雪の日
田中鈴木
起
日が落ちてしばらく経つはずだが、重い雲が街の灯りを反射するのか空は思いの外明るい。行き交う車の騒音も雑踏の喧騒も、どこか別の世界の音のように遠くに聞こえる。
『関係者以外立入禁止』の柵に阻まれるまで、もう10階分?20階分?分からないが、かなり上ってきた。外階段は誰も使う人がいないらしく、吹き込んだ雪には私の足跡しか残っていない。
雪が降ったのは昨日のことだ。電車が止まらなきゃいいね、と朝のニュースを観ながらお母さんと話していた。家を出る頃には積もるほどではなかった雪は、そのまま一日中降り続けて東京都心部にも5cmの積雪をもたらした、と今日のニュースで言っていた。私鉄のターミナル駅が集まるこの街では舗道の雪は踏み潰されて跡形もなかったが、こうして人気のない場所ではそのまま生き残っているらしい。
風はほとんどないが、遮るもののない外階段は寒い。居酒屋の看板が眼下に並び、赤や黄色の照明ででたらめに照らされた建物が浮かび上がる。フル回転する空調の室外機が、隣のビルの屋上に並んでいるのが見える。
ここから落ちたら、何秒で地表に着くのだろうか。
もうどれくらいここに居るのだろう。顔も指先も冷え切っている。湿ったローファーが気持ち悪い。濡れた靴下のせいで、足先の感覚がほとんどない。なんでわざわざ制服を着てきたんだろう私。
ぐずぐずしてないで、さっさと落ちればいいのに。いや落ちようと思ってここにきたわけじゃない。何となく、離れたくてここまで上ってきたんだ。何から?いろんなものから。思考があちこちに飛んでまとまらない。寒いし、早く終わりにしたい。
踊り場から少し身を乗り出すと、遠く下に路地が見えた。大通りから一歩入っただけなのに、暗い路地には人通りがまばらだ。これなら、落ちても誰かに迷惑かけたりはしないかな。手すりに残る雪を手で払うと、ゆっくり吸い込まれるように人のいない道に消えていった。
「あの〜…」
突然呼びかけられて体が跳ねる。そのまま落ちそうになり、慌てて手すりから体を突き放し、壁に体を預ける。ばくばく跳ねる心臓がうるさい。
「ええっと、ちょっといいですか?今、飛び降りようとしてました?」
階下から現れた、声の主を見る。女の子だ。たぶん、私と同じくらいの年齢。全体的に色素の薄い感じで、薄暗い蛍光灯に照らされ余計に消え入りそうに見える。なんだか申し訳なさそうに、もじもじとこちらを見上げている。
「えーと、あの、ですね。もし今から飛び降りようとしていたんでしたら、少しお願いがあるんですけど」
「……」
飛び降りようとしていた、んだろうか私。ぼんやりと手すりから身を乗り出していたんだから、そうなのかもしれない。自分のことなのに、ぜんぜん現実味が湧いてこない。全部が夢みたいだ。
答えない私をどう思ったのか、女の子は一度目を伏せた。そして、意を決したようにぱっと顔を上げる。
「でしたら、その命を少し分けていただけないでしょうか」
きらきらと潤む薄茶色の目が、綺麗だなと思った。曖昧で夢のようにふわふわした世界で、それだけが確かに生きているように私には見えた。
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