殺さない殺し屋

「昨日のターゲットの件ですけど」

 炊き出しの朝食を平らげたメロに、私は切り出した。河川敷に吹く朝の新鮮な風が、私達を撫でて街の日常へ溶けていく。メロはショッキングピンクの長髪を雑に掻いてへらりと笑った。

「うん? どんな奴だっけ」

「……もう忘れたんですか」

「んにゃ、単純に興味なぁい」

 吐息からアルコールを検知。まったく……朝から飲んでたんじゃ、仕事の話もできやしない。私はそっとチタン製の睫毛を伏せた。

「ん? ムー、怒った? 怒ってるっしょ?」

「私に怒りという感情は備わっていませんので」

「んでも今呆れた~って顔してたぞ。ほら、正直に言えよ~うりうりうり」

「無に対して何か意味を見出そうとするのは人間特有の思考です。……そしてうなじのボタンを連打しないでください。それリセットボタンなんですからもう少し丁重に扱ってくださいよ」

「いーいじゃんよお。どうせパスワード入力しねえと消えないんだし。あたし忘れたし」

「ちょっ、忘れたんですか? 私の大事な個人情報!」

「いたた、うるせえなあ。あたしはムーを手放すつもりなんてさらさらないんだから別にいいだろお?」

 こんなやり取りも日常茶飯事。キスを迫る主人の頭を引き剥がしてペットボトルの水を頬に押し付ける。いくら何でも酔いすぎ。絡まれるのは面倒だ。

 それを受け取るやメロは急に正座して、私に向き直った。その顔は真剣だ。目は坐っているけれど。

「あたしがいろいろ忘れちゃっても、ムーは覚えててくれよな」

「……貴方はもう少し、自分で覚えていられるよう努力をしてください」



 メロは殺し屋だ。でも命は奪わない。

 彼女は相手の頭に触れて念じるだけで記憶を消すことができるという、現代科学で説明がつかない恐るべき力を使い、日銭を稼いでいる。

 どうでも良い日々の悩み、長い人生で抱えてきた葛藤、有名人の暗殺計画、全世界の火種となりうる国家機密……メロは何でも角砂糖を紅茶に溶かすようにしゅわりと消してみせる。付いた通り名はメルティ・メロだ。

 しかしこの力も万能ではない。誰かの記憶を消す代わりに、メロ自身も記憶を失うのだ。失うのは消した記憶の質と量に比例する。

 人ひとりの記憶の量なんてたかが知れている。それなのに複数人の記憶を摘み食いしようと言うのだから、メロの思い出はいつも穴だらけだ。

 昨日の晩ご飯や何時に起きたのかなんてまるで覚えていないし、最近では大事なはずの本名、生まれた土地のこと、子供の頃のエピソードなんかも曖昧だ。

 こんな調子では生活が立ち行かないと、彼女は早い段階で気付いたのだろう。だから秋葉原で型落ちの私を買ったのだ。認知症患者の介助用アンドロイドの私を。

 私にあらかた個人情報を吹き込んだかと思うと、メロは安心したようにそれらを頭の中から手放した。今となっては彼女の記憶の番人となった私だけがそれらを知っている。

 少なくとも普通の生活が望めない彼女が真っ当に生きる道は、能力を使わないことだと思う。自分のために記憶を紡いでどこか会社勤めをして、家でも借りて質素でも温かい飯にありつけばいい。こんな怪しい殺し屋家業に首を突っ込まず、ドブネズミ彷徨うろつく高架下なんかでホームレスやってないで。

 しかし本人に全くそのつもりがないのだから仕方がない。

 口癖のようにメロは言う。

「人生細く長くなんて悠長なことはまっぴらだ。あたしにはムーっていう友達がいて、毎日酒飲めたらそれでいい」

「私はあくまで介助用の人形であって友達ではないですし、未成年の癖に飲まないで欲しいですし、部品が錆びるので室内暮らしがしたいです」

「あん? あたし未成年だっけ? まあ良いじゃん細かいこたあ」

 細かくないし大事なことだ。十六歳と三ヶ月五日目。酒に溺れるには些か早すぎる。

「あたしにとって忘れたくないことはちゃんと覚えてるから……大丈……夫」

 それだけ言って、メロは涎を垂らして眠りの世界に誘われた。

 忘れたくないこと。本名や住所以上に忘れたくないことってあるんだろうか。

 頭部のメモリが瞬時に計算した生体情報を視界の端に表示し、ピンク頭の主を見下ろした。恐らく彼女は三時間十二分後に起きて吐く。いつもそうだ。

「……ほら、馬鹿なこと言ってないで。風邪引きますよ」

 私は布団替わりのボロ布を掛けてやった。

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