トイレの天使

ににまる

トイレの天使

俺は10時が近づいている事を時計で確認し、席を立つ

「佐伯、今日も行くのか?飽きないなぁ」

「うるせぇ、良いだろ」

相変わらず同僚の吉田に揶揄われながら目的の場所へと歩き始める

「はいはい、戦果の報告よろしくね〜」

吉田はさほど興味がないらしくひらひらと手を振って俺を見送る


過活動膀胱...別名頻尿

それが俺、佐伯優28歳会社員の持病

これのせいで1時間に1度は絶対にトイレに駆け込まなきゃいけないし、何かに並ぶ時は大概水を絶たなくてはならない

学生の頃からこいつさえなけりゃと考えた事はクソほどあるが、この歳にもなるとこいつと一緒に生きる道を拓くようになってきていた

まぁ、そんな俺にも恋をしている相手がいる

会社内のトイレに入る道に置いてある黄色い看板に清掃中の文字、これが俺があの子を一目見るために必要な切符

今日もパッとトイレの入り口に看板が置かれていることを確認する

午前10時、2階南のトイレ

女性清掃員清掃中の看板

これは...会える!

トイレの中に至極普通を装って歩いて入る

トイレの扉を開けて中を覗くと3個並ぶ個室と反対側に並ぶ幾つかの小便器が見える

今は一番手前の扉が閉まっていて耳を澄ますとガシャガシャとトイレを掃除している音が聞こえてくる

俺は心の中でぬかった!と叫ぶ

掃除中だと顔が見れないじゃないか...!

会えない事に歯噛みしながらも彼女が掃除している隣の個室に入る

このまま横の個室の扉が開く音がするまで待っていよう

まぁ頻尿なので用は済まさなくてはならないのだが

このまま調子良くいき、彼女に会えれば彼女と会うのは実に14日振りのことになる

目の前に近づいた幸せに頬を緩ませながらふと考える

俺の人生の辞書に一番デカく書かれていたのは「頻尿」で「恋」なんて小さなものだったがあの子に出会った今は「頻尿」が「恋」へのおまけになっている

今のなっては彼女に会う口実になる頻尿万歳という晴れやかな気持ちでいっぱいだ

早く音がしないかなと思いながら耳を澄ます

暫く待っているとトイレを流す音と荷物をまとめているのであろう音が小さく聞こえてきた

来た!

俺もおもむろに席を立ち水を流す

早鐘を打つ心臓を抑えながら扉の鍵を開ける

神にも祈る気持ちで扉を開けると、予想通りに目の前に彼女がいた

顔はどこにでもいる女の子である

長い黒髪を高いところでお団子にしていてちょっと垂れ目、綺麗系よりは可愛い系、小動物系の顔立ちである

青い清掃員の制服にもっと青い手袋を肘までつけ、帽子を深くまで被っている

手にはポリバケツを買い物かごのように持ってきょとんと俺の方を見てふと彼女が口を開いた

「あのぉ、よく会いますねぇ...」

「あはは...本当ですね...」

まずい、俺が認知されている

顔と同じく可愛らしい声を聞けた事を喜ぶと同時にそんな事を思った

なぜだ、毎回この日はスーツも先週と違う色になるように工夫して三着しかないスーツを入れ替えている、ネクタイも毎週変えているのに!

彼女が俺の顔を覚えてくれた!?

いや、まさか、そんな事があるわけ...

「目のクマ薄くなったみたいでよかったですぅ」

覚えられている!!

目の下のクマは今まで過労でずっと付いていたが先週体を壊して5日間ずっと寝たきりだったのでクマはほとんど無くなっている

顔を覚えられていることへのあまりの嬉しさに発狂しないようにするのが限界であぁ、とかまぁ、みたいな気の利かない相槌しか出来なかった

クソ!ここで俺の恋愛体験の無さが響いたか!

心の俺は机を壊さん限りに台パンをしている

「あっ、邪魔ですよね、すみません」

「あぁ、ありがとうございます...」

ここで楽しい会話を弾ませる事ができればここまで俺に彼女がいないわけがない

自分の実力を知っている俺はそっとトイレの扉への道を開け、手洗い場へと向かう

やばい、嬉しい

今日のことだけで向こう一月頑張れる

手を洗いながらあの子に言われたクマが無い目を見る

今度から鏡を見るだけでにやけてしまいそうだ

手を洗ってハンカチで拭き、トイレを出ようと扉に手をかける

そこで後ろからまた天使の声が聞こえた

「向こう一月、頑張ってくださいねぇ」

今日は俺の命日なのだろうか

口を抑えながら必死で返事をする

「頑張り...ます」


自分の机に帰り席につきながら吉田に今日の戦果を話す

「本当に今日は俺の命日かもしれない」

恍惚と話し終えて胸に手を当てる俺に吉田がぼけっと聞く

「何で彼女最後に『向こう一月』って付けたの?」

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