透明人間と空飛ぶ不審物
差掛篤
低刺激男
D氏は落ち込んでいた。
愛する妻から、昨晩ショックな一言を言い渡されたのだ。
D氏はベッドに横たわる妻に寄り添ったが、妻は手を払い除けた。
そして一言。
「あなたってマンネリでつまらない。いつも同じ。低刺激な男」
D氏は何とか妻に振り向いてもらおうと、翌日の夜、とある科学博士の研究所を訪ねた。
事情を聞いた博士は、ある薬を取り出した。
「わしには女心は分かりませんが、この薬を飲めばDさんも刺激的な男になれるのは間違いありません」と博士「この薬は皮膚の細胞に特殊な効果を与え、体を透明にしてしまうのです」
「え!それはすごい」とD氏は驚く。「ですが、透明にしてどうするんです?僕は妻をこっそり覗きたい訳でもないんですが」
「想像力の足りない方ですな。奥方から刺激がないと言われるのも分かります。透明になって犯罪を犯すのは、邪悪な者の考え方です。ちょっと脅かせばいい。例えば、奥様を突然抱きしめたりしてはどうですか?」
「いいですね!それならびっくりして、ジェットコースター効果でときめいてくれるかもしれない」
D氏は喜び勇んで、博士から薬を購入すると服薬した。
瞬く間に、D氏の顔や頭部、手先など服を着ていないところが消える。
「注意事項ですが…」博士が言い始めると、D氏は制した。
「分かってます!悪用しませんよ!こんな素晴らしい気分になったのは久々だ!」
D氏は興奮している。
D氏はマスク、サングラス、手袋を付け、帽子を被った。
これで幾分人間には見える。
「街を歩くと騒ぎになりますからな」と博士が貸してくれたのだ。
そして、D氏はろくに博士の注意事項を聞かず、外に飛び出した。
D氏は、まず、モツ鍋屋へ入った。
帽子にマスク、サングラスだからか、店員は不審がっていた。
だがこれで透明人間とはバレない。
D氏は妻を驚かせ、勇壮なところを見せようと勝手に色々妄想していた。
そして、その力をつけるために、モツ鍋を平らげたのだった。
妻は仕事帰りに食事して帰っているだろう。
D氏は、体力をつけようと無闇に肉料理を食べご飯をかき込んだ。
そして、スッポンの生き血をオーダーしてコップ1杯飲み干した。
さあ、これで完璧だ。
満腹だが、俺の気力と体力はみなぎっている。低刺激男だと?
今に見ていろ、妻よ…。
D氏はそう脳内で演説しつつ、帰宅した。
満腹のお腹がポチャポチャと音を立てる。
自宅に到着すると、D氏は身に着けているモノをすべて脱ぎ捨てた。
手のひらを見ると、たしかに自分は透明だった。
ーーーーー
D氏の妻は、仕事終わりで帰宅していた。
いつもなら愛犬のように飛び出してくる夫がいない。
さすがに、低刺激男は言い過ぎたかしら。
だって私、疲れてたのに。あんまり鬱陶しかったんですもの…。
妻はそう思いながら、上着を下ろす。
仕方ない、今日は少し話だけでもしてあげようかしら。
妻がそう思ったときだった。
玄関の呼び鈴がなる。
あら?あの人かしら。
妻はいそいそと玄関に向かう。
夫と思い、玄関を開けた妻は凍りついた。
眼の前に、吐瀉物が浮かんでいる。
肉や米、気味の悪い血の色の液体が混ざり、透明な風船の中に入ったように、丸い形に浮かんでいる。
すると、あろうことか
吐瀉物はポチャポチャと音を立てて、飛びついてきた。
D氏の妻は絶叫し、玄関の端にあった靴べらを拾い上げた。
そして、迫ってくる空飛ぶ吐瀉物を靴べらの先端で激しく突いた。
不気味な風船は大きく凹み、まるでホースでも付いているかのように…キリンの首を思わせる形に空へと吐瀉物を逆流させていく。
逆流した不審物は、気味の悪い音を立てて噴出された。
上品なオーデコロンを身にまとったD氏夫人に、空飛ぶ吐瀉物は容赦なく降り掛かった。
それは、まさしく、雨季の東南アジア
スコールの如しであった。
D氏夫人は失神した。
こうしてD氏は、勇壮な夜を迎えるどころか、妻を介抱し、自分の汚した後始末をし、駆けつけた近所の人や救急隊員に奇妙な説明をして怪訝な顔をされるという憂き目にあったのだった。
当然誰もD氏の話を信じはしなかった。
D氏の妻は、疲労から悪夢を見ていたと信じている。
D氏は博士に猛抗議したが、博士は笑った。
「そりゃ、食べたものには透明薬は効きませんよ…」
透明人間と空飛ぶ不審物 差掛篤 @sasikake
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