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 ふたりが白い結婚を続けていて、周りも最初は困惑していた。

 時折執事から「お子は……」と尋ねられると、クルトは「自分が疲れているので、つくれなかった。申し訳ない」と言い、彼が執務で屋敷を出ているときはアメリーが「旦那様はお疲れですから」と言い訳する。

 本当になにもない代わりに、夜会に呼ばれた際はふたりで参加するものだから、ますますもって周りは困惑していた。

 諦めてくれたのはいつかはわからないが、二年もふたりでこういう生活を続けていたら、使用人たちはもうなにも言わなくなってしまった。

 アメリーは自分が陰口を叩かれるのではと危惧していたが、そんなことはなかった。むしろ侍女たちからはなぜか同情票を集めてしまっていた。


「結婚する前に相手に死別され、再婚先では放置だなんて……せめて子ができたら、離縁だってできますでしょうに」

「旦那様も前の奥様を深く愛しておられたから……」

「でも、放置されてもどうしようもないのではなくて?」


 アメリーはそれには閉口してしまっていた。


(旦那様はむしろ私にはもったいない方なのに。行く場所がない私に居場所をくださった方なのだから。でもそろそろ、伝手を使って養子縁組について考える頃かもしれない)


 さすがに二年もなにもなかったら、周りだって不安になる気持ちはよくわかる。

 妻としての義務として、世継ぎをどうにかしようとアメリーが夜会で知り合った貴族夫人の中で、次男三男のいる家庭をピックアップしていた矢先であった。


「奥様! 大変でございます!」


 アメリーの部屋の外で大きく叫ばれてしまった。


「旦那様の馬車が、落石事故に巻き込まれて……!」


 最初の結婚相手の時は、「可哀想に」としか思わなかったアメリーは、生まれて初めて血の気が引くという感覚を味わった。

 アメリーは馬車を走らせ、クルトが運ばれた病院へと向かった。薬の匂いが立ち込める廊下を通り抜け、彼の病室へと向かう。


「旦那様……!」


 倒れていると思っていた彼は、意外なことにベッドで上半身を起こして、窓辺を眺めていた。

 頭には包帯が巻かれ、薬の匂いを漂わせている。あちこち包帯が巻かれている割には、存外元気そうであった。

 アメリーの声に気付いたのか、クルトは振り返ると、滅多に見ない笑顔を向けてきた。


「やあ、心配かけてしまったね。エルナ」

「え……?」


 アメリーはその言葉に混乱した。

 エルナは、亡くなってしまったクルトの前妻の名前であった。

 彼の主治医は、アメリーと一対一で話をしてくれた。


「記憶の混濁が見られますね」

「記憶の混濁……ですか?」

「はい。頭を大きく打ち付けますと、記憶喪失になってしまうことがございます。しかし話をしましたが、一年間の記憶自体は失われている場所がございませんでした。おそらくは、亡くなられた奥様と今の奥様の記憶が置き換わってしまったのでしょう」

「そんな……これは元に戻るんでしょうか?」

「わかりません」


 主治医はきっぱりと言い切る。


「記憶の混濁は本来、頭を打ち付けた直後に起こっても、それが長いこと続くことはございません。しかし奥様が病院にいらっしゃるまでに元に戻ることがございませんでした。今はそのまま様子を見る以外にできることがございません」

「そうなん……ですか」

「しかしおふたりは夫婦ですから。よく話し合ってください。旦那様の話に合わせるか、奥様が記憶喪失を教えるか、お好きなように。どちらにしろ旦那様は混乱するでしょうから、支えてあげてください」


 そう言われてアメリーは困ったように俯いた。


(私のことを忘れて亡くなられた奥様とすり替わってしまったんだもの……本当のことを言う道理はないわね……でも。私、奥様のことなんてなにひとつ知らないわよ?)


 こうして、アメリーは執事長を呼び出して、クルトの記憶喪失について伝え、自分のことは前妻のエルナのように扱うようにと彼を通じて使用人たちに指示を飛ばすことになった。

 これでいいのだろうと思っていたが、アメリーは困ったことになるなんて、思いもしなかったのである。


****


「エルナ、ただいま帰ったよ!」

「……旦那様、お帰りなさいませ。今日は早いお帰りですね」

「早く君の顔が見たくてね。これは今日視察先でいただいたお菓子なのだけれど、よかったら一緒にいただかないかい?」


 今まで、夜会のとき以外は夫婦らしい生活なんてなかったものだから、クルトが人が変わったように態度が軟化したのに、アメリーは途方に暮れていた。

 夜会のときに腕を組んで歩くくらいしかスキンシップがなかったものだから、なにかの拍子に抱き締めてくる。キスを送ってくる。そのたびにアメリーが頬を赤らめさせるのだが、クルトは本気でわかっていないようだった。

 おまけに夜も寝室に入って来るようになった。夫婦の部屋すら分けていたものだから、アメリーはあまりにもの変わりように困り果てていた。

 こっそりと侍女を呼び出して話を聞いてみたら、侍女は大きく頷いた。


「本当に仲睦まじいご夫妻だったのです。亡くなられた奥様と旦那様は……」

「そう……もし私が奥様に成り代わっていたと知ったとき、旦那様の心身に負担はないかしら?」


 侍女は黙り込んでしまった。どうも大きく負担があると訴えたいらしいが、それをアメリーに言っていいかどうかを躊躇っているようだった。

 アメリーは溜息をついた。


「荷物だけは用意してもらってよろしいですか? 旦那様の記憶が元に戻った場合、私は旦那様を傷つけた以上一緒にはいられません。出ていきますから」

「そんな……奥様帰る場所は……」

「兄に頭を下げて、仕事をいただきますから。私のほうより旦那様のほうを気にしてあげてください」


 アメリーからしてみれば、帰るあてのない自分を二年以上も置いてくれ、ようやく妻の役割を果たしているのだ。それで彼に報いることができるだろう。

 だが、クルトが愛しているのはエルナである。エルナだと思って接してきた妻が別人だとしたら、彼は耐えられるのだろうか。


(今私に向けているものは、全て亡くなられた奥様のものだわ。私のものなんて思い上がって受け取っては駄目ね)


 アメリーはそう密やかに考えた。胸の痛みはあれども、それは今まで全くなかった夫婦の営みが生まれたことから、彼を愛していると錯覚してしまっているのだろうと誤魔化した。

 それにつけても、アメリーはクルトと出かけることが前よりもぐんと増えた。


「いい劇団の演目があるのだけれど、よかったら一緒に見に行かないかい?」

「……私が行ってよろしいんで?」

「君と一緒がいいんだよ」


 ふたりで舞台を見に行ったり、湖水の視察に出かけたり。周りからは「まことにおしどり夫婦で」と褒めそやされるたびに、アメリーの笑みの裏の顔が軋む。

 クルトに腰に手を回され、エスコートされるたびに、胸がざわつく。

 挙句の果てに、営みの際にクルトが「エルナ」と「アメリー」を混同することが増えてきたのである。

 いよいよアメリーは「まずい」と思い至った。


(私は亡くなられた奥様に向けられたものを欲している……駄目だわ。旦那様は記憶が戻りかけているのに)


 クルトに背中から抱きすくめられ、その温度を感じた。彼の体臭を吸い込んだ。その温度も匂いも好きだと悟ったところで、彼の気持ちは自分には向いていないのである。

 ある日、クルトが視察で出かけた際、とうとう彼女は侍女に話をした。


「お願い、荷物を出してちょうだい。私はすぐにでも出ていかなければならないのよ」

「奥様……考え直したほうがよろしいかと」

「どうして? 私は亡くなられた奥様にはなれないわ。私はアメリーであって、エルナ様ではないんだもの。あの方が後生大事に扱っていた方が、目が覚めたら全然別人だったなんて、そんな悪夢はあって?」

「奥様……旦那様は二年間も一緒に暮らしていた奥様に、そんなに薄情な扱いは致しませんよ?」


 侍女にそう説得されるものの、とうとうアメリーは我慢ならなくなり、無理矢理クローゼットの中身をぶちまけると、鞄の中にギューギューと押し込めはじめた。

 彼が記憶を取り戻す前にいなくならないと。彼が思い出す前にいなくならないと。彼に「エルナじゃない」と拒絶される前にいなくならないと。

 もうアメリーは、ただ一緒に住んでいただけの頃には戻れないとわかっていた。

 彼と一緒に出掛けるのが楽しかった。彼に抱き締められるのが嬉しかった。彼に求められるのが愛しかった。

 二年間も白い結婚を送っていたのだから、元に戻れると高を括っていたのに、寂しかったんだということを思い知らされてしまった。

 彼は居場所のない自分を置いてくれた恩人だというのに。未だに前妻のことを忘れられない人にそんな無体なことは、もうできなかった。


「うう……」


 とうとうアメリーは目尻から涙を溢した。どうしようもないとき、人は涙を流すらしい。

 鞄を閉め、そのまんまそれを持とうとしたとき。アメリーは目の前が真っ黒なことに気付いた。


(え…………?)


 頭がぐわんぐわんする上に、視界もぐにゃぐにゃに捻じ曲がる。そのまま倒れそうになったときだった。


「アメリー!!」


 開けっ放しだった彼女の部屋に、出かけていたはずのクルトが走り寄ってきて、そのまま彼女を抱きかかえたのだ。クルトは心底ほっとした顔をして、彼女に頬擦りした。


「旦那様……」

「こんな荷物を用意して、どうしたんだい? ひとりで旅行に行くなんてずるいよ」

「……出て行こうと思いまして……でも、今私の名前を……」

「……許しておくれ、アメリー。私はずっと君に甘えてばかりだった」

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