95# 暗き死神Ⅲ

 ライナスが放った暗黒鎌ダークサイスの極大の一撃は、岩山は消し飛ばし、火山口カルデラが如き巨大なクレーターを形成した。


 クレーターの底より地下水が噴き出し、簡易的な湖が出来る。


 出来た経緯に違いはあれど、それは正しくカルデラ湖の様であった。


 その湖に落ちたローファスは、深く深く沈んでいく。


 傷口より溢れ出る血が、水を赤黒く染めながら。


 ローファスの目に光は無く、その意識も深い闇へと沈んでいった。


 *


 見渡す限りの黒い世界。


 ローファスはふと、目の前に人影がある事に気付いた。


 黒い巨狼をソファの如く背もたれにした、黒髪の鋭い目付きの男。


 それは他でも無い自分自身——否、物語の四天王《影狼》のローファスの姿。


 《影狼》はローファスを見ると、嘲笑う様に鼻を鳴らす。


『無様なものだな。あんな老耄ジジイに良い様にされるとは』


 その言葉にローファスは、目を細める。


 自身の奥底にいるもう一つの存在——《影狼》の意思が表に出ることは度々あった。


 これまで、《影狼》と思われるどす黒い感情が溢れ出し、己の意思に反する行動を取ったり、時には語り掛けて来る事もあった。


 そんな過去を振り返っても、ここまで鮮明に目の前に現れるの事など、これまで無かった。


「幻覚——で、あって欲しいものだが…」


『現実逃避か? 救い様が無いな。散々俺の事を敗者と罵りながらこの様とは』


「…我ながら、実にうざったいな」


 こめかみを抑えながら、悩まし気に首を振るローファス。


 《影狼》は構わず続ける。


『だが、ここで死ぬなど御免だ。俺に代われ。続きは俺がやる』


「なに…?」


 自信満々に口角を上げる《影狼》に、ローファスは眉を顰める。


『ジジイの言う通りだ。下らん戦い方をしおって。有り余る魔力、使わなければ意味が無いだろう』


 ぽすぽすと巨狼の頭を撫でながら、嘲る様に笑う《影狼》。


 ローファスはふと、そんな《影狼》の身体に目を向ける。


 《影狼》の身体は、ローファスのものよりも幾分も細身だった。


 日頃から身体を鍛え、いつでも近接戦に対応出来る様にしているローファスの引き締まった身体とは雲泥の差。


「…そう、か」


 ローファスは察する。


 四天王《影狼》の道に進んだ自分は、身体を鍛える事を止め、近接戦を捨てて魔法を用いた遠距離戦に重点を置いたのだと。


 それは幾千幾万と近接戦で殺され、その弱点を放置する気に到底なれなかったローファスが、通らなかった道筋。


「だから、貴様は負けたのだろう——アベルとその愉快な仲間共に」


 ローファスの言葉に、《影狼》は額に青筋を立てる。


『魔力が無かったからだ。魔力さえあれば、あんな雑魚共…』


「魔力は有限。使っていればいずれ尽きる。もし再びその場に立たされれば、その時貴様は、きっと同じ言葉を吐いて、同じ様に敗北するのだろうな」


『おい、誰に喧嘩を売っている。俺と貴様は、謂わば合わせ鏡の様なもの。自分同士での争いなど無意味であろう』


「俺は——もう殺されるのは御免だ」


 ローファスの言葉に、《影狼》は呆れた様に肩を竦める。


『貴様、本当に俺——ローファス・レイ・ライトレスか? 死にたくない等とまるで幼子の様に。とんだ腰抜けではないか』


「…あ?」


『そうであろう。俺を含めた四天王は皆、レイモンドの為に命を賭けて——』


「おい」


 《影狼》の言葉を、ローファスは遮った。


 そのどす黒く濁った深淵の如き瞳を《影狼》に向け、ローファスは頭を傾ける。


「貴様、夢は見たか?」


『夢だと…? 何の話——』


「いや、聞き方が悪かったか。貴様は、何度殺された?」


『は?』


 質問の意図が分からず、《影狼》は眉を顰める。


『夢…ああ、貴様が見たという幾千万と殺されたとかいう夢の事か。俺はそれを知らん。故に殺されたのは一度——しかし一緒にされては困るな。実際に殺された俺と、たかだか何度か殺される夢を見た程度の貴様を一緒にされるのも心外だ』


 全く馬鹿な事を、と嘲笑する様に笑う《影狼》。


 ローファスはそれを静かに見据え、おかしなものでも見たかの様にくつくつと喉を鳴らして笑った。


 肩を震わせ、静かに笑うローファス。


 笑っている筈なのに、《影狼》にはそれが泣いている様に、そして怒っている様にも見え、その不気味さから笑みが消える。


『…何がおかしい』


「“たかだか夢”か。くくく…下らん。実に、下らん」


 ローファスの周囲の空間が歪む。


 その足元の影より、無数の暗黒の腕が溢れ出した。


 その異様さに、《影狼》の傍に座っていた黒い巨狼は、ぎょっと顔を顰める。


 ローファスのどす黒い瞳と目が合うと、甲高い悲鳴を上げ、《影狼》を置いて暗闇の中へと走り去った。


『どういう腹積りだ貴様…ここで俺とやり合う気か?』


 《影狼》が忌々し気に手を掲げ、魔法を発動させようとする。


 しかし、魔法は発動しなかった。


 ここはローファスの心象空間。


 謂わばローファス個人の精神世界であり、そこで起こり得る現象はローファスの精神に依存する。


 《影狼》が魔法を発動出来ない。


 それは、この世界で魔法を行使する——それだけの力が今の《影狼》に無いという事を意味する。


『馬鹿な、何故発動しない…!?』


 狼狽する《影狼》を前に、ローファスの影からは夥しい数の暗黒の腕が伸び、黒い心象空間を更に暗黒色に塗り潰していく。


『こんな事が…貴様は俺の筈だろう…! 何故これ程の力の差がある!?』


「さあな。月並みだが、俺の力が貴様の想定を超え、貴様の力が俺の想像以下だった——それだけだろう」


 ローファスの影が、遂には黒い心象空間を飲み込み、無数の黒い腕が《影狼》を抑え付け、拘束する。


 心象空間での強さは、精神力の強さと置き換えて良い。


 元々同一の存在であるローファスと《影狼》——ここまで明確に力の差が出る事は、本来であればあり得ない・・・・・


 精神力は、歩んできたその経験に依存する。


 人に与えられた短い時間の中では、どんな経験をしようとも、所詮はどんぐりの背比べ程度の違いしかない。


 しかしローファスは、《影狼》には無い経験がある。


 それは——二千万を超える数の死。


 それを経たローファスの精神性は、既に人のそれを超えていた。


『馬鹿な…! 俺無しで、ジジイにどうやって勝つ!?』


 無数の暗黒の腕に抑え込まれ、尚も《影狼》はもがきながら叫ぶ。


 ローファスは喚く《影狼》の頭を鷲掴み、静かに睨む。


「…いい加減、ガキの様に逃げるのは止めだ。向き合うとしよう——己の、過去の失敗と」


『…!』


 ローファスの言葉に、《影狼》は目を見開いて口を閉ざす。


 過去の失敗——その指す意味が、元がローファスと同質の存在である《影狼》には分かる。


 それはもう、痛い程に。


 ローファスの言う失敗とは、かつての魔力暴走の事。


 弟リーマスに重傷を負わせ、母カレンを恐怖させ、父ルーデンスに止められた——ローファスの人生における最大の失態。


 本邸を出るきっかけとなった、ライトレス領を滅ぼしかけた大災害——魔人化ハイエンド


『本気か…?』


 《影狼》の問いに、ローファスは迷いの無い目で返す。


 《影狼》は静かに息を吐き、肩の力を抜いた。


『そうか…そういう事なら、大人しくしておいてやる。それ・・は、俺が出来なかった事だからな。だが、もしもまた暴走する様な事があれば、その時は——その身体は俺のものだ』


 その言葉を最後に、《影狼》は抵抗を止め、ローファスの影に引き摺り込まれた。



 地下より溢れ出し、湖と化した水の底で、ローファスは目を覚ます。


 胸の傷より絶えず溢れ出る血に眉を顰めながら、ローファスは義手に収納していた護符を取り出した。


 それは以前、天空都市に赴く際に女中ユスリカより持たされた最上級の治癒魔法が込められた護符。


 天空都市では使う機会が無く、もしもの時の保険として義手に収納していた。


 まさか身内相手に使う羽目になるとは、とローファスは嘆息しつつ、護符に込められた魔法を発動させる。


 癒しの光がローファスを包み、心臓にまで達していた傷はみるみるうちに塞がった。


 治癒魔法では、傷を癒す事は出来ても、失った血まで戻る事は無い。


 ローファスが気を失っていた時間は、現実世界では五秒にも満たない僅かな時間。


 しかし、傷が心臓にまで達していた事もあり、夥しい量の血を失っていた。


 血が足りず、今にも意識が飛びそうな最中、ローファスは全身に魔力を巡らせる。


 かつて制御出来ず、暴走した魔人化。


 当時のそれは、意図した魔人化ではなかった。


 幼いローファスは魔力制御に優れていたが故に、好奇心の赴くままに人の身を超えた魔法を行使しようとしてしまった。


 通常であれば不発に終わる所だが、幸か不幸かローファスには、この上無く優れた魔力的素質があった。


 幼いローファスの肉体は、まるで適応するかの様に人の領域を超えた魔法を発動させるべく作り変えられる。


 そうして意図せず至った魔人化を、幼き日のローファスは制御する事が出来ず、暴走した。


 意図せずとはいえ、ローファスは一度魔人化を体験している。


 そして魔法に関して天性の才を持つローファスは、その一度で感覚を覚え理解していた——魔人化ハイエンドの本質を。


 これまでは意図的に避け、戦闘の選択肢にすら上がらなかった魔人化ハイエンド


 ローファスの身が暗黒に染まる。


 自ら封じていたその戦闘手段を、ローファスは今、解禁した。



 上空。


 足場も無しにふわふわと浮遊する死神——魔人化したライナスは、カルデラ湖に落ちたローファスを見下ろしていた。


 やっちまったな、とライナスは思う。


 つい力み、勢い余って《命を刈り取る農夫の鎌》でローファスを切り裂いてしまった。


 手応えからして、間違い無く致命傷。


『…ま、良いか』


 ライナスはなんとも軽い調子で肩を竦めた。


 死んだなら、所詮はそこまでの男。


 如何に魔法の素質があり実力があろうとも、勝利を掴めなければ意味は無い。


 敗者は弱者。


 そんな者、ライトレス家を背負って立つ者としては不適格。


 ライトレス家の当主として必要なのは、勝ち方に浪漫や拘りを持つ高潔さではなく、どんな手段を用いても勝利を手にせんとする狡猾さ。


 ローファスは、勝利への渇望が圧倒的に足りていなかった。


 こんな調子では、ここで死なずとも、いずれ何処の馬の骨とも知れぬ輩に呆気無く殺されていただろう。


 そうなる位ならば、ここで身内の手で死ぬ方が幾分かマシだ。


 敗者は、勝者に全て奪われる。


 命は当然、所有物も土地も、尊厳すらも。


 だから良かった。


 ここで身内の手に掛かって死ねるのだから、ローファスはなんと幸せな事か。


 ライナスは《命を刈り取る農夫の鎌》を振り上げる。


 それは、未だに水の底で消えずに残るローファスの魔力を——命の灯火を刈り取る為に。


『…まだリーマスおめぇの弟がいる。ライトレスは潰えん。安心して死ね——ローファス我が愛しの孫よ』


 鎌が振り下ろされる瞬間、ライナスはぴたりとその手を止める。


 振り下ろしたら死ぬ——そんな怖気、殺気を感じた。


 殺気の出所は、近くを飛んでいた黒い鳥からだった。


『…覗き見か? 相変わらず陰気な野郎だな——ルーデンスよぉ』


 ライナスは舌打ち混じりに黒い鳥——ルーデンスの使い魔を睨む。


『殺すなってか? 甘ちゃんが。そもそも、おめぇがそんなだからローファスが腑抜けに——』


 文句を言い掛けたライナスは、ぞわりとした嫌な感覚に襲われる。


 それは使い魔を介したルーデンスの殺気とは別の、もっと物理的なもの。


 カルデラの水底より発せられる、度を越した程に高密度の魔力波。


 地獄の底を覗き込んだかの様な怖気。


 ライナスの額に、冷や汗が浮かぶ。


『——魔人化ハイエンド…《生成なまなり》か。ルーデンスの猿真似の次は、俺の猿真似か。だが、破れかぶれの魔人化が通用する程、俺様は甘くねぇぞ』


 それに、ライナスの見立てでは、ローファスに魔人化ハイエンド——肉体を作り変える《生成なまなり》は向いていない。


 《生成》の出力は、術者の魔力の質と量に大きく依存する。


 魔力の質が人から離れたものである程、肉体も人から大きく離れたものに変化する。


 そして魔力量が多い程、それに応じて高い出力を発揮する——しかしその分、扱うには高い精神力が要求される。


 歴戦のライナスでも、ここまで自在に魔人化を扱える様になるまでに、習得してから十年余の鍛錬を要した。


 歴代ライトレス当主の中でもかなり魔力量の多いとされるライナスから見ても、ローファスの魔力量は度を越して膨大。


 そんなローファスの魔人化ハイエンド生成なまなり》は、想像を絶する程に扱いが困難であろう。


 並の精神力では暴走は必至。


 それこそ、神霊の類程の高い精神性でも無ければ、まともに扱えないだろう。


『追い詰められての暴走——下らねぇ幕引きだな…あ?』


 ふとライナスは、その度を越した高密度の魔力が——人に扱える領域を遥かに超過したその力が、妙に安定している様に感じた。


 何年も前の、ローファスの暴走による大災害——その時の荒々しく乱れた魔力とは違い、今のそれは小波一つ無い水面の様で——


『——お?』


 視界が傾く。


 音も無く、衝撃も無く、痛みも無く、ライナスの身体は上半身と下半身が別れていた。


 いつの間にか水面より伸びていた黒い壁が、ライナスを分断する形で天まで伸びていた。


 ライナスは瞬時に、その黒い壁が暗黒で出来たものでは無い事に気付く。


 それは物質では無く、謂わば斬跡——天に放たれた斬撃の軌跡。


『オイオイ…んだそりゃ? まさかロー坊の奴、世界ごと斬りやがったのか——怪物じゃねぇかよ』


 黒い壁——それは次元の裂け目。


 斬撃は空間——この世界諸共切り裂いていた。


 ライナスは力無く笑いながら、上半身と下半身に別れたまま落下する。


 それは身勝手にも、何処か満足気であった。



 地上、カルデラ湖のほとり。


 そこには険しい面持ちのルーデンスが立っていた。


 側には濡れた衣類を脱ぎ、上半身裸のまま胡座をかいて座るローファスと、それに寄り添う女中ユスリカの姿がある。


 ユスリカはローファスの胸部に刻まれた斬痕を治そうと治療魔法を掛けていた。


 既に魔法符により治療され、傷が塞がった後という事もあり、その傷痕を完全に消すのは困難。


 しかしユスリカは、その痛々しい傷痕をどうにか消そうと、治癒魔法を掛け続けていた。


 そしてその少し離れた所で、ふんどし一丁で正座させられているのは、魔人化を解いたライナスだった。


「あのぉ…ロー坊より儂の方がよっぽど重症なんじゃが。治療ならこっちをお願い出来んかのう、別嬪のお嬢ちゃんや」


 猫撫で声で懇願するライナスを、ユスリカは無視した。


 腹部から真っ二つにされたライナスだが、なんと生きていた。


 それというのも、ライナスの魔人化ハイエンド——《農夫の骸》は、アンデッドに近い性質を持ち合わせており、魔人化している最中、肉体の物理的な損傷は致命傷になり得ないという特性を持つ。


 それ故に、胴体を真っ二つに切り離された状態でも死ぬ事は無い。


 とはいえ、如何にアンデッドの特性を持つといっても、胴体が切り離された状態で魔人化が解ければ流石に死ぬ。


 ローファスに斬られ、別々に落ちた上半身と下半身を急いで駆けつけたルーデンスが回収し、胴体を繋げた状態で魔人化を解く事で、ライナスはどうにか復活を遂げた。


 ルーデンス自身、ちょっと本気で見捨てようか迷ったが、ローファスが殴り足りないかもと思い蘇生措置を施した。


 しかし魔人化状態で不死性を得ていたとはいえ、ライナスも無傷では無い。


 胴体の切り離されていた傷口は、深々と傷跡が残されており、今も尚血が滲んでいる。


「なあ、お嬢ちゃ——」


「黙っていろ」


 ユスリカに無視され、尚も助けを求めるその面の皮の厚さに、ルーデンスは舌打ち混じりにライナスの頰を引っ叩いて黙らせた。


 腫れた頰を抑え、信じられないと目を見開いて驚くライナスを無視し、ルーデンスはローファスを見る。


「無事な様で何よりだ。この阿呆…まさかここまで愚か者だったとは…」


「誰が阿呆じゃ。儂ぁまだボケてねぇぞ」


 ライナスは、再びルーデンスに引っ叩かれた。


 そしてルーデンスは、気を取り直した様にローファスに向き直る。


「これがライトレス家の習わしとは思うなよローファス。確かに当主の座を賭けた決闘を行う決まりだが、断じて身内同士で争う事をよしとしている訳では無い。ライナスこいつがおかしいだけで、ライトレス家はそんな野蛮な戦闘民族ではないからな」


 至極真面目な顔で捲し立てるルーデンスに、ローファスは肩を竦める。


「…分かっていますよ、そんな当たり前の事」


 ユスリカより治療を受けながら、ローファスはじろりとルーデンスを見返す。


「時に父上、学園入学までには済ませておきたいものですね——当主継承の儀を」


 ローファスの言葉に、周囲はピリついた空気に包まれた。


 無言で睨み合うローファスとルーデンス。


 そして、それをニヤニヤと眺めるライナス。


 ユスリカが慌てた様子で「せめて傷を癒してからに…!」と縋るが、ローファスは意に返さない。


 暫しの睨み合いの末、ルーデンスは溜息を一つ。


「…決闘は不要だ」


「はい…?」


 不要と断ずるルーデンスに、ローファスは眉を顰める。


「不要と言った。魔人化を完全に習得したのだろう。であれば、決闘する必要は無い。学園卒業後は、貴様がライトレス家の当主だ——ローファス」


 呆気なくもそう口にするルーデンスに、ローファスは納得出来ない様子で睨む。


「何を馬鹿な…そんなもの、認められる訳が無い」


「誰が認めんと? ライトレス家の現当主たる私が認めた、それが全てだ」


「詭弁を…!」


 尚も食い下がるローファスに、ルーデンスは肩を竦めつつ、ある方向を指差した。


 それはカルデラ湖から天に伸びる黒い壁——次元の裂け目であり、世界に刻まれた傷痕。


 人の領域から外れた所業。


「アレを防ぐ手段を、私は持たん」


「む…」


「無駄に命を散らす趣味は無い。そこの阿呆と違ってな」


 ルーデンスはそう口にして、外套を翻して背を向ける。


 そして正座するライナスの顔面を鷲掴んだ。


 「あだだだ」と苦痛の声を上げるライナスと共に、ルーデンスは影の中に沈み始める。


「此奴の処罰は後日話し合うとしよう——今は身体を休めろ」


 そして沈み込む際、ルーデンスはちらりとローファスを見た。


「…強くなったな——ローファス」


 ルーデンスはそう呟く様に言い、そのまま影の中に消えた。


 ローファスには、その時のルーデンスが少しだけ笑っていた様に見えた。


 父が笑った姿など久しく見ていなかったローファスは、暫しなんとも言えない顔で呆然としていた。



 ユスリカの努力虚しく、ローファスの胸の傷が消える事は無かった。


 必死に謝るユスリカを宥め、それでも気落ちから立ち直れない様子を見兼ね、傷を負っている側のローファスが逆に慰めるという一幕がありつつも、その日は幕を閉じた。


 因みに、この日の顛末を聞き及んだカルロスがブチ切れ、抜き身の剣を片手にライナスの屋敷に乗り込み、当人を追い回した挙句、割とガチめの説教をしたのだとか。


 その時のカルロスは、普段の冷静で穏やかな物腰からは考えられない程に荒れ狂っていたという。


 ライナスから見たそれは、剣聖となるよりも昔、共に戦場で暴れていた頃——《紅き鬼神》と呼ばれていた頃に戻ったかの様な、それはそれは凄まじい剣幕であり、曰く「本気で殺されるかと思った」らしい。

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