この花を君に

プロローグ

 そこは不思議な部屋だった。


 床、壁、天井が石壁のようなもので作られた石室いしむろ、窓や電灯が無く、唯一の出入口らしき場所も床まで届くほどの長めの暖簾で塞がれているため光源はない。それなのに天井全体が淡く光っていて、どこか陽の光を思わせるような明るく温かい光に満ちている。

 しかし室内には驚くほどに物がなく、スペースの七割ほどを占めるのはなにも物が置かれていない空間、ただしその空間の床一面に複雑で奇妙な模様が内側に描かれた真円が描かれていて、その模様の描かれた区画と入口の間を木製の長いカウンターが仕切るように設置されている。


 ぎ……ぎ……ぎ……


 その静かな空間を定期的に震わせている軋むような音。それはアンティークらしい趣のある木製の揺り椅子が揺れている音だ。その椅子に座る眼鏡をかけたひょろりと背の高い男が本を開きながらゆっくりと椅子を揺らしている。

 いくら室内がほどよく明るいとはいえ、閉塞感のあるこの部屋に一人でいるのを好む人はあまりいないような気もするが、男はいたって穏やかな顔でページをめくっている。その雰囲気から男がこの空間に慣れていることがうかがえる。


 軋む揺り椅子が奏でる規則正しい音だけが響く静謐な空気の中、不意に石畳の上の模様が淡い光を放ち始める。

 男はその光に気付くと、すっと本から視線をあげる。だが、初めてではないのか不思議な現象が起きているにもかかわらず動じる様子はまったくなく、揺り椅子に座ったまま石畳の光を見守っている。


 やがて、床の模様がひときわ大きな光を放って部屋を満たしたあと、光は床の模様に吸い込まれるようにして消える。光自体に多少の眩しさはあるものの特に害があるようなものではなかったらしく揺り椅子に座っている男が狼狽えている様子はない。しかし、部屋を満たした一瞬の光、その前後でこの部屋の中で大きく変わったことがある。


 それは先ほどまで何もなかったはずの模様の上に、ぎこちなく長剣を持ち、微妙にサイズの合わない革鎧を身に着けた茶色い髪の少年が呆然と立ち尽くしていたことだ。


 それを確認した男は本を閉じてカウンターに置くと、ゆっくりと椅子から立ち上がり、温かな微笑みを浮かべながら闖入者へと声をかける。


「いらっしゃいませ、お客様。突然のことで戸惑っているでしょうが、安心してください。この店ではお客様の様々なご要望にお応えできます。元の場所に帰ることも勿論できますし、そちらから見れば異世界であるこの地球という星(せかい)を観光することもできます。お悩みがあれば、誠心誠意ご相談に乗らせて頂きますし、その解決にご協力させて頂きます。お代に関しては一切頂きませんので心配はいりません。当店への報酬は、今現在あなたが持っている全ての持ち物をひとつひとつ私に見せて頂ければそれで十分です。あっと、すみません。私としたことが自己紹介もまだでしたね。私は当店の店主である大道おおみち具好ともよしと申します。ではあらためまして、ご来店を歓迎いたします。転移魔法陣前【よろず堂(仮)】へようこそ」

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