紅蓮の爪刻
底道つかさ
第1話 黒曜に燃える瞳
この記録を見る人には期待外れかもしれないが、僕は主人公ではない。
僕には持ち得なかった。
彼女の勇猛、彼の悲愴、彼らの奮戦を。
しかし、だからこそこうして語ることが出来る。
逃げる道を許されず
救いの証も示されぬ
至れる終は既にない
それ故に戦い抗う事だけは決して止めなかった彼らの……。
いや、僕にとっては彼女の物語か。
ではご覧あれ。
誰にも知られず誰をも救う事を強いられ、世界の
●
走る、走る、走る。
今、僕の目には二つの視界が重なっている。
高層ビルに囲まれながらさんさんと春の陽気を通す計画立体都市。プロペラ四翼の飛行タクシーが摩天楼を飛び回り、立体ディスプレイが最新鋭の家事アンドロイドの広告を映す。急ぐことも無くAIにエスコートされ仕事をゆとり以ってこなす笑顔の人々。
それが一枚目の視界。
そこに重なって見えている。
圧し折られたビル。火の雨の様に降り注ぐ爆発した飛行機械の残骸と建物の瓦礫。真っ青なエラースクリーンをちぎり紙のように吐き出すディスプレイ。逃げまどい悲鳴を上げる人間たちと、それがかなわなかった成れの果て。
二枚目の、地獄絵図。
その両方が同時進行の現実として視界に映っている。
その中心にあれがいた。
ぼんやりした灰色の巨影。
折れたビルからちょうど頭を出すほどの高さは200メートルを超えている。人間みたいに立っているようにも、無数の手脚で地面をはいつくばっているようにも見て取れた。山のように膨らんで、決壊した川のように捩じくれた、無機物とも生物とも付かないカタチ。
それは二枚目の視界にだけ映る物であった。
動くたびに街を破壊するその恐怖に向かって、僕は走り続けている。
だって、彼女をあそこに見たから。
故に、彼女がいるはずだから。
僕は娯楽映像作品のヒーローでも何でもない。授業をサボり、目立つターコイズブルーのブレザーをロッカーに隠して街にいた程度に不真面目だが、不良と呼ばれるように反骨心を漲らせている訳でもない。半端で普通の男子高校生だ。
だが、あの灰色の巨影が目に映ったとたんに見える景色が二重になり、何も理解できず脳は混乱に打ちのめされた。
しかし、その中ではっきりと見たのだ。
巨影の眼前のビル。その屋上で自分と同じ制服を着て、
両方の視界にくっきりと映るその姿が、ビルが砕かれると同時に、自ら巨影に飛び掛かっていく光景を見た。
そこからは、もう何も考えていない。ただ走り、彼女の姿を探している。
だから気付かなかった。
自分がもう巨影の目の前に立っている事に!
「あ……ああっ……」
膝が砕け尻もちをついて見上げる。それでもなおてっぺんが見えない正体不明の何か。
一枚目の視界の中、周囲の人々が不振がって自分に白い眼を向けている様子が見えた。そして、二枚目の視界に映っている物は、赤く、黒く、飛び散って地面に広がった無数の人間だった物の痕跡。
巨影が腕(あるいは脚)を振りかざす。ビルを圧し折り、航空機をハエのように払い潰し、地面を割るそれが、僕に向かって降ってくる。巨腕はゆっくりと迫ってくるように見えるが、それはスケールを把握できない故の錯覚であることは分かっていた。
あと数秒でこの不可思議な視界も自分ごと消え失せる。
終わりを迎える思考の中、最後に考えたのは
(彼女、結局どこにいたんだろうな)
そんな事であった。
目を閉じて恐怖から逃げる。
その時。
「――――るぅあああッ!!」
少女の咆哮が轟いた。
爆音。
衝撃。
そして、灰色の巨影が上から叩き潰された。
「――ッ!?」
聞こえない叫びが口から出て、粉塵や瓦礫と共に後ろへ吹き飛ばされる。
地面に打ち付けられた激痛と吸い込んだ粉塵に激しくせき込みながら、片膝で再び立ち上がり煙の向こうに目を凝らす。僅か2メートルほどに前に何かが飛び降りてくる。
そこに、いた。
黒く輝き。
流麗になびいて。
その存在の強靭さを見せつける。
たてがみのように凛として威厳と美を備えた長髪。
探し求めていた彼女が、そこに立っていた。長袖の白いシャツにターコイズブルーの詰めたスカート、茶革のローファーを履く足元。そんな在り来たりの女子生徒が、正体不明の不気味な巨影に真正面から構えている。煤け破けた学校指定の制服姿がこちらへ振り替えった。彼女の瞳が僕を見る。
黒曜に煌めきながら、
その視線と向き合う。
戦塵が春光を乱反射させ、周囲を雲みたいに光で包み込む。その隙間から差し込んだ強い陽光が彼女をスポットライトのように照らした。思わず、全てを忘れてその姿と瞳に囚われる。
永遠に錯覚する刹那。
彼女が問う。
「あなた、終わるはずだったの?」
僕は答える。
「君を、探していた」
会話になっていないやり取り。だが、それは僕が彼女と初めて交わした言葉で、きっとこれまでと、これからの全部を現わしていたのだろう。
伝承を目撃したような不思議な感覚は、地面を突き上げた衝撃によって現実へ引き戻される。
少女が美しい容姿に見合わない舌打ちをした。
『
その声は奇妙な聞こえ方をした。音として聞きながら、目で文を読む様に、音を介さない別の感覚としてはっきりと捉えたのだ。一つの情報が二重に感じ取れる。
そしてどこから聞こえてくるか分からない、自分と同年代の少年の声で応じた返答も同じように聞こえた。
『固てえんだよ! 太いアンカーを三本も打ち込んでやがる。こんな風にアクティベートしてもジャギジャギになるだろうに。
『今は無理よ』
『はあ? 無理!? 今はって――』
『EOあり、数1、状態はホワイト』
『巻き込まれか、寄りにもよって! だがホワイトなら放って置いても大丈夫だ。アンカー破壊に行――』
『了解。それが聞きたかっただけよ』
最後まで聞かずに彼女、莉緒は通信(テレパシーとでも?)を止めて、改めてこちらを見て話しかけてきた。
「悪いけどここでじっとしていて。ちょっと行ってすぐ戻るから」
言うと、再び巨影の方へ向き直り、駆け出す準備の様に低い姿勢を構えて右手を頭の高さで横に掲げた。
そして、その時になってきづく。その右手は異形だった。袖を内から食い破って表れている腕は色形と質感もおかしい。肘から先がグラデーションの様に、白い肌から黒曜石の如く硬質で透明感のある黒へと変じている。形も、全体は人の手だが、大きさが色の変化と共に徐々に大くなり、掌は頭をすっぽり包めてしまう程で、指も太く長く鋭く、ロボットアームか猛禽の爪の様になっている。
その手の内側から深紅の光が揺らめき、剣の様な爪は真っ赤に染まっていた。
彼女が、跳んだ。
足元を爆発させるような勢いで地面間際を加速し巨影の懐へ突撃する。
巨影がそれを圧し潰すように手脚を振り落としてくるが、その度に異形の手の少女は地を蹴り、加速し、回避して前進する。
そして巨影と地面が接する土台の様な大きさの部位、その直前で深く身を沈め力をためた。最も強烈な加速を打って踏み込み、速度の最先端である右手の爪を食い込ませる。
「――るぁッ!」
獅子吼を放ち、そのまま一直線に最高速度で土台の左側に駆け抜く。
紅く輝く爪撃の一閃が土台を切り裂いた。
切り裂かれた部位は紅蓮の創傷が深々と刻まれ、火をつけた紙が灰になっていくように傷から崩壊し霧散していく。
巨影が身を跳ね上げ苦悶に体を捩る。そして出鱈目に手足を振り回して破壊を広げた。その中の幾つかは地面の彼女を叩き潰さんと打ち下ろされる。だが彼女は再び地を蹴って加速し、余波に触れる事すらなく回避していた。
その中、無尽に暴れまわる内の一本が明確にこちらを指向して攻撃にきた。再び恐怖で目を瞑る。しかし、命を吹き飛ばす衝撃は来ない。
眼を開く。
黒髪を靡かす背中が、巨影の手に比べればちっぽけなその右手で真っ向から受け止めていた。
異形の手が変成する。腕が更に巨大化し、深紅の爪が掴んでいる巨影の手の直径よりも長く伸びて、逆に包み返す。握り込まれていく右手の爪が巨影の腕に突き刺さり、破滅の傷を刻む。握り込まれた方が抵抗するように内側から膨張する。
「ふゥうう……!」
しかし異形の右手は意に介さず更に力を込め、その反撃ごと握り潰した。
破裂するように赤く崩壊する巨影の腕の残骸が宙を舞う中、巨大化した彼女の手が元の大きさに戻っていく。
『アンカーを一つ破壊。どう? 三島』
『流石だ黒獅子! 対象の
次々と起きる現象に呆然とする中、彼女が一息をついた。
ついで長身から見降ろすようにこちらに視線を向ける。まなじりがきりりと上がる長い睫毛の流麗な目。ほのかに赤く自然な艶を浮かべる唇が開く。
「言うまでも無いけれど、これは夢よ」
「あ……う……」
「強く刺激を感じていても現実ではないわ。その証拠に、人に話しても誰も信じない。壊れた街も人も無い。学校で私に話しかけても気持ち悪い眼で見られるだけよ」
そう言って踵を返す彼女。その飄々とした後ろ姿を見てとうとう混乱が爆発した。
「待てよ!!」
彼女の足は止まらない。
「あの影は何なんだ! この変な見え方は!?」
黒髪は歩みに流れたままだ。
「何より、なんで……。君はどうして此処にいる!? 君は一体何者なんだよ!!」
後ろ姿に変化は無い。思わず頭を抱えて俯く。何も答える気が無いのだと分かっても、言葉は止まらず叫び続けた。
「
「――待ちなさい」
彼女がこちらに振り返った。その表情の変化は片眉が僅かにあがっただけであったが、鉄が歪んだが如き強い驚愕の跡を示すものだった。
硬い声でこちらへ言葉を返す。
「あなた、あれが聞こえてたの?」
今までの無反応が嘘のように、焦躁すら感じさせてこちらを問い詰めてきた。逆にこちらが不安に駆られてしまう。
こちらの確認を取りもせず、彼女は続ける。
「レイヤー透視だけならともかく、共有認知まで連結していたとしたらそれは……」
『莉緒、対象をこっちに引き込むぞ! 三の、ニの、いちっ……』
『待って三島! このEOは――』
瞬間。
自分の視界が捲れていくのを捉えた。
それは風呂敷の端を掴んで持ち上げるふうに、視界が撓み、窄まり、上に抜かれていくように感じて。
落下というよりは、浮揚に近い意識の変転であった。
世界が変わるのか、自分が狂うのか。
何が正で何が負か。
どちらが表でどちらが裏か。
夢と現を分ける自意識の描点が曖昧になり、全てがまぜこぜになって色を失う。
意識が覚めると、そこは完全な廃墟であった。二枚目の視界に近いがそれよりもさらに酷い。
ビルが将棋倒しのように折れて二重三重に傾いでいる。空中回廊は悉く壊れ地面に残骸を積み上げていた。補装された地なんて最早一部も無く、抉られ剥き出しになった土砂の焦げ茶色が一面に広がっている。
先ほどまで見ていた二重の視界のどちらでもない景色。
その中に唯一つ、変わっていない物がある。
巨影。
その姿は最早呆けた灰色ではない。鮮明に形を持った醜怪な威容がそこにはあった。朽ちた建築の鉄骨に寄生樹が絡みつき合成されたような、廃棄物のようにも生物のようにも見える形容しがたい姿。ぎっしりと内側に詰め込まれていながら空っぽの隙間を持っている、山の如き胴体に比して細すぎる無数の触腕で蠢く巨体。
自分が死にかけ、彼女が叩きのめしたそれが存在していた。
余りの非現実な視界に、最初にその姿を見た時の様に思考が真っ白になる。
しかし、その自失は目の端に見えた黒髪のなびきを捉えて、自ら奮起させることで打ち払った。しっかり伸ばし切れない震える足で立ち上がり、横を向く。
威を魅せる濡羽色の長髪、燃える輝きの黒瞳、
色取り取りの黒で綺羅めく彼女がいた。
僕は問い投げかけようと息を吸うが、乱れた精神が呼吸をきちんと機能させずにせき込むだけとなる。そんな情けないこちらへ彼女は視線を向けた。
口の端を閉じ、眉をわずかに下げた表情の漆黒の瞳に映る僕の姿が、微かに揺らいだように見えたのは何故だろう。
言の葉が紡がれる。
「ようこそ。世界の
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