雷電為右衛門

 高原美術館から美ヶ原公園西内線を下り、県道六十二号を東に。随分下ったな。ビーナスラインは車山高原あたりで標高千六百メートルぐらいで、高原美術館あたりになると二千メートル近くになるんだよ。


「街まで下りたら五百メートルぐらいになりまっせ」


 ということはそこから千五百メートルまた登るってことなのか。大阪市内から阪奈道路で生駒山を越えるのより二倍以上あるってことだよな。


「伊吹山より、もうちょっと高いぐらいでっさ」


 行ったことないけど脅さないでくれる。東御市ってとこで浅間サンラインに入って道の駅雷電くるみの里で休憩。くるみの里はなんとなくわかるけど雷電ってなんなの? 雷電くるみって特産品でもあるのかな。コトリさんが妙に詳しかったけど、


「史上最強の相撲取りや」


 江戸時代の人であり九連覇を含む優勝二十八回の怪物みたいな力士だったで良さそう。優勝二十八回と言っても一年に二場所ぐらいしかない時代だから、


「三十五場所で二十八回の優勝で勝率やったら九割六分二厘、二百五十四勝十敗二分十四預五無勝負や」


 生涯でたったの十敗なの。それは凄いけど後ろにゴチャゴチャ付いてるのはなに。


「相撲は今も昔も相撲やけど・・・」


 まず仕切りから違ったらしい。今の大相撲は仕切り時間に制限があるけど、かつてはなかったそう。相撲の取り組みの開始は他の競技と違っていて、立ちあう二人の呼吸が合った時にするものなんだって。


 その阿吽の呼吸を合わせるのが仕切りで、かつては一時間以上も仕切り直しをやることもあったとか。制限時間が出来たのはラジオ中継が始まってからなのか。そりゃそうよね。三十分も一時間も仕切り直しをされたら実況中継に困るものね。


 仕切りが違うのはともかく今よりゆったりした取り組みが多かったそう。いわゆるがっぷり四つに組むってやつかな。実力が伯仲する者同士ががっぷりに組んじゃうと勝敗が付かなくなることがあり、


「今でも年に一回ぐらい水入りってあるやろ」


 何度も水が入るような取り組みになれば引き分けって判定があったそう。これはなんとなく分かるけど無勝負って、


「ああ、今でもビデオ判定使っても微妙な勝負ってあるやんか・・・」


 あるある、土俵際でもつれ合って落ちるやつとかね。今の行司は必ずどちらかに軍配を上げるのがルールだそうだけど、かつては行司が同体って判定も出来たそう。今なら同体は取り直しだけど、昔は取り直しがなかったから無勝負と判定されていたのか。じゃあ預かりは、


「今なら物言いや」


 あれだよね、土俵の周囲にいる審判がするやつよね。


「これを理解するには相撲取りの身分も入ってくるんやが・・・」


 身分? 相撲取りになるには相撲部屋に入門するのは今も昔も同じだけど、強い力士は大名に雇われたそう。つまりは武士になるってこと。相撲好きの大名がお抱え力士を家来にしていたのか。


「お抱え力士の勝負判定に大名家が口を出したらどうなるかや」


 そんなことをすれば揉めるだろうな。


「そういうこっちゃ。そういう時に勝負の判定を保留してまうのが預かりや」


 預かってどうなるの?


「永久に預かるだけや」


 今なら無勝負も預かりも引き分けみたいなものだな。優勝だって今なら千秋楽に延々と表彰式をやるけど、雷電の時代は優勝相当ぐらいなんだって。それでもこれだけ強ければ最強の横綱よね。


「いや雷電は大関や」


 えっ、もっと強いのが横綱にいたの。


「言うたやんか雷電は史上最強の力士やって」


 史上最強なのに大関って・・・そっか、まだ横綱制度がなかったんだ。


「横綱は雷電の時にもおってん。谷風と小野川や。谷風なんか雷電を鍛え上げとる。そやけどな・・・」


 今の横綱は制度上の地位で大関で二回連続優勝相当の成績で昇進できるもの。だけど雷電の時代は横綱制度がまだ確立されていなくて、谷風・小野川の次に横綱になったのは三十九年後の阿武松だって。雷電時代にも横綱はいたけど、横綱昇進規定みたいなものもなく、


「最強は大関で横綱は例外ぐらいの扱いやったでエエと思うで」


 コトリさんは笑いながら相撲は興行だって説明してくれた。今だって興行だけど、江戸時代はもっともっと興行で、人気を挙げるためになんでもアリに近かったぐらいで良いとか。谷風や小野川の横綱昇進もそんな人気取りの一環だったぐらいかな。


 考えて見れば本場所だって春と秋の二回だけ、それも十日間だけだから合わせて二十日だけ。それだけでよく食べていけたもんだ。


「だから大名の抱え力士になったりしてるやろ。家臣になれば給料が出るやんか」


 それと巡業だって。昔も江戸の本場所が一番だったみたいだけど、力士の収入として巡業は大きかったそう。相撲の人気は高くて江戸以外でも場所を開いたら大勢の観客が押し寄せたそう。


「大坂や京都にも相撲部屋があったぐらいや」


 だけど京都や大坂で場所を開くには江戸の力士を呼ばないと成立しなかったらしい。それぐらい江戸の力士はスーパースターだったみたい。


「今でちょっと近いのはプロレスかな」


 プロレスの興行も地方巡業が基本だそう。どこかの街の体育館に特設会場を設けて試合を重ねて、大きな団体ならフィナーレを東京の武道館とかでやるシステムみたいなものらしい。娯楽の少ない時代だから江戸で有名な力士が参加する地方興行は大盛況になったのだとか。


「番付かって今とはちょっと違う」


 実力主義は基本だけど、地位が今みたいに相撲協会が一元化してるのとは様相が違うみたい。


「今は相撲協会が勧進元やけど、昔は勧進元がスター力士をかき集めて興行しとるイメージやな」


 これが大変だったみたいでスター力士は大名の抱え力士になっているのが多いから、出場の交渉から始まったそう。抱え力士は家臣だから殿様の許可が下りないと出場できないってことか。大名からしたら貸し出してるとか、出させてやってるの世界になるのかも。


 大名だってわざわざ抱え力士にしているのは自分の家の名誉のためでもあるけど、雷電も参勤交代で国元に連れていかれて出場できなかった場所もあったんだって。


「そやから口出しも多かったそうや。無勝負や預かりが多いのもそうで、力士を抱えとる大名家の顔を潰したら勧進元は大変なことになるやろ」


 取り組み相手にまで口を出したとか。物言いも大名家の力関係が出たんだろな。番付もそうで、下手な地位に付けたら出場させないぐらいは平気で口に出しそう。そういう連中を宥めすかして相撲興行をやってたのか。それでも雷電の残した成績は驚異的なんだけど、強さの秘密ってあったのかな。


「単純には体格に恵まれていたからやろ」


 相撲はやはり体格の大きい方が有利な競技だものね。


「初代横綱の谷風も強かったけど、身長百八十九センチ、体重百六十九キロあったとされとる」


 それは大きいよ。今だって巨人だけど、江戸時代の人は今より小さいからまさに雲を突くような大男だったはず。


「雷電は百九十七センチ、百六十九キロあったとされとる」


 今でも余裕の大巨人じゃない。当時の力士だったら大人と子供ぐらいの差があったんじゃない。


「猪木とアンドレが戦うようなものや。長州や藤波でもエエかもしれん」


 誰なのそれ? それにしてもそんな大巨人が江戸時代に相撲取ってたんだ。それにしてもコトリさんは詳しいな。


「これでも歴女やからな。それにやっぱり強くて大きな男に魅かれるのは女のサガや」


 強いのは認めるけど、大きさは規格外過ぎる気がする。だってだよ、百六十九キロが乗って来たらエルは潰されちゃうよ。


「そやけど相撲取りは今でもモテるで」


 たしかに。相撲取りの奥さんって美人が多いし、体格だって華奢だものね。


「もっとも相撲取りと並んだら吉田沙保里でも華奢に見えてまうけどな」


 その女も誰なんだよ。でもどう考えてもまともに出来そうにないから、


「真昼間にその話はそこまでや」


 しまった。やり過ぎた。

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