第2話

第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」

 まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。

かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。

 イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。


――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。



 簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒ようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。

 無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。



 「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」 


 最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。


 「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」

 「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」

 ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。

 「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」

 「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」

 「東。――あぁ、大鏡隊長か」

 「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」

ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。

 「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」

 「……温かいものなら」

 「了解」

ミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。

自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。

 その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。

 「……」

 「……」

二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。

 「応答」

途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。

 『No.38645およびNo.24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』

 「――命令を承認」

 応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。

 「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」

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