雪曇りを越えて

りあ

雪曇りを越えて

「野澤くん!私と一緒に、スキーやりませんかっ!」


 昼食時の騒めく学食で、一際大きな声が発せられた。

 一世一代の告白をするには、いささか場所がふさわしくないように思えるが、話したこともない異性に声をかけた女子学生は、それに匹敵するほどに必死な表情をしている。

 高めに結んだポニーテールと、切長の瞳が特徴的な彼女は、名を塩原蓮華といった。


 対する声をかけられた男は、一言で言えば無気力そうな学生だった。体格はいい方のはずだが、髪はぼさぼさで、着ている服も皺だらけ。

 そんな男、野澤穂高は、トレーをもったまま背を向けた。


「やりません」


 相手の名も尋ねずに、彼は空いているテーブルに向かって歩き出す。学食のあちこちから向けられる好奇の目線から逃げるように。


「どうしてですか?野澤くん、アルペンのジュニア選手権も出たことあるんでしょ?」


 それでも蓮華は諦めず、割り箸を割った穂高の隣に座り、説得を続ける。


「あ、ごめん!自己紹介忘れてた。私、社会学部二年の塩原蓮華っていいます」


 彼女の自己紹介を気にも留めず、ずぞぞぞ、と仏頂面でラーメンを啜り始める穂高。あまりにも印象の悪い態度に、周囲ではひそひそ話が始まる。


「私、インカレで勝ちたいの。でも、競技スキー部のみんなは、優勝なんかできるわけないって決めつけて」


 同じ部活のメンバーでも、熱意に差が出ることは珍しくない。大学であれば、スポーツを楽しむことを目的とするか、大会で結果を残すことを目的とするかで、所属するサークルも分かれるものだが、彼らの通う大学の競技スキー部は、全日本学生スキー選手権大会━━通称インカレ━━での優勝経験がなかった。

 一つでも総合順位が上がればいい、という大方の部員の考えと、絶対に優勝を目指す、という蓮華の考えは、ぶつかっていた。


 よって塩原蓮華は、「勝つ」ための新規部員を獲得するために、この態度の悪い物理学科生を勧誘に来たらしかった。


「生憎ですけど」


 麺を片付けるまで、自分を誘いに来た女子学生に肯定も否定も返さなかった穂高は、チャーシューを飲み込んでから、憂鬱そうに言葉を組み立て始めた。


「おれ、もうスキーはできないので」


「え…っ!?どうして?ブランクとかなら、一緒に練習頑張ったら、埋められますよ。勉強なら、私の友達や部の先輩に教えてもらえるよう、頼んでみるから」


「いや、そういう問題じゃないです」


「じゃあ、どういうこと?教えてくれないと、わかんないよ」


 ため息をついて、穂高は割り箸を置く。初めて蓮華の方に向けた顔は、苛立ちと諦観に彩られていた。


「おれがアルペンやってたって、どこから聞いてきたのかは知りませんけどね。ジュニア選手権のあと、怪我したんで」


「怪我…って」


「壊したところは色々ありますけど。まあ、脾臓ですね」


 口ではなんでもなさそうに、しかし、その相貌は酷く歪みきっていて。蓮華は、そんな彼にかける台詞を持たなかった。


 脾臓は人体において、血液の貯蔵や、リンパ球の産生をはじめとした免疫機能など、多くの働きをこなす器官である。

 小さな傷でも腹腔内への出血リスクが高く、破裂や摘出となれば、重大な後遺症の残る可能性が高い、そんな臓器。


「別に、スキーに限ったことじゃないですよ。過度な運動で、血圧が上がりすぎると、脾臓の傷が開くかもしれないんで」


 だから、もうやりません。彼は蓮華をそう、突き放して、学食を後にした。



 ひとたびゲレンデに立てば、斜面を滑らずに戻るという選択肢はほぼ、ない。


 ウィンタースポーツとしてのスキーは、各地のスキー場に集まる愛好家たちや、大回転やクロスカントリーなどに挑戦する選手まで、幅広い人々に親しまれている。

 そのなかでもアルペンスキー、それもスーパー大回転などの競技種目となれば、まさに銀世界のF1レースとすら言えるほど、滑降には速度が伴う。


 スキーヤーたちはその速度に、風を、雪を切り裂く感覚に魅了され、ゲレンデを滑り降りる。


 リフトは登りの一方通行だ。スキー場のそれは、乗り場がそもそも、降りを想定していない。

 ブーツや板の故障、急な体調不良を除き、自分の足で、板で降りなければ戻ることすらできないのだ。


 どれほどの恐怖があっても。どれほどのトラウマがあっても。ひとたびそこに立ってしまえば、滑り降りることしか、できないのだ。


「っ!!……はーっ、はーっ、はーっ」


 深夜。野澤穂高は、悪夢に魘され、目を覚ました。

 あのゲレンデに立つ夢。あのコースを滑る夢。積み上げてきたスキー人生、その全てを失ったあの日の夢。

 何度も何度も見続けてきた、だが、最近は現れる夜も減った夢。


「変なことに、誘われたから、か」


 競技スキー部。諦めなければならなかった目標、インカレ。現役で銀世界を滑るスキーヤーから、その舞台へ上ることを求められる。

 無知ゆえに、かくも残酷に、あの女子学生は穂高の傷を抉ったのだ。


 ため息をひとつついて、彼はもう一度布団に入り直す。しばらくはまた、悪夢に悩まされるだろうが、それもきっと、一週間もすれば収まるだろうと、自分に言い聞かせて。

 次の日また、塩原蓮華の勧誘を受けるとは、露ほども思わずに。



「野澤くんっ!」


 キャンパスの通用門。理学部の生徒のほとんどが使うそこで、蓮華は穂高を待っていた。

 必ず彼が通る確証はないはずだが、駆け寄る姿に疲れは見えなかった。


「昨日は、ごめんなさい。私、無神経だった」


 足早に教室を目指す穂高に追いすがりながら、彼女はただ、謝罪を続ける。


「インカレの練習方針で部長とぶつかって、どうしようかって悩んでた時に、一年生にジュニア選手権準優勝者がいるって聞いて。私、居ても立ってもいられなくなっちゃって。君がスキーから離れてたなんて。それも、怪我のせいだなんて、考えもしてませんでした。本当に、ごめんなさい」


 立ち止まって、勢いよく頭を下げる。彼女なりに悩んで、まっすぐに謝ることを選んだのだ。しかし、穂高の方はと言えば、振り返りもせずに、歩き続ける。


「別にいいです。というか、それ言いにきただけですか?」


「ううん。違う」


 取り付く島もない彼の返事に、それでも蓮華は諦めない。折れない。


「野澤穂高くん。私を、スーパーGで優勝させてくださいっ!」


 スーパーG、スーパー大回転。野澤穂高がかつて、ジュニア選手権で準優勝した種目。

 その言葉に、その望みに、ついに穂高は足を止めた。頭を下げたままの蓮華には見える余地もないが、彼の表情は、苛立ちを通り越して、はっきりと怒りを示していた。


「本気で言ってるんですか?」


「もちろん、私はいつだって本気。君に指導してもらえば、絶対に優勝できると思うから」


「総合優勝を目指してるんじゃなかったんですか」


「実績も説得力も足りないの。悔しいけど、私一人が騒いだって、競技スキー部が本当の意味で全力にはなってくれない」


 端々から本気と悔しさの滲む蓮華の言葉とは対照的に、穂高の言葉には、空虚さと酷薄さの響きしかなかった。


「おれは先輩の栄達への踏み台ですか」


「そんな訳ないっ!」


 ようやく顔をあげた彼女は、一つ下の後輩が、どれほどの憎しみを自分に向けているのかに、ようやく気がついた。


「おれに関わらないでください。おれはもう二度と、スキー板なんて見たくもないんです」


「そんな……」


 悲しげな瞳で立ち尽くす蓮華を振り切って、穂高は教室へ向かう。左胸に感じた幻痛は、古傷が開くようだった。



 それでも、蓮華は諦められなかった。


 初めてスキーをしたのは、中学生の時。両親に連れられて、おっかなびっくり斜面を滑った。

 次にゲレンデに立ったのは、高校三年生の時。受験を終えた後の開放感と相まって、人生最高の一日だった。

 そして、本気でアルペンスキーをするために、大学では部活に入って。去年のインカレで、壁を感じさせられた。


 塩原蓮華は、日課の筋トレを終えて、スポーツドリンクを手に汗を拭っていた。


 勝ちたい。誰よりも速く滑りたい。彼女は純粋に、そう思っている。

 スーパー大回転という競技は、滑降と大回転の中間に位置する、高速系の種目だ。

 大回転などの技巧系よりも、高いスピードで斜面を滑り降り、純粋なダウンヒルと違って、高低差が少ない代わりに、コースでの事前練習は許されていない。

 難しい競技だが、自分が一番にコースにシュプールを描き、誰にも追いつけないスピードで銀雪を走る感覚が、なにより蓮華は好きだった。


「やるからには、勝たなきゃじゃん」


 その独り言を聞いてか、一人の学生が近づいてくる。鮮やかに染められた金髪に、片耳のピアス。Tシャツに半袖のフリースを羽織った男は、親しげに蓮華に話しかけた。


「れーんげちゃん。今日も筋トレしてたのね」


「当間」


 一瞬、彼女の顔が曇る。軽薄そうな男は、競技スキー部の仲間だった。


「そんなに根詰めたって、インカレは五ヶ月後よ?」


「基礎体力はすぐ落ちるから。それに、私、体動かしてた方がすっきりするの」


「悩み?もしかして、後輩に告ってフラれたってマジなん?」


 はぁ、思わずため息が出る。スポーツドリンクを飲み干して、蓮華はベンチを立った。慌てて川場当間は追おうとするが、振り払うようなジェスチャーを返されてしまう。


「そんなんじゃないから」


「ちょ、おいおい。もうちょい付き合ってくれてもよくない?晩メシ奢るからさ」


 やっぱり、諦められない。彼女は、その思いを強くする。

 こういう男が同じ部にいる限り、総合優勝に向けて一致団結など叶わぬ夢だ。だからこそ、もっと熱意溢れる部員を獲得するために。本気になれない部員に、火をつけるために。

 自分が、勝つ。


 塩原蓮華は、明日も野澤穂高を訪ねることを決めた。



 毎日、毎日。晴れの日も、雨の日も。わざと別のルートを使っても、どこかしらで。

 蓮華は穂高に頭を下げにきた。

 スキーをしている人間を見るのが嫌いだから。正式なインストラクターの資格がないから。部活に入る気はないから。

 さまざまな言い訳をしても、彼女は「それでも」と言い続けた。時に具体的な解決案を出し、時に精神論で説得しようとし。


 三顧の礼、という言葉がある。

 人間、しつこく、しつこく、まっすぐな目で見られ続ければ、少なからず罪悪感の湧くものだ。穂高もまた例に漏れず、いい加減鬱陶しく思いつつも、彼女に協力するつもりになりかけている自分がいることに、気づいていた。


「お願い!君しかいないの。私を、優勝させてくださいっ!」


「嫌です。それじゃ」


 それでも、認められなかった。もう二度と、ゲレンデなど立ちたくもない。いつも通りに断り、いつも通りに立ち去る。

 今日もそれだけの、はずだった。


「お、君が蓮華ちゃんをフり続けてる後輩くん?」


 物理学教室の前に立つ、金髪の男がいなければ。


「うーん。顔は中の上?清潔感がないのがダメだね。少なくとも、蓮華ちゃんとは釣り合いそうにない」


「……誰ですか」


 初対面の男に不躾な言葉を向けられれば、自分に無頓着な穂高でも腹は立つ。


「当間、何しにきたの」


「いや、別にね。蓮華ちゃんに恥かかせてる奴の顔が見たかっただけさ」


「誰だか知りませんけど、おれが悪いみたいな風にいうのはやめてもらえますか。迷惑してるんですよ。自分をインカレで優勝させろって」


 心底めんどくさそうに、彼が言えば。毎日断られているとはいえ、蓮華の顔には陰ができた。


「おいおい、蓮華ちゃん。こんな冴えない男捕まえて、インカレ優勝?無理だって。やめときなよ」


「当間には関係ないでしょ」


「関係あるさ。俺だって部のメンバーだし?うちはひとつでも総合順位を上げられればいいって、部長の方針じゃん」


「私は、別に……認めてないから」


 ぐ、と歯を食いしばり、下を向く彼女に、当間は肩をすくめる。


「かるーく楽しもうよ。大会も大事だけどさ。そんなにストイックになっちゃって、どうすんの」


「俺らの部、優勝経験ないの知ってるでしょ?去年だって、十位。蓮華ちゃんだって、個人六位で、表彰台にも上がれてないじゃないか」


「無理なんだよ。もっと歴史ある強豪校は他にあるだろ?俺らは俺ららしく、かるーく、競技スキーやってましたっていう、実績作りだけしとこうよ」


 一言、一言が蓮華を鞭打つ。黙って横で聞いていた穂高からしても、この男のいうことは極端に……蓮華をぼっきりと折ることが目的であるかのように、聞こえた。


「あの」


「なに?後輩くん。俺、蓮華ちゃんに話してたんだけど?」


「あんた、おれの顔見にきたんでしょ?じゃあ、おれの話を聞くくらい必要経費じゃないですかね」


 だから、必要以上に棘を持たせて。彼は、間違いなく。喧嘩を売った。


「えー、おれからあんたに一つ、塩原先輩の代わりに言葉を贈ります」


「……なにかな?」


「『言っとけ。私たちは絶対優勝する』」


 ぼさぼさの髪の下で、爛々と瞳を輝かせ、親指を思い切り下へ向けた野澤穂高に、終始へらへらしていた川場当間はつい、後ずさる。

 何より、下を向いていたスキー少女が。後輩を説得し続けた彼女が。塩原蓮華が、信じられないという表情で、顔を上げた。


「野澤くん……っ!」


「じゃ、おれはこれで。塩原先輩、また午後」


 呆気に取られる二人を残して、穂高はその場を去っていく。


「んだよ、あいつ」


 がしがしと頭を掻きながら、当間も不機嫌そうに、いけ好かない後輩と別方向へ歩き始めた。

 残された蓮華は、しばらく立ち尽くした後、小さくガッツポーズをする。


「私の、勝ちっ」



 夕方5時といえば、数多のサークルにとって活動開始時刻であることが多い。

 競技スキー部も例に漏れず、活動を始める。最も、大学のキャンパスでできる練習が多くないため、部員の集まりは良くないが。

 競技スキー部の部室の前に座っていた穂高は、待ち人の到来に気づくと、開いていた小説を閉じた。


「ごめん!待たせちゃって」


「いいです。いつから始めるのか知らなかったから、早く来ただけなんで」


 急いで部室の鍵を開ける蓮華。しかし、招かれた形となった穂高は、その中には入ろうとせず、彼女を戸惑わせる。


「えっと、とりあえず作戦会議とか、そういうカンジで考えてたんだけど」


「必要ないです。それより先輩、普段はどういう練習してますか?」


「基礎的な筋トレだけ。それ以外にできることないって、教わったから」


 行っている筋トレのメニューを聞いた穂高は、左のこめかみをぐりぐりと指で押さえた。それをみた蓮華はといえば、呆れられたことはわかるものの、なぜかはわからないために、聞くことしか選択肢はなくなる。


「えーっと、まずかった?」


「先輩の練習法では、実地で必要なバランス感覚が全然身につきませんね」


 斜面を細い二本の板で滑るスキーにとって、バランス感覚は何より重要だ。雪のないオフシーズンに、どれほど効率的にバランス感覚を養えるかは、非常に重要なことだった。


「今日はとりあえず、おれが現役時代にやってた筋トレ教えますんで、それやってください。近いうちに練習道具、持ってくるんで」


「あ、ありがとう」


 蓮華は筋トレのメニューをメモした後に、もじもじと指を合わせた。聞きはぐっていたけれど、どうしても聞かなければならないことを切り出すために。


「ねえ、野澤くん。なんで、協力してくれる気に、なってくれたの?」


「別に、大した理由はないです」


 穂高はそっけなく返す。何度も何度も頭を下げた身としては、そんな答えでは納得できず、彼女は掘り下げた。


「どうしても。ちゃんと、理由が聞きたい」


「……気に入んなかっただけですよ」


「気に入らなかったって、なにが?」


「あなたみたいな、真剣にスキーに向き合ってる人が、馬鹿にされて、折れるところを見るのが、です」


 ぶっきらぼうに告げて、彼はメニューの書かれた紙を一つ上の少女に突き出す。


「あのいけ好かない先輩に吠え面かかせてやりたい、それだけです」


「うん。……うん!私、絶対優勝するから!私を優勝させてねっ!」


 その言葉に満足したのか、蓮華はぱっと花の咲くような笑顔を浮かべて、穂高の手を握った。



 正直、もう二度と話などしないつもりだった。

 とっくに消去した連絡先、忘れられなかった電話番号を入力してから、穂高は逡巡する。繋がるだろうか。本当に、頼るべきか。なにより、ちゃんと話せるか。

 迷い、悩み、スマホの画面を切ろうとするたびに、塩原蓮華の顔が頭をよぎる。


 この一ヶ月、彼女の練習を付きっきりで指導して、穂高は自分の大学の競技スキー部の「空気」を実感していた。

 今はまだオフシーズンだからと、部員の多くが一週間に一度程度しかトレーニングに来ない。

 蓮華がインラインスケートによる練習を知らなかったことから、ある程度は理解していたことだが、筋トレのメニューは基礎体力に関わることばかり。バランス感覚を養うメニューはほとんどなし。


 これでは、エンジョイ系のサークルと変わらないではないか。穂高が危機感を覚えるのに、時間はかからなかった。

 この空気感のままでは、雪が降り始めても、インカレまで満足にゲレンデに上がるのは、一度か二度か。

 練習時間の不足は、どんなスポーツ・種目でも致命的だが、スーパー大回転は試走が許されない。雪面に触れる時間が少なければ、初めて滑るコースに対応できるだけの応用力は、養えないだろう。


 蓮華を勝たせるために。「彼」の助力を得ることは、必須と言えた。


「……もしもし」


「穂高!?お前……いや。どうした、急に」


「サマーゲレンデ、用意できませんか、師匠」


 迷いを振り切って電話をかけた相手は、野澤穂高にとって、恩師であり、伯父であり、顔も見たくない人物のうちの一人だった。


「滑れねえだろうよ。お前」


 昔から、ずばずばと物を言う人だった。指導者としても、伯父としても厳しく、穂高は育てられた。

 ひょっとすると、両親よりも長い時間を一緒に過ごしたかもしれない相手。それが、野澤鹿雄だった。


「おれじゃない。大学の先輩が、滑る」


「二度と見たくないんじゃあ、なかったのか」


「色々あったんですよ。お願いできませんか?」


「……ああ。今週末からでいいか?」


 事情を聞くでもなく、彼はそう答える。その声音には、少しの老いが含まれているように、穂高は感じた。


「はい。じゃあ、今週末、また」


「待っとるよ」


 必要なことだけを話して、電話を切る。すぐに蓮華へメッセージを送り、穂高は息を吐いた。

 いつか、伯父に感じていた恐れと憧れ。それらに蓋をして、持っていくもののリストアップをする。

 もう、自分はスキーヤーではないから。師に教わることは、もうないのだから。



「蓮華ちゃん、ミーティング」


「今行く。野澤くんも来て」


「おれはいいです。部員じゃないので」


 雪が降り始めてからは、時間の流れがどんどん早くなっていった。瞬く間に年を越し、一月も半ばまで差し掛かれば、インカレまでもはや秒読み。

 ようやっと本腰をあげて練習に熱を上げ始めた競技スキー部は、少しだけ部活らしくなっていた。


「わかってると思うが、インカレまで一ヶ月を切った。各々、週末はゲレンデに出てるようだが、今週末は部員全員で会場の下見に行く」


「向こうでは何本か滑れるはずだから、そのつもりで用意しとけよ」


 真面目な部長の声に、部員がしっかり応える。蓮華が求めていた競技スキー部の姿。だが、彼女自身はといえば、話半分で手元のメモを見ていた。


「ちょっとれんげちゃーん?部長の話聞いてる?」


 この部が、穂高の在籍を認めることはなかった。

 本人も部活に入りたいわけではない、と否定するが、蓮華は彼が冷遇されることが嫌いだった。こういうミーティングに参加させてもらえないところなど、特に。


「だめだよ?ちゃんと話聞かなきゃ。協調性、大事でしょ」


「私には」


 顔を上げて、同学年の男を見る。彼女の表情は、研ぎ澄まされた刃物のように、引き締まっていた。


「一番、大事にしたいものがあるの」


 立ち上がり、ミーティングが終わる前に席を立つ蓮華を、もう誰も止めはしなかった。


 部室を出てから、足早にキャンパスを進む一つ上の先輩を、穂高は黙って追いかける。つかず、離れず、触れることもなく、振り払われることもなく。

 談笑する学生たちの間を抜け、校門を出て、最寄駅の地下道入り口に立ってようやく、蓮華は口を開いた。


「滑りたい」


「そんなことだろうとは思いました」


「別に、みんなと仲良くやりたくない訳じゃないのに」


「ゲレンデに出れば誰だって一人です」


「どうしてわかってくれないんだろう。どうして突き放しちゃうんだろう」


「それをなんとかするために、勝つんでしょ」


 そのやりとりは、決して初めてではなく、弱音を吐く蓮華に、穂高はいつも優しい言葉をかけはしない。

 でも、二人の間ではそのやりとりこそが、心を繋ぎ止めるための、なにより暖かい時間だった。


「うん。……行こう」


「はい」


 電車に乗って一路、穂高の地元へ。彼の伯父の元へ。

 銀雪の上では独りだとしても、今はふたりで、二人三脚で。

 前へ、前へ。



 その場にいる人たちに、厚く覆いかぶさってくるような、重々しい曇天の日だった。

 前日の夜散らついていた雪は止み、新雪がゲレンデを包む。

 試走に励む他種目の選手たちを横目に、穂高と伯父、そして蓮華はコースの下見を行っていた。


「コースの状況、雪の具合は悪かあないな。塩原ちゃん、上へあがるかい」


「はい。そうします」


 銀世界のあちこちに、赤と青のポールが突き立っている。周囲の選手たちの緊張感も含めて、ゲレンデは冬の空気よりもなお、張り詰めていた。


「どうだい、眺めは」


「さいっこう、ですね!」


 眼前に広がるのは、真白の大地と、葉を落とした木々。蒼天こそ見えないものの、リフトであがった頂からの景色は、実に美しいものだった。


「塩原先輩」


 だが。その景色がいかに美しく、どれほどスキーヤーの胸を躍らせるものであったとしても。

 穂高の表情は、曇天よりも、優れなかった。


「止めましょう」


「止めるって、なにを……?」


「今日の滑走を、です」


 驚いて蓮華が隣を見れば、穂高は斜面に視線を向けながら、どこか遠くに意識があるようだった。


「嫌な予感がするんですよ、先輩。おれ、どうしても、あなたに滑ってほしくない」


「滑ってほしくないって、そんなこと!晴れてこそいないけど、ゲレンデの状況はいいし、私のコンディションも悪くない。それは君も知ってるでしょ?」


「そういう問題じゃないんです」


「じゃあどういう問題!?」


 ぐ、と歯を食いしばり、穂高は目を逸らした。それを言葉にすることに、恐怖して。


「とにかく、おれ、棄権手続きしますから」


「待って!勝手なことしないでよ。滑るのは私。私は止めない」


「黙って従ってくださいよっ!おれなしじゃ、ここに立ててたかもわからないのにっ!」


 鬼気迫る表情で、穂高は蓮華のスキーウェアを掴んだ。少しだけ背の低い彼女は、正面からその視線を合わせる。


「君にはちゃんと、感謝してるつもり。君の経験と知識、鹿雄さんとのコネがなかったら、確かにここに立ててなかったかもしれない。でも、だからこそ、止めない。君は、一度だって私に練習方法を強制しなかったでしょ?」


 言葉に詰まり、穂高は掴んでいた手を離す。背を向け、リフトへと歩き出してから、吐き捨てるように、告げた。


「勝手にしてください」



 スタートは目前。一走目に割り振られた蓮華は、運の悪さよりも、喜びを感じていた。

 このコースに、真新しいシュプールを描けるのは自分だけだ。他の誰にもついてこられないほど、突き放してやる。

 喉奥に小骨のように突き刺さった穂高の存在を忘れるために、深呼吸をした。


「あいつのこと、許してやっちゃあくれないか」


「別に、怒ってないです。戸惑ってるだけで」


 滑走前、最後に声をかけてきたのは、野澤鹿雄だった。


「あの日も、こんな曇天だったんだよ」


 野澤穂高。全日本ジュニア選手権、スーパーG準優勝経験者。

 そんな彼が、大怪我によってスキー人生を奪われたのはここ、今日この日、塩原蓮華が滑るゲレンデだった。


「……私は、終わりませんよ」


「ああ。あいつも、分かってるさ。だけど、理屈じゃあないんだ」


「はい」


 板を履き、スタート位置に立つ。銀世界はもう、目の前で。

 視界には、真っ白な雪と、これから辿るべき旗門のポールしか、見えない。


「行って来な、塩原ちゃん」


「はいっ!絶対勝ちますっ!」


 ひとたびゲレンデに立てば、後戻りをする手段はない。

 前へ。下へ。スキーヤーは危険を跳ね除け、美しいシュプールを雪面に描く。

 その舞台に立ったのだ。もう、誰であろうと、逃げることはできないのだ。


 3.


 2.


 1.


「蓮華先輩っ!!!!」


 刹那。雪山を切り裂いて、声が響いた。


「負けるなっ!!!!」


 言われなくとも。


 塩原蓮華は、銀世界を駆けた。



 45秒35。

 誰より早い彼女の滑りは、曇天すら吹き飛ばした。


「ほら」


「私の、勝ち」


 見事な逃げ切りを決め、野澤穂高の前に立った彼女の手には。

 優勝の栄冠が、握られていた。

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雪曇りを越えて りあ @hiyokoriakyo

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