幕間 とある農家の話

 クレセンド領北部の農村、セーレル。

 ドンヴァンという男は、10年前、妻であるイルアとの結婚を機にこの村に移り住んできた。

 

 ドンヴァンは体は大きいが、温厚で優しく、のんびりとした性格の男ですぐに村に馴染んだ。

 元は大工をしていたため、力仕事も、ちょっとした家具の修理なんかも、村人は彼を頼った。

 

 彼にとってセーレルは居心地が良く、なによりも愛する家族に囲まれた暮らしは、これ以上無い幸せを与えてくれていた。


「少し、風が強いね」


 いつも通りの一日、いつも通りの夜。

 妻の入れたコーヒーを一口飲みつつ、彼は窓の外へと目を向けた。


「北の方から嵐が流れてきたのかも。畑を見てくるよ」

「今から? もう外は真っ暗よ?」

「念のためさ。本当に嵐が来るなら、今のうちにこれからのことを考えないとだし」


 嵐によって農作物を駄目にされたことは何度もある。

 この辺りを統治しているクレセンド子爵家はそういった都合も配慮してくれるため、税を軽減してもらえるだけでなく、損害に対する補助も出してくれる。

 ただ、だからといって畑がどうなってもいいわけではない。

 手厚く守ってくれるからこそ、領民は領主へと恩義を果たすべきだと、ドンヴァンは考えていた。


「それなら、私も行くわ」

「イルアは待っててよ。お腹の子供に障ったら大変だ」

「でも……」

「大丈夫さ。力仕事は慣れてる」


 ドンヴァンはそう言いつつ、最愛の妻を抱きしめた。

 イルアは現在妊娠六ヶ月。彼らにとって二人目の子どもを身に宿していた。


「エミィがいたら大変だったね。雷が落ちると大騒ぎするから」

「そうね。今日が学校のお泊まり会で良かったわ」

「僕の故郷じゃ、教育なんて金持ちの道楽だった……それがここじゃみんな当たり前に受けられるなんて。本当に領主様には頭が上がらないよ」


 八歳になる娘のエミィは、学校で物書きを教わっているらしい。

 学校から帰るたびに、何を教わったか話してくれるが、ドンヴァンは文章の読み書きができないため、話の半分も理解できない。


 しかし、勉強したり、友達と遊んだり……楽しげに報告してくるエミィを見ていると、ドンヴァンもそれだけで幸せな気持ちになれた。

 そして思うのだ。妻や娘、これから生まれてくる子どもに恥じない父親になろう、と。


「っと、つい考え込んじゃった。それじゃあ、すぐに戻るから」

「ええ、気をつけて、貴方」


 ドンヴァンは雨用のコートを羽織り、外に出る。

 風は確かに強く、僅かだが雨も振りだしていた。


(この感じじゃ、一時間後には横殴りになってそうだな)


 北の方から吹き込んでくる季節外れの嵐は数年に一度あるか無いかだ。

 ネットを掛けたり、土寄せをしたりと、取れる対策を畑に施しつつ、いくつかの作物は駄目になってしまうかも、とドンヴァンは溜息を吐いた。


「さぁて、さっさと作業を終わらせちゃおう。遅くなるとイルアが心配――」


 そう呟いた瞬間だった。


——ズガガァーンッ!!


 ドンヴァンは雷がすぐそばに落ちるような轟音を聞いた、気がした。


 遠雷はまだ遠くの空を照らすだけで、辺りに雷の落ちた後も無く——いや、しかし、無情にも、ドンヴァンの意識はそれを最後に、終わっていた。


「…………」


 彼はぼうっと遠くを見ていた。

 遠雷も、雨雲も、揺れる木々も、彼の視界には映っていたが、彼はそのどれも見てはいなかった。

 ただ何を見るでもなく、何をするでもなく——時計が止まったように立ち尽くし続けた。


 ……暫くして、彼の耳にパシャパシャと、雨を弾くような足音が響いた。


「貴方!」


 それはイルアのものだった。

 ドンヴァンに言われたとおり待っていた彼女だが、あまりに夫の帰りが遅いため、探しにきたのだ。


「どうしたの、そんな立ちつくして。とにかく家に帰りましょう。風邪を引いてしまうわ——」


 イルアは慌ててドンヴァンの手を握る——瞬間。


——パシィンッ!!


 彼は、容赦なく、それを弾いた。


「……え?」

「『貴方』?」

「ど、どうしたの、貴方……」

「まただ。『貴方』、『貴方』だと? まるで我が輩を所有物のようにッ!!」


 それは確かに、ドンヴァンの声だった。

 ドンヴァンの体だった。


 しかし、イルアには、なぜかそれらが、愛する夫のものには思えなかった。

 手に触れた際の、異常な冷たさも。


「ドンヴァン……?」


 確かめるように、再び名前を呼ぶ。

 しかし、ドンヴァンは……応えない。


「ああ、なんと卑しく浅ましい女だ。我が輩を縛れるものなど、もうこの世には一つとて無いというのに」


 酷く冷たく、虚ろな声だった。

 イルアは思わず尻餅をついてしまう。

 今何が起きているか分からないまま……唯一できたのは、目の前の何かか自身の腹を隠そうと前屈みになることだけだった。



 彼の手にはいつの間にか、場にそぐわず美しい光を放つ剣が握られていた。



「卑しき女に、我が偉大なる裁きを」


 そして彼は、ドンヴァンの姿をした者は、一切の容赦も躊躇もなく、イルアへと刃を振り下ろした。 

 

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