その跳躍は、心を動かす。

藤原くう

第一話

 人の言葉がわかるようになったのはいつからだったか。


 その言葉がピンと伸びた耳から脳へと伝わり、それまでは音としか認知できていなかったものが意味を成した。


 それは、命を失った友達をバカにする言葉。


 理解した瞬間、あたしの体は動いていた。落雷のようないななきがほとばしり、感情のままに体が跳ねた。どこぞの車のエンブレムよろしく前足を振り上げ、そのまぬけな人間にのしかかる。その小さな体を一蹴りすれば、情けない悲鳴がいともたやすく聞こえた。もう一蹴りで懇願する声。あたしよりも小さな体から悲鳴がこぼれ、敷かれたふかふかの寝床に血が飛び散ったが、気にはならなかった。


 不意に、ちくりと痛みが走った。ハチに刺された時のような、鋭い痛み。振りかえれば、細長い筒状のもの――後で知ったのだが麻酔銃というやつらしい――を向けた調教師の姿があった。


 その目には驚きのようなものが浮かんでいた。それはあたしの目に浮かんでいたものと大して変わらなかっただろう。


 ――どうして、そんなことをしてるんだ。


 だけども、相手の瞳はすぐに怒りに覆われた。


 痛みは熱となって全身へと広がる。それは、温泉に入った後のふわふわとした気持ちよさに似ていて、あたしは意識を手放した。




 ボロボロになった新聞が目の前に転がっている。ちょうど一年前の新聞には、あたしがやったことの顛末が簡素に――そして、人間側に偏った視点から記述されていた。


 競走馬に蹴られた騎手が重傷。


 あたしは新聞を蹴っ飛ばす。むしゃくしゃするのは、あいつが突然蹴られたように書かれていることだ。こんな書かれ方をすればこっちが悪いみたいではないか。悪いのは侮辱してきたあいつの方だってのに。


 裏返った新聞には騎手の写真が掲載されていた。憎きあいつではなく、女性騎手のようである。興味が頭をもたげたけれども、その興味はニンジンの香りで吹き飛ばされた。そういえば、もうすぐ昼食の時間ではないか。


 厩舎に調教師がやってくる。若い顔つきの男がバケツ一杯のニンジンを仲間たちへと配っていく。たいていは入り口の近くから行われ、一番奥のあたしは最後だ。


 やっとこさやってきた新人の顔はひきつっていた。大方、あたしのことを知っているのだろう。おっかなびっくりバケツを置こうとした瞬間にヒヒンと鳴いてやる。男は飛び上がって、脱兎のごとく逃げ出していく。その顔があまりにおかしくて、転げまわってしまいそうだ。


 慌てて逃げ去っていったせいで、バケツからニンジンがこぼれていた。首を伸ばして、それを食べる。一日三度のご飯を除けば、最近の楽しみなんてあの男をからかうくらいしかなかった。


 ちょっと前までは、記者というやつが光る装置をやってくるものだから、やかましくも張り合いがあった。あっちがデジカメとやらで脅かしてくるなら、こっちは自慢の後ろ足で蹴っ飛ばすだけだ。


 それに、ちょっと前まではレースにも出ていたのだ。あたしの両親ひいてはその親も名の知れた名馬で、あたしはその血をいい感じに受け継いでいるらしい。だから、あたしに賭けるヒトは多い。


 ――だけども、あたしはヒトが嫌いだ。わざと負けて、あいつらが悲しむのを楽しんだ。スタートした瞬間に飛び上がったり、騎手を落っことしたり、隣の馬に噛みついたり、外側のラチに沿ってゆったり走ってみたり……。どれもご先祖様がやったということを真似しただけなんだけど、ご先祖様の再来とか言われてむしろ喜ばれてしまう。それで真面目に走れば、できるじゃないかと褒められる。


 しょうがないのでピョンピョン飛び回ることにした。内側のラチを飛び越え、ダートを横切り、障害レース用の『赤レンガ』を飛び越える。ここまですれば、さすがにレースに出なくても済むだろう。あたしはそう考えたんだけど、どうやら短絡的な考えだったらしい。だって、今度は障害競走へと出場する羽目になってしまったのだから。


 ニンジンがマズく感じるのは、気分が悪いから。あたしは生まれてこの方、平地競争しかやっていない。全力疾走で生け垣やら柵やらを飛び越えたことはなかった。ヒトだってはじめてウマと接するとき、緊張するだろう。あたしたちだってそれは同じで、耳を伏せたくなるのだ。


 ため息交じりの声が漏れた。こんな時友達がいればなあ、なんて考えが心の窓の隙間から吹き寄せて、寂しくなってしまう。


 厩舎の中がやにわに騒がしくなったのはその時であった。仲間たちがそわそわざわざわとし始める。どこかへと連れていかれたきり帰ってこない日ではないから、誰かよそ者が来たのだろう。開かれた厩舎の扉の近くで声がする。聞きなじみのある声と応対するのは、しゃちほこばった女性の声。その声は次第に近づいてくる。


 足音二つが、あたしの馬房の前で立ち止まった。


 カンカンと扉を叩く音がした。聞こえてはいたものの、振り向く気にはなれなかった。


「あれがファストリトリーブですか」


 ええそうです、と調教師が返事をする。ファストリトリーブというのは、あたしの名前。ちなみに母はストップアンドゴーで、妹はダンストゥイッチ。名付けたのは釣り好きの馬主である。


 名前を呼ばれたことで、あたしの耳が無意識に反応する。純粋無垢の権化のときに受けた調教のせいだ。まったく忌々しい。


 振り返ると、そこには騎手の服に身を包んだ女が立っていた。あたしが見ているように、目の前の女もあたしへ真面目腐った視線を向けてくる。別に凝視されても困るものでもなし、こっちも相手を凝視してやる。しかし、その顔には見覚えがあった。直接会った記憶はないんだけど、一体どこで見たんだろうか……。


「えっと。何か月くらいレースを離れてるんでしたっけ」


「もう半年は」


「ということは阪神でのレースが最後ですか」


「ええ。あのレースは特にひどかったものですから」


 ひどいことを言うものだと、あたしは抗議の声を上げる。最後のレースであり最初のG1レースであったジュベナイルフィリーズは、二歳牝馬のみが出場できるレースだ。


 G2G3とは比べ物にならない観客の数に、あたしも舞い上がっていた感はいなめない。最初なんか応援されるのが嬉しくって真面目に走ってしまったけれども、800メートルほど走ったところで気が付いた。ここで一着になるとオークスを目標にでも据えられるのではないか。それで、観客席めがけて走っていった。大枚をはたいたヒトからすれば迷惑だっただろうが、ヒトの都合など知ったこっちゃない。


 とにかく、首位からドンケツまでの陥落――それも怪我をしたわけでもなく、落馬したわけでもない――という前代未聞のことを引き起こしたあたしは、気性に難があるという烙印を尻尾に巻き付けられ、障害競走への転向が決定したのだった。……まあこのリボンは、嫌いなあいつを半殺しにしたときのなんだけど。


 女が近づいてくる。鼻息を荒くしてみるが、気にも留めない。そわそわとして、いつでもケリを入れられるようにする。そうすれば、たいていの騎手はビビッて動きが硬くなる。逆にベテランの調教師にはあまり通じない脅し。


 それなのに、女は平然としていた。正面から近づいてきて、あたしの首元へ触れようと手を伸ばす。その手を甘噛みしてやろうと、あたしは首を動かす。それを察知した調教師があっと声を上げるが制止の声は間に合わない――。


 女がぬるりと動き、噛みつきを避ける。たまたまなのか、それとも意図してやったものなのか。


 女に対する興味がわいてきたととともに、頭の中に文字が閃いた。


 こいつ確か、高宮桜花っていう名前じゃなかったか。先ほどの新聞の一面いっぱいに掲載された写真と目の前の女は、ぴたりと一致していた。愛称は『G1ちゃん』とかなんとか。


 それはさておき、嫌な予感がした。騎手が競走馬を直接見に来るときなんて、一つしかない。虫の居所が分からなくなってしまったかのように、あたしはそわそわする。これは演技ではなく、臆病なあたしたちの本能がそうさせるのだからどうしようもない。


 桜花の手があたしの体をポンと叩く。あたしを安心させるかのように優し気な手つきに、安堵すると同時に怒りがこみあげてきた。


「体が締まっていて気性も激しい……いい馬だと思います。でもわたしでいいんですか? 障害競走が得意な騎手は他にいますけど……」


「彼らは通常の競走馬を操るのには慣れていませんでしょう?」


「それは、そうですけど」


「おっしゃる通りこの子は暴れ馬ですから、慣れているジョッキーでないと操れないでしょう。それに貴女なら障害競走でも十二分に活躍できるはずです」


「…………はい」


 期待されていると同時に、その返事がやけに遅れていたことが妙に気になった。とはいえその疑問は、この女をのせて走らなければならないという事実に紛れて忘れてしまった。



 次の日から、桜花とともに障害競走へ向けた練習が始まった。同時に、どちらが上かを決める戦いの火蓋も切られた。


 桜花があたしの上に乗り、操縦する。それが競走馬とジョッキーの関係。


 だけど、どうしてそんなことをしなければならない? その役目はヒトから押し付けられたものではないか。従う理由が思いつかない。――例え、競走馬というものが走らされるために生み出された存在だとしても。


 あたしは、あたしがしたいようにする。


 だから、鞭で叩かれたって動くつもりはなかった。梃子でも持ってきやがれと思っていたら、何もしてこないではないか。


 いや、一度か二度かは手綱が引っ張られたかもしれない。だけども、それだけだった。どっしり腰を据えて動こうとせず、それ以上扶助を与えてこないのはどういうことなのか。


 鞍上の騎手の様子を窺えば、桜花はどこか上の空だった。考えているのは、あたしのことだろうか。いや違うような気がする。――これは飼いならされた野生の直感であったが、たぶん合っているはず。あたしのことを考えているやつらは揃ってしかめっ面で、どうやって操ったものかと思案しているのだ。


 桜花は違った。他のことを考えている。それはそれでむしゃくしゃしてくる。さっきまでは走らないと誓っていたあたしは、反射的に駆けだしていた。これで振り落とされでもしたら、コイツもトラウマになって逃げだすだろう。


 そう考えていたんだけど、あたしが急に走り出しても桜花は手綱を離さなかった。あたしに抱きつき、低い姿勢になって体勢を整え、すぐに手綱を引く。それは加速の合図。


 ――やってやろうじゃん。


 今あたしがいるトレセンの周囲には、競走馬のための練習施設がごまんとあった。競馬場のコースを模したものもあり、そこであたしたちは走っている。京都競馬場のような坂もなく平坦で走りやすい。全力を出すにはうってつけ。


 踏みしめられた人工芝が跳ね、直線を滑るように駆ける。


 今のあたしはまさしく風だ。吹き荒れる暴風か――馬主なら最高速のリトリーブだと評するかも。


 桜花は何も指示を出さずに、あたしが走るままに任せている。そんな奴には、はじめて出会った。ジグザグに走ってもラチに接近してもそれは変わらなかった。反応してくれなければ張り合いがない。あたしはまっすぐ走ることに専念することにした。何もしてこないなら、この気持ちよさに身を任せるまでだ。


 ぐんぐんと加速する。そこここにはどこかのレースで顔を合わせたこともある馬たちがいて、彼らを難なく抜かしていく。その顔は驚きに満ちていて、つい笑ってしまった。


 バックストレートを抜け、カーブへと差し掛かった。最高速のまま走り抜けようとするが、体の右側が重い。これが遠心力なのは、他の騎手が言っていたからわかる。だが言葉を知っていても、ラチから離れていくのを止められなければ意味がない。


 手綱が動くと同時に、体の上の重みが内側へと移動する。一瞬、その動きに逆らいそうになって、気が付いた。やや斜めに傾いた現在の姿勢は先ほどよりも遠心力を感じない。スピードも加速こそしていなかったが、落ちてもいない。それに癪ではあったが、かなり走りやすかった。


 気が付くと一周が終わっていた。手綱からはすでに、意思が失われていた。走り続けてもいいし立ち止まってもいい。鞍上の存在は、あたしの意思を尊重するつもりらしかった。


 そんな応対をされたことは一度もなくて、あたしは困惑する。


 悩んでいるうちに自然と速度が落ちて、脚が止まった。躍動する心臓の鼓動が火照った体の中で心地よく心音を響かせている。気持ちの良い汗をかく体が、ポンポンと叩かれた。


「カーブが苦手なら練習しないとね」


 走りを褒めるように手が、あたしを叩く。体温とは別の熱がこみあげてきて、あたしは再び走りだす。



 桜花は変わり者だった。少なくとも、あたしが知る騎手とは変わっていた。


 自分が乗る馬の世話をしに来るなんて初めてだった。最初は、寝床を荒らされるような気がして、しきりにいなないていたものだ。だけど、騎手とは思えないほど手慣れていた。騎手というよりは調教師に近いんじゃないかというほどに手際がいい。その上、威嚇にビビったりしないものだから、あたしの方も任せることにした。


 それに、桜花のことが知りたかった。近くで見ていれば、何か分かるのではないかと思ったのだ。


 といっても、分かったことといえば桜花は障害競走に出たことがないくせして、あたしを跳躍させるのが上手かったってことくらいだ。


 障害競争はその名の通り、数多の障害が存在するコースを走らなければならない。竹柵、生垣、水濠などが三千メートル以上の距離の中に配置されている。長距離は苦手じゃないけど、何かを飛び越えるのは苦手だ。ドキドキする。よく跳躍する癖に、なんて言う奴はあたしが何もない場所でジャンプしていたのを忘れている。


 そういうわけだから、いざ竹柵の前に立つと心臓がキュッと縮んだ。生垣や人工障害よりはかき分けられる分飛び越えやすい。――なんて言われても、跳ぶことそのものが苦手なのだから大して変わらない。


 正直、始めたての頃は見られたものじゃなかったと思う。柵の目前で、びょんと垂直跳びをしていた。前半分は乗り越えられても、後ろ足とぶつかる。速度感はゼロだし、一度は柵の真ん中に挟まってしまった。あれはすごく情けなかった。


 このままでは柵さえも飛び越えられないのではないか――そう思うほどのひどさだったけど、桜花は苛立ちを露わにはしていなかったし、教え方だって丁寧だった。


 まずは柵まで加速することからはじめ、跳躍するタイミングを頭に刻み込まれた。あまりに早く、あまりに遠いところから跳ばないいけないことに眩暈がしたが、十分に加速し思いきり跳べば、あたしの体は軽々宙を舞った。怖がっていたのがバカみたいに容易かったから、その後も調子に乗って跳躍し続けたりもした。それでも何も言わなかった。


 桜花は、あたしがやりたいようにやらせてくれる。


 ――どうして。


 その問いかけは決して伝わらない。相手の言葉はわかるくせに、こっちの言葉はただの鳴き声として処理されるのだから歯がゆかった。


 ヒトの言葉が理解できていなければ、ヒトの悪意を知ることはなかっただろう。こうやって、悪意とは無縁の対応をされていることに困惑を覚えることだってなかった。


 悶々とした感情を抱えながら、桜花を乗せたあたしは走る。


 特訓を始めてから二か月後にはオープンレースへと出場し、そして勝利した。あっけないくらい簡単で、走っていたこっちが驚いたくらいだ。驚いた顔を向けてきやがったのは、観客とか調教師とか馬主の奴だった。まあ、バカみたいに開いたあの口を見られただけでも満足といえば満足か。


 どうせ、あたしが障害競走を走っていることに――その上、勝利したことにびっくりしたのだろう。


 どうして真面目に走ったのかなんて、あたしにもわからなかった。


 どういうわけか、走りたい気持ちになってしまった。桜花の走らせ方は他の騎手とは違って、馬に命令してこない。ほとんどこっちに任せっきりで、こっちが困ったときに操縦するって感じ。自由に走らせてもらっているのだから、あたしとしても不満はない。枠外へ走っても、観客へと駆けて行っても文句を言わない。


 あたしが勝手するものだから、勝利することもあれば負けることもある。あっちでは歓喜の声が上がり、こっちでは悲鳴混じりの紙くずとなった券が宙を舞った。


 憎しみでできたレンズを外して見た世界は、これまでとは違い、ひどく眩しくて。


 ――これなら、走ってやってもいいのかもしれない。


 だけども、あたしを労う桜花の手はどこか弱弱しかった。



 中山大障害への出場が決定したのは、翌年の秋のことだ。中山大障害とは障害競走におけるその年最後の重賞レースであり、二つしかないG1レースの一つである。障害競走が主戦の馬にとってはこれ以上の舞台はないし、実際、火花散らす激戦が何度も繰り返された。


 そんな晴れ舞台へ、それほど勝っているわけでもないあたしが出場することになったのは、馬主の意向らしい。


 はた迷惑ったらありゃしなかった。あたしはできる限り走りたくないっていうのに。


 いきりたつあたしを、桜花が見つめていることに気が付いた。その顔はどこか思いつめている。


 おや、と思った。そのような表情をする彼女を初めて見たからだった。理由を訊ねようにもあたしが話せるのは馬の言葉だけだ。近くにいるこっちまで不安になってしょうがないから、そんな表情しないでほしい。


 桜花は何かを言うことなく、いつものように訓練を終えた。いつも以上に言葉数が少ないから、こっちまで緊張してくる。


 厩舎へと戻ってきたときにはすでに、仲間たちは夕食を終えていた。厩舎には、あたしの分のご飯がすでに用意されていた。くたくたになった体でも、セリ科の植物を見ると不思議なことにお腹が空いてくる。


 ピカピカのバケツに頭を突っ込み、パクパクもしゃもしゃとニンジンを咀嚼する間、桜花はあたしの隣に立って、ブラシをかけてくれていた。いつものように、あたしの健康状態を確認してくれているのだ。


「――あのさ」


 そのように桜花が声をかけてくるのは、はじめてだった。あたしの耳もピクリと反応。咀嚼は止めなかったが、意識のほとんどは桜花へと向いていた。


「わたし次のレースでクビになるんだ」


 顔が上がる。その拍子に、咥えようとしていたにんじんがポロリと落ちた。てんてんと転がるニンジンには意識が向かない。首を動かして隣の桜花を見れば、その生真面目な顔が悲しさに揺れていた。何かの冗談というわけではない。というか、桜花は冗談を言うようなタイプではない。


 どうして、という意思をこめて桜花を見る。あたしの問いかけに答えるように桜花が言葉を紡ぐ。


「だって、大した成績を残せなかったもの。わたしならってことで選んでもらったのにね」


 反射的に首を振る。それは、あたしが真面目に走らなかったからで。


 そうしたら桜花が首を振った。


「ううん。騎手であるわたしのせいだよ。だって、そうじゃないとわたしはいらないでしょ?」


 悲しそうに笑わないでほしい。桜花がいるから、走ることが楽しいと思えてきたところなのに。


 そうだ。進んで走りたくはなかったけども、だからといって走るのが嫌いなわけじゃない。ううん。むしろ――。


 どうすればいいのかわからなくて、あたしはそわそわしてしまう。不安が馬の本能として、行動に現れる。


「心配しないで。わたしがいなくてもあなたならきっと大丈夫。柵だって簡単に跳べるようになったしね」


 ぐるぐるぐるぐる回るあたしを、桜花は弱々しい微笑みを湛えて見つめていた。


「最後に一つだけ、お願いがあるの」


 ――今度の中山大障害で勝ちたい。


「勝って、みんなを見返してやりたい。みんなわたしのことを『G1ちゃん』って呼ぶの。高松桜花だから、G1ちゃん。つまりね、わたしがG1で勝ったことがないことを揶揄してる――ってわけじゃないのは、わかってるつもりなの。でも、そう聞こえる。だから」


 だから、G1タイトルを獲得したい。


 桜花は絞り出すように言った。


 言っていることは何一つとしてわからなかった。察せられたのは、あたしがG1なんていう大層なレースへ出場することになった理由くらいのものだ。


 ――だけど、見返してやりたいという気持ちは理解できた。


 見返す。


 バカにしてきたやつらを見返す。それを達成したときに拝める、あいつらの間抜けな顔を想像するだけで楽しい。じゃあ、実際に叶えたとしたら、もっと楽しいに違いなかった。


 あたしは、衛星のように回るのを止めて、一度跳ねる。それから、桜花の手のひらを舐めた。泣いているときはいつも、そうして慰められていたものだ。


 桜花は驚いたように目を見開き、ありがとう、と小さく呟いた。



 その年のレースはたぶん、あたしの人生で一番の思い出になるだろう。



 大歓声の中、あたしはゲートへと入る。


 冬真っ盛りの中山は雪が降っているのに、熱気でむんむんしている。それは年末だというのに集まった競馬バカたちの熱い声援と、これから走る十六頭と十六人の静かな闘志のせい。


 一番人気はあたし――ではない。今年三冠を達成した期待の新人だ。ついで、二番人気があたしことファストリトリーブ。


 昨年度の障害競走で無敗のあたしに対する声援は一際大きかった。だけど、それだけではない。この有馬記念を勝利で飾れたならば、平地と障害の両方でG1タイトルを獲得した初めての競走馬となれるのだ。――有馬記念出場を果たした競争馬ならすでに存在していた。


 そんな大記録のことは、あたしの眼中にはなかった。


 意識は鞍上にいる騎手のことで占められている。


 久しぶりに会った桜花は前に見た時よりもずっと大人っぽく、その立ち姿からは風格がにじみ出ていた。中山大障害を勝利しあたしの鞍上を下りてからは、平地競争の方で随分と活躍していたらしい。というのも、G1のタイトルを得たことで我が子に乗ってほしいという馬主が現れたそうだ。あのファストリトリーブでG1を獲得できたならば、私のじゃじゃ馬もなんとかしてくれるのではないか――ということらしい。……納得いかないけれど、それは置いておこう。久しぶりの再会に水を差したくはない。


 この幸せな時間を、ただ噛みしめよう。


 ゲートへと入ると、出走までほんの少し待たされる。見ている奴らにとっては短い時間だけど、ここにいる存在、特にあたしたちにとっては永遠にも等しい時間。


 ホームストレートからやってくる轟くような歓声に、普段は平然としている精鋭中の精鋭たちも動揺を隠しきれていない。


 あたしといえば、騒音が全く耳に入っていなかった。心は凪いだ海のように平静を保っていた。


 意識は、目の前へ伸びるコースにだけ向く。


 ポンと体を叩かれた。


 それは合図。


 あたしを安心させる合図に、軽く――それでいて強く鳴いて応答する。


 手綱に力がこもった。だけども、それを持つ桜花の体は非常にリラックスしている。それが、手綱越しに感じる。


 人の言葉がわかるように、今なら桜花の気持ちが理解できる。同時に、向こうもあたしの気持ちが理解できているという確信があった。


 ファンファーレとともに、地響きのような拍手が轟く。


 そして、ゲートが開き、あたしは飛び出すのだ。

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その跳躍は、心を動かす。 藤原くう @erevestakiba

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