまっていた。
もっと視野が広く、地図を正確に活用し、そして遠くを見通せる運転手に交代させてさえいれば、道の分岐も遠くから確認し、余裕をもってどちらへ行くのかを事前に検討、確認することも出来た。危険な道を地図で察知し、安全な道を進むことが出来たはずだ。
有能でなくとも、少なくとも普通の能力さえあれば良い道のりのはずだった。
乗客は自ら運転手を選び、安全な道を運転させることが出来たのだ。
そのバスの中で最も強い権利を持つ者は運転手ではなく、ひとりひとりの乗客だったのだから――
だけどもう、元の道に引き返すことはできない。
どこかで分岐する道を見つけ、また安全な方へと戻れそうな道を選ぶしかないが、運転席に座っているのは相変わらず元の組合の運転手のままだし、停留所のボタンはまだまだ先にあるようだ。
周りの状況や車体の揺れから、次に運転手の選択をする前に事故が起こる公算は高いと、誰の目にも明らかになってきた。
だがそれでもその運転手は傲然と胸をそらし、ガツガツと車体を岩にぶつけながら、表情だけは自信ありげに坂を高速で下っていく。
乗客が騒ぎ始めたのを感ずるや、運転手は「皆さん大丈夫です、お任せください。ああそうだ、ここで少し乗車料金の還付をしましょう。お客様の口座へお金を振り込みます。どうぞこの先もご安心を」と、その顔に醜笑を浮かべハンドルを放さない。
運転手はなおもブレーキを踏んでスピードを緩めようとはしなかった。
スピードを落としてしまえば、この道が間違っていると認めてしまえば、自分の今までの運転の間違いを認めることとなり、運転席から降ろされ、享受していた恩恵と地位を失うどころか、道を誤った責任を取らされるかもしれない。
そのため、運転手は「この道は間違ってはおりません。ご安心下さい」と感情の籠っていない声で単調なアナウンスを繰り返し、さらにアクセルを踏み込んでいく。バスは危険地帯へと、さらに加速しつつ侵入して行く。
「危ない!」
「運転手を変えよう!」
スマートフォンから顔を上げ、周りの景色に顔を青くした、それまで運転に無関心だった乗客からやっと声が上がるが、運転手を変えることができる停留所のボタンはまだ先でそれは叶わない。
運転手の顔から笑みが消え、車体の修理料と称して運賃を天井知らずで増額し始めた。乗客の財布からお金が飛ぶように消えていくが、バスの危険度は増していく一方。そもそもその修理をするハメになっているのは、運転手の運転のせいなのだ。
平坦で安全な場所を走っていた時にはいくつもあった道の分岐も、この頃になるとほとんど一本道となり、別の道に変えることも困難になってきた。
「スピードを緩めろ! 止まれ!」
もはや運転手は乗客たちの声に耳を塞ぎ、アクセルを踏み続ける。
「――耳障りな声だ。だが停留所までまだ距離がある。この道だって大丈夫だろう。今までだって大丈夫だった。あの時も……そうあの時も、このバスは完全に壊れずに走って来たじゃないか……! きっとまた安全な場所に出――」
急に景色が開けた。
前方には真っすぐな道のみ。
急な、落ちるような角度の下り坂。
そしてその先には――崖。落ちたらバスもろとも一巻の終わり。
乗客たちは後ろを振り返り、自分たちがこんな所まで落ちていたのかと元いた高みを見上げて愕然とする。
再び前に向き直ると、崖がすぐそばまで迫っていた。
乗客たちから叫び声が上がる。
さすがに運転手もブレーキを踏むが、坂の傾斜がひどくスピードも出過ぎていたためにもう間に合わない。
バスのタイヤは地面とお別れをし、高速で空回りしながら宙を舞った。そして車体は、運転手と乗客もろとも崖下に転落していった。
――その時、運転席上の天井が開き、運転手だけが射出されパラシュートが開いた。落ちていくバスと乗客。
バスの窓には無数の阿鼻叫喚の顔が張り付き、そして見えなくなっていく。
運転手のパラシュートは風に乗り、彼だけを安全な場所へと導いていく。
その間、崖下へ転落し木っ端となって煙炎を上げるバスを、運転手は空を漂いながら無表情に眺めていたが、地表に降り立つとポケットの中に詰め込まれていた今までの報酬を確かめた。
それから彼は別のバス会社の停留所まで行き、バスに乗って安全な場所に辿り着くと家を買った。
その間も谷底へ落ちていった乗客が哀れだなと思うこともたまにはあったが、家に入って扉を閉めたと同時に、自分が運転をしていた時の全てを忘却の彼方へと葬り去った。
そして、二度と口にすることも、思い出すことも無かった。
――というメタファー 涙田もろ @sawayaka_president
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