夜雨の向こうに待つもの
薄明かりに浮かぶ真っ白な顔は、まるで死んでいるみたいにピクリとも動いていないように見えた。それがただの杞憂であることが、かすかに上下する胸の動きで辛うじてわかる。
「…………はぁ」
まんじりともできずにその光景をじっと見つめ続ける苦行に耐えかねて、ため息をひとつこぼしてわたしは少し肩の力を抜いた。
――あれからふたりきりのお茶会で少しだけ気分転換した後、ベッドの傍らで椅子に腰掛けてじっと見守り続けていたのだけど、少なくとも今のところ目を覚ます気配はない。
様子を見るためにとヴェールを外したせいで、すべて露わになってるその端麗すぎる顔も。いつものローブは脱がせた――麻のシャツに膝下までのスカート姿になった――ことで、よくわかるようになったその魅惑的な身体の輪郭も。エルフだからか知らないけれど、あまりに美しすぎて、まるで人形がベッドに横たえられているようにも見えてしまう。
あるいは、死んだばかりの死体が横たわっているようにも――
「だめ……そんなこと考えちゃいけない。いけない、のに……」
頭を振って悲観的な想像を振り払おうとしているのに、脳裏に力なく横たわる両親の
それから逃げるために、たとえば横になっているために服越しでもその大きさが目立つのは、呼吸しているのがわかるのはいいけれど。それでも貧相な我が身とつい比べてしまってなんとなく虚しさを感じてしまう――なんてふざけたことを考えてみたりもしたけれど、結局なんの意味もなかった。死の
それは、もしかしたら傍に誰もいてくれてないから、なのかもしれなかった。
夕刻になり、こちらが共倒れにならずに看病をするためにも食事を取るべきだと、そうエストが言ってきた。その発言を受け入れたわたしは、それでもふたりとも離れることだけは拒否して、まずは彼から先に食事に行って欲しいとお願いしていた。そんな理由で、今この部屋にはわたし以外誰も――意識のないシア以外――いなくなってしまっている。
だから、わたしの心の中で膨れ上がる焦燥や不安を打ち消してくれる人なんて、どこにもいないのだ。
もう、誰も。
「…………アデル。どうしよう、わたし、どうすればいいのかな? このまま役立たずのままなんて、絶対嫌なのに……。どうして、わたし、なにもできないんだろう」
ただ死ぬしかなかったはずのわたしを助けてくれた彼女なのに、結局身代わりに死ぬこともできず、なんの恩も返せなかった。だったら、せめて彼女の代わりでも務められたらと思っていたけど、このままだとそれも果たせそうもない。
ううん、わたしがただの役立たずならそれでも構わない。よくはないけど、それだけならなんとか耐えられる。でも、これ以上わたしの周りで誰かが死ぬのを見届けるのは、もう耐えられそうもなかった。
時間が経てば回復するはずだと、エストは言った。それが本当だと信じたい。でも、こうして
……あの、
「――――っ」
ぎり、と唇を血が出るまで噛み締める。それだけはダメだった。そんなことはもう二度とあってはならない。そうなるくらいなら、わたしが死んだ方がよっぽど――
そう思ってしまったわたしの目の片隅に、丁寧に畳まれた黒ローブが映り込んだ。無意識のうちに立ち上がっていたわたしは、ふらふらとそちらに近づいていく。まるで、蝋燭の炎に誘われる蛾のように。
そして、それから少しして。
「ただいま、っと。【
食事を終え戻ってきたエストと入れ替わりで、わたしは部屋を出る。そのまま階下へ降りていって向かうのは食堂――ではなくて、入り口の方だった。
こっそり服の下に仕込んでおいた黒ローブ(無断で借用済み)を頭から着込み、懐にしまい込んでいた巾着袋の中に残りの路銀と――城から逃げるときにアデルから渡された――銀の指輪がちゃんと入ってるのを確認してから、入り口のドアを開けて外に出る。
空は夕闇すら覆い隠すくらいに、分厚く黒い雲で一面覆い尽くされているようだった。そのせいか、通りを歩く人影も時間のわりには少ない。これならわざわざシアの黒ローブを奪ってこなくても大丈夫だったかな、と一瞬だけ思うけれど、広場での反応のされ方を思い出してこれでよかったと思い直す。
少なくとも、顔を晒して外に出るよりは何倍も安全だろう……きっと、たぶん。
(なんて、余計なこと考えてないで急がないと。遅くなったらエストくんが心配するだろうし、シアの方もどうなるかわからないんだから)
今求められるのは早さだと。そう判断して、わたしはできるだけ急ぐことにした。
走るのはさすがに目立ちすぎるから無理だけど、それでも似た感じになれるよう早足で歩く。石畳から響いてくる甲高い足音にいつかの逃亡劇が思い出され、胸の奥を苦い気分でぐるぐると渦巻かせながら。心なしか急ぎ足で歩いている通行人と何回もすれ違った。
どうやら思惑どおり――黒ローブのおかげかはわからないけれど――こちらに注目はされていないみたい。このまま無事にあの店まで辿り着けたら、そう思ったところで頬にぽつりと冷たいものが当たる。
驚いて一度立ち止まり空を見上げると、最初は細い筋のようにぽつりぽつりと、それから徐々に太い線になって雨がざあざあと降り注いできた。
「――っ」
歯噛みして、すぐに移動を再開させる。望んではいないけれど、予想もできていたことだ。だから今はこんな時になんて悪態をついたり悔しがったりする前に足を動かして、少しでも早く魔法屋に着けるよう頑張るべきだった、と。
そんな風に無意識のうちに焦っていたからだろうか。
「あっ」
表通りから裏路地に入った辺りで
唇を噛み締め、なんとか立ち上がろうとするけれど、雨の中を急いで歩き回ったせいか身体が重くて、なかなか立ち上がれない。まるで、体中に鉛を詰め込まれたみたいに動いてくれない。そこに追い打ちをかけるように、強くなった雨粒が全身に叩きつけられる。
いつの間にそこまで勢いを増したのか、滝のように降り注ぐ雨に打ちのめされて、体中の力がさらに抜けていく。
(……そういえば、今日は昼に屋台モノをいくつか食べたくらいで、後はお茶を少し飲んだだけだっけ。ああ、だから力が出てこないのかな。こんなことなら、少しくらい食べてきた方がよかったのかも……)
そんな、今更なことまで考えてしまう。ああでも、本当に身体がぜんぜん動かないや。
ただ――冷たい。痛い。暗い。寒い。苦しい。怖い。切ない。辛い。寂しい。虚しい。
もうこのまま立ち上がれなくてもいい。このままずっと寝たままで構わないと、わたしの中の悪魔が優しく囁いてくる。その誘惑に身も心も委ねかけたところで――
『――さようなら、リア。どうか幸せにね』
耳に甦ってきた懐かしい声に、悪魔だか天使だかの声があっさり駆逐された。石畳に突っ伏していた顔をむりやり上げ、隙間に爪を立て――痛みに耐えながら――身体を引き起こす。
「行か、ないと――。もう、誰も、死なせない、んだから……っ」
ふらつく身体を壁に手をついて支えながら、なんとか立ち上がった。それからよろよろとおぼつかない足取りではあるけれど、壁伝いに再び歩き始めていく。
シアを目覚めさせるために。もう二度と、誰一人失わずにすむように。
役立たずなわたしでも、だからこそできることがあることを信じたくて――
「……はぁ…………はぁ……はぁ、っ……」
そうして、どれだけの時間が経っただろうか。空は雨雲で覆われ月の位置から時間の経過をうかがい知ることはできず、ただ歩くことに疲れ切った身体では体内時計を使うことも難しい。
それでも、夜と雨の紗幕の隙間に見覚えのある角を見つけて、わたしはようやく一息つけた。
あともう少しだからと、心のネジを締め直したところで、不意に後ろから慌ただしい足音が聞こえてくる。それも、複数。
「やれやれ、ようやく追いついたか。まったく、この雨さえなかったらもう少し早めに追いつけたんだが」
「ぼやくなぼやくな。この雨のおかげで余計な邪魔も入りにくいわけだからな。それより、本当にこいつでいいのか? ローブ姿で顔もわからんぞ」
「いや、問題ないはずだ。広場でこいつと一緒にいたローブのやつが倒れたのは見ているからな。顔を隠すためにそいつのローブを借りたに決まっている」
「だな。なら、安心して仕事に取りかかるとするか」
周りが暗すぎるせいで何人いるのかはわからないけど、あっという間に複数の男たちに取り囲まれてしまっていた。それも、明らかに武装している男たちに。
「さて、このひどい雨の中どこにいくつもりか知らないが。ちょっと顔を改めさせてもらうぞ」
「いきなり、なにを――っ!? 待ってください、勝手に……あぁっ」
抵抗する暇もなく、男の一人にローブのフードを捲られてしまう。そうして露わにされたわたしの顔を見て、男たちが色めきたつのがわかった。……わかってしまった。
「この顔、やはりそうか。おまえ、スティリア王国元第一王女アデリア=ヴィルフォルドだな?」
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